第14話
高校に入ると、秋子の美しさから雪子も持ち上げられるようになった。人々には仲睦まじい姉妹が美貌とそれ以外とに才能を分け合っているようで面白かったが、しかしふたりの前ではそれを口にしなかった。妹の前でそれをいうと、もう二度と口をきいてもらえないことになるし、姉の前でそれをいうと過激な論調で神経を病まされるからだった。
姉妹は自分にないものをもう一方が持っていると指摘されるのが嫌なわけではなかった。むしろ自分にあるものがもう一方にないとされるのが嫌だった。秋子が以前、言い寄る男が雪子の容姿をけなしたときのことが巷では有名だった。
「君の姉さんのことなんだけどさ」
一期上の先輩はそう切り出した。話す内容に窮してそう口走ったまでではあったが。
「なあに」
と秋子は放課後の教室に入り込んだ風を受けながら返した。目は爛々として水に濡れた花のようである。
「君の姉さんには一度だけ会ったことがあるんだ」
「あら、そうなの」
「うん、美術部の体験入部のときにね。むこうは三年だったから覚えていないと思うけど」
「へえ、体験入部なんてしていたの!」
秋子の瞳はまたいっそう輝いた。それは単に姉と同じ部活にいたという羨ましさであったが、その男子はうっかりと浮かれて自分への興味の瞳だと思った。
「うん、そうなんだ。あんまり上手ではないんだけど、小学校の頃は県で入選したこともあってね」
「それで、雪ちゃんの絵は観たの? どうだった?」
「あ、いや、うん観たよ。いやあ、あれは確かに凄かった。色感というのかな、色づかいがあきらかに抜きんでていたね。明るい色を基調としているのに、どこか暗い部分があって、しかしそれも考えてみると案外現実なんてもんはそういうもんなのかもな、なんて思ったよ」
「貴方ってしっかりとした審美眼があるのね。分析の力も! わたしなんて雪ちゃんの絵を観ても綺麗以外の言葉が出なくって困ってたの。わたし、借りるわ、あなたのその言葉」
男子は秋子に急にそこまで褒められたので嬉しさやら恥ずかしさやらで普段にない饒舌になった。そして絵の話であるかぎり、秋子はその饒舌に適度な相槌の愛撫を加えることを学んだ。愛撫は何とも言えない味わいがあった。全身をくすぐられてもそうはならないだろう、なんてその男子は思った。
一時間ほど話し込み、その男子は唯一失策を犯した。
「それにしても、芸術家は何かが欠けてないといけないというけれど、それは君の姉さんにも当てはまるね」
「あらそう? 雪ちゃんに欠けているなんて」
秋子の顔はすぐに陰ったが、男子は愛撫の感覚でほとんど盲目だった。
「たとえば何でもできすぎるところとか」
「ああ、それは言えるかもしれないわ。雪ちゃんは何でもできるんですもの。それも努力を随分とやってできるんですもの。それは努力せずにできることよりも全く素晴らしいことではないかしら」
「まあ、どうだろうね。そうかもしれないね」この男子は一方で自分の万能なセンスに過剰な自信があったから、そんな気の利かない返事しかなかった。
「それで言ったら、わたしが頼りすぎるところが何でも出来ることの欠点ね。わたしがたくさん雪ちゃんに相談だったり頼みごとをしたりしているけど、それでもニコニコとしてくれるんだからわたしが甘えきった子供のままになってしまうわ」
「いや、でも、君にもいいところはいっぱいあるさ」
「あらそう? でも雪ちゃんには敵わないわ。知ってる? 雪ちゃんて、もうT大への試験勉強をはじめているのよ。あんなにストイックならどんな大学からも引手あまたよ」
「いや、でも彼女は努力できるものならそのストイックさで何とかするかもしれないが、努力しようのないものは難しいんじゃないかな」
「それは誰だってそうよ。与えられたものがあるんだから」
「でも、君は与えられた側だろう。絵を描く側じゃなくて絵として描かれる側さ。むしろ姉さんは君ほど美しくなかったから、絵を描けるのかもね」
秋子は黙った。男子は自分の言葉がロマンチックな、実質的な愛の告白だと自覚したので、いくらか緊張した。
「貴方、やっぱり見る目がないのね」
男子は秋子の目がはっきりと渇くのを見た。それは造花の目で、それでも美しかったが、遥かに遠い距離の美しさだった。それまでその男子が愛でていた花瓶の花は、花のほうから人を離れたのである。
このある男子の悲惨な事実が広まって(すくなくとも秋子を狙う男子連中には一等悲惨なニュースだった)、それがいくつかの翻りを経て、雪子を持ち上げる男共があらわれた。
雪子は当惑した。いままで絵やピアノや勉強のことを賛美する人はいたが、風貌についていえば一部の少数者を除いて、優れているような扱いを受けなかったから。 雪子は一週間ほど気持ちが湧きあがり、秋子に話したりもしたが(そして秋子のほうは姉の数倍興奮していた)、しかし彼らの世辞がやはりどう考えても自分の評価に合わないとわかった途端、むしろ冷淡な心地になった。そして、彼らの言葉はとどのつまり秋子に近寄るための口実だという推理をたてるのも難しくなかった。しかし秋子を責めるわけでもなかった。秋子は雪子の幸福の象徴として、もう彼女の重要な核となっていた。
さて長くなった。しかし雪子の半生の浮き沈みはこれだけでは足らない。高校二年のころの水彩画の挫折、寝る間を惜しんだ勉強も当日の腹痛でT大には落ち、私立のJ大に通うことになったこと、そこで時田と付き合ったが、仕舞いにはこっぴどい別れ文句を言われたこと。秋子は姉をポプラの大木に喩えたが、しかしその年輪にいくらの台風が傷をつけたことか知れない。事実、雪子も知らない。語れる不幸のほかにも、彼女には無数の語るほどでもない不幸や不親切が絶え間なく襲ったのだから。……
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