第12話
夏樹がまた大学に向かい、父の和夫が帰宅したころ、ようやく雪子の姿が見えた。秋子が帰ったころはちょうど入浴中だったらしく、湯気だった寝間着の恰好だった。
「遅かったわね」
と雪子が訊いた。
「雪ちゃんもずいぶん遅いわ。妹へ感想も言わずに優先される用事ってなあに?」
「そんなこと言わないで。あとで話すから」
夕飯のあと、ふたりは二階の秋子の部屋に行った。
秋子の部屋は白を基調としたシンプルなもので、漫画とかテレビとかそういう雑多なものはひとつもない。そういう娯楽物はすべて姉の部屋で共有物として置かれ、秋子の買った漫画も雪子の本棚に寄贈していた。秋子が漫画を読みたいときは雪子の部屋で読み、テレビを観たいときは雪子とともに観た。そういうわけで秋子の部屋はミニチュアじみた、ただただ綺麗すぎる、生活感のない空気に充たされている。
秋子はリビングから持ち込んだ紅茶のセットを丸テーブルに並べて、お湯を注いだ。湯気はゆったりと立ち上り、まっさらな天井や壁に溶けて、カップのなかの紅葉色の鮮やかさをいっそう際立たせていた。
ふたりはまずとりとめもないことから話した。今日の演奏のこと、そのあと老人たちが秋子に様々な話をきかせたこと、雪子がこなかったから心配したこと、雪子から連絡が来てからは無性にお腹が空いて、それも我慢しようとしたが、帰路のプリン屋で欲望に負けたこと、実は六個あったプリンが四個に減っていたのは、夏樹と一つずつなのではなくて、秋子が二つとも食べ、夏樹は一口しか食べていないこと。
雪子は青年のハンカチを探したことを話したが、そのハンカチのついた血については何もいわなかった。そもそも、あの血についてあれから青年は何も説明してはくれなかった。彼はただ物々しい雰囲気だけを残して、大学の講堂に消えたのである。
秋子は聞きながら、一応の笑みを繕った。青年の風貌を詳しく訊ねたとき、案外よい印象をもってないことがわかって安心した。連絡先を交換していないことも秋子からすればよかった。
「わたし、てっきり恋でもしちゃったのかと思った」
念入りに、秋子はそういった。
「恋? そんなことではないわ。多分、他人にやさしくしたい日だったんでしょうね」
雪子は安楽椅子に揺られたような表情をした。とりあえず、秋子は自分の勘を、胸の奥にしまうことにした。
十二時を回るころにそろって歯を磨き、床についた。ほんらい寝室は別であるけども、秋子が駄々をこねたので雪子の布団にふたりが入った。秋子は雪子の大きな胸に顔をうずめ、雪子はその小さな頭に手のひらを添えた。
やんだはずの雨がまた降った。しかし音からして、昼のものと異なる。雨脚は激しく、部屋中が酔漢のノック音のように響いている。
秋子は右の耳から聴こえる姉の鼓動に耳を澄ました。心音はすべてを包んで、その窓を叩きつける水音さえも温かなものにした。雪子もおなじだった。秋子の吐息は、自らの全身に染みて、湯煎のように彼女の身体を溶かした。ふたりはそうやって、互いの身体を一にするようにして眠った。
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