第9話
ふたりが出会ったのは、入学して間もない、一か月も経たないころだった。
秋子は姉と同じJ大を目指したが、受かる見込みがなく、そのひとつランクの落ちるA大に入学した。
入学して三日目になると秋子はサークルを巡ったが、特にやりたいこともなく、特技も姉と一緒にしたピアノぐらいしかなかったものだから、気に入るものがなかった。音楽系のサークルは熱心なものも趣味程度のものもあったが、どちらも彼女には馴染まなそうだった。秋子は正直、姉のいないピアノには興味がない。
しかし秋子はサークルには入りたかった。それは雪子が「なんでもいいから入っときなさい」と言うのもあったが、何もつながりのない、一人きりの学生生活が苦痛であることは容易に知れた。秋子は一見楽そうなボランティアサークルをめぐった。
ボランティアサークルは三種類あった。ひとつはアフリカへのトレードオフ推進の団体、ひとつはカンボジアの教育援助の団体だった。秋子はそのどちらにもピンとこず、大きすぎる意義に気後れした。また体験で加入したときの、男たちの隠しきれないざわめきが嫌いだった。
『やっぱりボランティアサークルといったって、みんな善良で信念ある人ではないわけね。思想と行動が不一致というか、禁欲的じゃないというか、いや、別に禁欲的でないとこういうサークルに入ってダメなわけじゃないのだけれど』
そして秋子は訪れた三つ目の、地方創成に重きを置いたサークルに加入した。秋子ははじめ、都心で地方を論じることが馬鹿馬鹿しい感じがした。
「ねえ、このサークル、半年に一回は東北やら四国に行くらしいけど、そのあいだは何をするのかしら」
秋子はたまたま隣だった夏樹に話しかけた。
「そのあいだもやることはいっぱいあるよ。どこに出向くのかの検討もあるし、文化人類学や観光学で地方を研究する期間もある。あと、都内にも一か月に一回は出向いてボランティアをするらしいよ」
「都内? 地方じゃないのにいいの? よくわからないサークルね」
ほんの一週間だけ加入した夏樹はいくらかむっとした。
「いいかい、地方っていうのは何も経済が貧弱で、人口の減少が著しい地域を指すわけじゃないと思うんだ。そしてもちろん、地理的な箇所もその定義に関係がない。いわばそれらは結果であって、結果として、統計としての事象に固執すると、その本質的な問題から外れるんだ。右腕の骨を折ったからって皆が交通事故というわけではないだろう」
秋子は家族以外の人間に議論をかけられることなどなかったから、面食らった。いや面食らうどころではなかった。秋子はほとんど奇人を見る目で夏樹を見た。しかし一方で、ひとつ乗ってみたくもあった。秋子は平和主義者の喧嘩好きでもある。
「へえ、じゃあ、貴方の思う地方っていうのは?」
と秋子はできるかぎり知的な声をだした。
「それは、僕もない頭で色々と考えた。それで、やはり個人がそこを地方だと思ったら、その人にとっての地方なんだよ」
「なあに、それ。じゃあ定義なんてないとおなじじゃない。ひとつの定義を批判して、また別の定義を打ち出さないのは、なんだか変よ。定義のない宙ぶらりんなものより、たとえ的を少しずれていても定義のあるもののほうが支援や対処もしやすいわ」
「いや、定義がないわけじゃないさ。ただ定義のシフトが必要なんだ。数値的な定義ではなくてもっと感覚的なものだよ。たしかに僕の言っていることは堂々巡りに見える。けど、そういう堂々巡りのなかに地方という言葉の実質的な意味が浮かび上がるんだよ」
「へえ、ぜひ聞かせてもらいたいわ」秋子は笑うような仕草をしてみせたが、実際、笑いたいところなどひとつもなかった。
「まあ、そんな風に言わずに。……僕は地方というのが疎外的な意味合いがあると思うんだ。自分の中心ではないという感覚、人々が想定する人間像の本来性に外れているという感覚、そしてそれの一因が故郷にあるんじゃないかという感覚。もちろん、人が想定する人間像に『本来』という言葉の示すものがあるのかと言われるかもしれない。でも、人が顔も知らない人を語るとき、そしてそれをリアルなものに仕立て上げるとき、その人は都会的じゃない、辺境で生まれたりビルに囲まれて生きていない人間がそこに出てくると思うかい」
秋子はしばし黙ってまた返した。
「少し大げさな気もするわ。自分が仮に故郷について疎外的な意識があるからといって、いえ、疎外という言い方も大げさよ。定義として問題化するほど根本的なものなのかしら。それよりやっぱり経済やら人口やらのほうが大事な気がするわ」
「君、名前はなんだっけ」
「三船秋子」
「出身は?」
「田園調布」
「僕はその場所を知らない」
「東京の、大田区のところ」
「なるほど、わからないわけだ」
「有名だと思うけど」
「いや、そういうことじゃない。やっぱり君は日本の中心で育ったから、日々の故郷的疎外がわからないんだろうって。たとえば天気予報に地元が載らない。ワイドショーでは東京のショッピングモールやエンターテインメントパークの話ばかり。僕らが話題になるのは方言の特集か、台風の被害のこと。しかも台風情報なんかは僕らの被害そのものよりもその先の進路ばかり気にしている。台風がいつ自分たちのところで、どのくらいの強度でやってくるか、そのためのリトマス紙として僕らを報道しているのさ」
この地方青年の物言いは、いますぐにも沸騰するようである。
「それじゃあ、こんなボランティアサークルじゃなくてメディア系の勉強でもしたら」
「そう言わないでくれ、僕は君の返しに反論しただけなんだから」
秋子はこの青々しい議論が新鮮だった。いや若い議論というものはやっている側はいつだって強炭酸のような溌溂を感じるものだった。それが初対面の異性とあればなおさらで、男にちやほやばかりされた秋子は、目をしっかりと開き両のこぶしを握って話す夏樹が、いままで会ったどの男よりも純粋に見えた。夏樹の論はたしかに捻くれたようにもきこえたが、ちらちらと秋子の顔や身体を気にする男たちよりかはよっぽど真っ直ぐな幹に思えた。幹? その比喩を思いついたとき、夏樹が雪子に似ている気もした。それが一番の決め手だった。
夏樹と付き合うのに一年の月日は必要だった。秋子はまともな恋をしたことなかったから、夏樹を好きだとわかるとかなりはりきった。しかしそのおかげで大した苦労を感じずにすんだ。計画を考える時間もデートコースを調べる時間も楽しかった。もちろん、夏樹と会って話す時間は何よりも尊かった。話すうちに夏樹がその論じ方とちがってやさしい人であることに気づいた。気の利くわけではないが、議論以外の彼の言葉からは人への憎悪がなかった。そういう意味で夏樹は理性と性分がかけ離れているとも思った。秋子はむしろその乖離具合が好きだった。
ふたりは大学二年の夏休みに付き合った。
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