第3話

 真昼の月をたたえた夜空の下、現れた人影は一人の男性を形作った。

 感情に左右されることのなさそうな落ち着いた瞳が、レイをじっと見据える。その静かな威圧感にレイは言葉も出なかった。


「ラキタルを連れ戻しに来た」

「……え……?」


 淡々とした口調で、男はこの世界を作った三大神の一人の名前を口にした。

 太陽神アトラ、月神トネス、天空神ラキタルの名前は、昔話に必ず登場するので知らない者はいない。


「こちらに寄越せ」


 男はレイの思考が追いつく前に、言葉を続けた。


「ま、待ってください、私はそのような……」


 咄嗟に声を上げたが、レイには本当に心当たりがなかった。

 第一、神を人間の地に迎えるならば国をあげての儀式が必要になるはずだ。そのような行事はここ何年も見ていない。

 だが、男はレイには答えない。


「ラキタル、地上で過ごすにも度が過ぎる。戻れ」


 レイが男の言うことに答えようがなくて困っていると、慌てたように空色の生き物がレイの膝から降りた。そしてそれは、瞬きを一度するくらいの間に人の姿に変わった。


「待ってトネス! これにはわけがあるの」


 水色の生き物が人の姿になって、レイは初めてその声を聞いた。

 男性とするには幼く、少年とするには落ち着いた声だった。


「言い訳は聞かぬ。戻れ」

「ぼ、僕! 小さな島に精霊を住まわせようと思って! それで、どの精霊がいいかレイに相談してたの!」

「………本当か」

「え、ええと……」


 月神トネスの視線は鋭く、今にも容赦なく射抜かれそうだった。

 空色の彼の言動はどれも初耳で、かつそういった事実は全くないが、ここは頷かなければならないだろう。


「……仰る通りでございます」


 裏事情がどこまで見抜かれたかはわからないが、月神トネスは呆れたように溜息をつくと、その体を宙に浮かせた。


「……ならばラキタル、あの島はお前に預ける。せいぜい繁栄をもたらせ」

「ありがとう、がんばるね!」


 ラキタルの元気な返事に視線で応じると、淡く光り続けていたトネスの体は一瞬で消えた。

 途端に夜が青空に変わり、これまでのことが夢かと錯覚しそうなほど、当たり前の日常が戻ってきた。

 ただ、目の前の空色の生き物は、人の姿をしたままの天空神ラキタルだった。


「レイ、がんばろうね!」


 無邪気に笑うが相手は正真正銘神様だ。先ほど会話を交わしてしまった月神トネスも含めて、偽物かどうかを疑う余地はなかった。空の様相や自らの姿を変えるようなことは、人間にはできないからだ。


「も……申し訳ございません!」

「えぇっ!?」


 とにもかくにもまずは謝罪しかない。レイはがばあっと地面にひれ伏した。


「待って、待ってよ! どうして謝るの!?」

「それしかないでしょう! これまで数々のご無礼を……!」


 畏れ多さと恥ずかしさでレイは顔を上げられなかった。正体を知らなかったとはいえ、本気で愛玩動物だと思ってしまっていたのだ。

 彼を膝に乗せたり、足下ですりすりされたり、同じ布団で寝たり、どれも神様相手にしていたとなれば断罪は免れない。


「レイは何も悪いことなんかしてないよ! だから、島に精霊を住まわせるのを手伝って!」

「そ、それは……」

「お願い!」


 ラキタルは必死だ。

 手伝う以前に、精霊など目に見えないものを人間が扱うことはできない。彼のお願いにはそもそも応えられない気がした。


 気持ちが落ち着いてからようやく顔を上げ、彼にそのことを伝えたが、どうしても納得してくれなかった。他に頼める者はいないと言って引き下がってくれない。

 だからといって、レイも自身で判断することはできなかった。


 島に精霊を住まわせるということは、その島に命を吹き込むことと同じだ。


 仕方がないので、レイは友人に相談することにした。



    ◇



「……で、お前はどうすりゃいいか自分じゃ決められないと」


 レイがこれまでのいきさつを伝えると、友人のトーカは頬杖をついたまま話半分に聞きつつ、最後に一言そう言った。


「……そう」

「随分めんどくさそうなやつに懐かれたもんだな」


 トーカは自分のふわふわした長い髪を片手で弄ぶように梳きながら、レイの隣で小さく畏まって立っているラキタルに目をやる。傍目ではどちらが偉いかわからない。


「俺だったら真っ先に偽物かどうかを疑うが……姿を変えられるのは本当だって?」


 トーカが尋ねると、ラキタルはこくっと頷き、レイと出会った時のような空色の動物に姿を変えてみせた。人の形が一度空色に溶け、小さくなりながら動物の形に変わるのは、人間にはない能力だと認めざるを得ない。


「……ジャドニックたちには言ったのか」

「ラキタル様ということは、まだ……」

「オトモダチ以外にバレるとややこしくなる。カーリアンの言う通り、あいつらには言って、口止めしといた方がいいだろうな」

「……そうするよ」


 ラキタルはトーカの顔色を伺いながら、そっと人間の姿に戻った。

 トーカはそんな彼を遠慮なく呼び捨てにする。


「なあラキタル、お前が精霊を住まわせると月神に宣言したのは、この大陸の北西に浮いてる空っぽの島のことか」

「うん」

「レイに手伝わせるのはわかったが、どうやって進めるつもりだ? 手順はわかってるのか」

「あっ!」


 明らかにわかっていない顔をしてラキタルが声を上げた。


「ぼ、僕ちょっと調べてくる! わかったらまた来るね!」


 彼はそれだけ言い残すと、ふわっと姿を消してしまった。


「……だとよ。戻って来るまでに自分の仕事は片付けとくんだな」


 トーカが溜息混じりに言うと、レイはとりあえず頷いた。


「なんだ、いまいち腑に落ちてない顔だな」

「……だって、どうして僕なんかが……。他にもっと相応しい人がいるだろうに」

「神様がお前って決めたんだ。別にいいだろ」

「……手紙や記録の代筆くらいしか僕にはできないのに……」


 仲のいい友人たちと都で勉学に勤しんでいたら、故郷に帰った時には皆の役に立てるようになりたいと誰かが言い出し、区切りのいいところで揃って帰郷して今に至る。彼らは皆得意なことを生かして貢献していた。ハーテインとジャドニックは村の警護、ミゼリットは食糧の調達のための狩り、妹のカーリアンは薬草の知識の共有。その中でレイは、文字の読み書きができない人の代わりに手紙を書いたり、読んでやったりしていた。他の友人と比べると、それほど貢献らしい貢献にはなっていないような気がする。


「……レイ」


 俯き気味だったのをトーカに呼ばれ、レイは顔を上げた。


「お前は十分やってるよ」


 トーカは口元を緩めてそれだけ言った。

 たまに村人と話をすると、皆レイの世話になっていると言うからだ。

 レイは手紙に関することを仕事と言うが、時間を割いて世間話や悩みごとの聞き役に徹するのは、性格が穏やかで誰に対しても優しい彼にしかできないことだとトーカは思っていた。


「……ありがとう」


 レイは恥ずかしそうに笑った。

 自分のことに関する相談は、昔からトーカにしかできなかった。回りも頼りがいは十分にあるのだが、自分の長々としてしまう話を聞かせるのは申し訳なく感じるのだ。トーカは自分と同じ歳なのに兄のような存在で、話を聞いた上で真っ直ぐに助言してくれるのは本当に心強い。

 思い出したように、今度はレイがトーカに尋ねた。


「またすぐに遠くへ出かける? できれば、もう少しここにいてほしいんだけど……」

「そうだなー……お前が言うならそれでもいい」

「よかった」


 他の友人が帰郷してそれぞれの役割につく中、トーカだけはふらふらと旅をしていた。三日で帰ってくることもあれば、一ヶ月帰ってこないこともあり、たまに旅の話を聞くことはあるが、彼が自分から話すことは滅多になかった。

 曰く、自分のやるべきことが見つからないのだそうだ。どうやら旅の目的はそれを探すことのようだった。

 自分よりもずっと頭がよく、機転もきいて運動神経も良いのにとレイは思うのだが、彼が探しているのはやるべきことというよりも、興味が持てることなんだろうなと感じていた。



    ◇



 それから三日経ち、ラキタルは以前の空色の生き物の格好でレイとカーリアンの家の前に現れた。

 その間に友人たちに経緯を説明しておいたことを伝えると、早速ラキタルは元の人の姿に戻り、レイの提案で場所を変えて、トーカの家で本題に入ることにした。


「それで、どうやってあの空っぽの島に精霊を住まわせるんだ?」


 トーカの質問に、ラキタルは意気揚々と答える。


「アトラに聞いてきたんだけど、お手本にしてた星があるんだって。だから、僕もそれを参考にしようと思うよ」

「お手本にしてた、星……?」


 ラキタルは近所の人のように言うが、アトラとは太陽神アトラのことに他ならない。

 レイが聞き返すと、ラキタルは頷き、宙に指で大きな魔法陣を描いてみせた。

 床に対して垂直に描かれた魔法陣は、ラキタルが指を離すと模様や文字の一つ一つが光り出す。

 全ての線が光で繋がると、丸い外周の内側に描かれた模様が消えて真っ黒になった。

 何かに塗りつぶされたのかとレイやトーカは思ったが、それは魔法陣を通して映し出された向こうの景色だった。


 そこには、青い星が一つ浮かんでいた。

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