空はどこまでも空

リエ馨

第1話

 彼との出会いは、今でも鮮明に覚えている。



    ◇



 昼下がり、村の畑で何やら騒動が起きていた。


 そこは道よりも数段低くなっている畑で、見下ろすと一匹の生き物を何人かで捕まえようとしているようだった。

 通りかかったレイが目を細めて見ても、それが何なのかはわからない。空と同じ色をした、四つ足歩行の生き物だった。体高は膝ほどもない。


「こっちにおいで」


 慌てて逃げる様子についその生き物へ声をかけてしまったが、声量が小さすぎたかもしれない。追い回している連中は誰も自分の存在に気付かなかった。

 だが、その生き物は声を聞きつけたらしく、そこから真っ直ぐ自分の足下へ走って来た。


「レイ、お前のか! ちゃんとしとけ!」

「す、すみません」


 自分のものでも何でもないのだがとりあえず謝ると、連中は散り散りに帰っていった。

 空色の生き物は、じっと見上げた後、ぴったりとくっついたきり自分の足下から離れなかった。

 土埃で汚れてはいたが、触れるとふわふわで、温かい。

 そう、彼との出会いは、今でも鮮明に覚えている。



    ◇



「レイ、お帰りなさい……って、何して来たの?」


 カーリアンが振り向くと、全身びしょ濡れの兄が玄関に立っていた。


「え、えーっと……お昼の間外に出てたら何かを保護して、汚れてたから川で綺麗にしてやろうと思ったんだけど……」

「あー……一緒に落ちたか、その何かのせいでそうなったってことね。何かって何?」

「この子なんだけど……」


 そう言って、レイは腕に収まっていた水色の生き物を床に下ろした。


「……何……?」


 カーリアンが目を細める。

 まだ濡れているので細身の生き物、としかわからない。大きくて青い二つの目、三角の耳が頭にぴょこんと生えて、全身空と同じ毛色。しっぽも今は濡れているが、乾けばふさふさになるだろう。


「僕が読んだことのある本には載ってなくて……保護してみたけど、これじゃ餌も何を与えればいいかわからないよ」

「お腹が空いたら自分で勝手に食べるんじゃない? 人間だってまだ作られて三百年も経ってないんだから、知らない生物がいたっておかしくないわよ」

「うーん……」

「とにかく貴方は乾かさないと、また体壊して寝込んでも知らないからね」

「そうだった」


 小さな頃から体は強くなく、体調を崩すたびに両親や妹に看病されたものだ。その両親も今は他界していて、現在は妹と二人暮らしである。

 木造りの室内で唯一重厚に構えた暖炉に火を入れようと薪などを用意し、レイが台所の種火を取りに行こうとした時だった。


「えっ?」


 火花の音に振り向くと、空色の生き物の前で、いつの間にか暖炉の火が燃えていた。


「カーリアン! 火がついてる!」

「はいはい」


その声に生き物はびっくりしたようだが、こちらを見もしない妹からは適当にあしらわれてしまった。


「君がつけたの? すごいね」


 レイが生き物に声をかけ、暖炉の火に目をやると、炎はしっかり燃えていた。これはすごいことだ。自分が種火なしで一から火を起こそうとすれば、確実に痺れを切らしたカーリアンが「貸して」と道具一式を取り上げに来るだろう。


 空色の生き物はレイの大きい声に驚いたものの、怒られたのではないとわかるとびくびくする様子はなくなった。


「え? まさか、その子がつけたの?」

「そうだよ」


 事態を把握したカーリアンが驚いたように戻ってきた。確かに、種火もないのに暖炉の炎が燃えている。

 その妹が面倒臭そうに呟いた。


「……小さいしかわいいから、新種の愛玩動物かと思ってたのに……」

「魔法が使える種類がいてもいいんじゃないかな」

「そういう問題じゃないってば」


 きょとんとする兄に、妹が説明を加える。


「人間が魔法を使えないのに、魔法を使える愛玩動物が作られたら取り合いになっちゃうでしょ」

「それは……そうか」


 妹の言う通りだ。良くない争いの火種になりそうな気がしてならない。


「そんなことにはさせないよ。僕と君が黙っていればいいんだし」

「動物を飼うのは嫌よ。色々面倒だもの」

「カーリアン!」

「野生の生き物として作られてるかもしれないじゃない。自然に帰すのが一番妥当でしょ」


 少しの間とはいえ、時間を共有したせいで別れが惜しくなってしまったのは事実だが、妹の言うことは決して間違ってはいない。

 ここに置いておくことで、この生き物に良くないことが起こらないとも限らないのだ。それはお互いのためにならないだろう。


 服を着替え、暖炉で濡れた髪や空色の毛並みを乾かしてから、出会った畑の近くに生えていた大きな木の下まで連れて行った。そして、言葉が理解できるかはわからないが、膝をついて視線の高さを近づけ、事情を説明する。

 空色の動物は、決して鳴くことはなかった。ただ毛並みと同じ空色の大きな目でじっとレイを見上げ、頭を撫でてやるとその動きに合わせて目を細めた。柔らかくて短めの毛の感触の下に、しっかりと頭の骨の感触がある。皮膚の下に流れている血液で、手のひらに温かみを感じた。それは、命と接している感覚だ。


「……っ、じゃあ、元気でね」


 最後にそう声をかけて、レイは立ち上がった。そこからはもう大きな目を見ることができなくなって、勢いに任せて踵を返す。

 振り返ることはできなかった。また目が合ってついて来てしまってはいけない、もしくは、もうそこにいないかもしれない。


 寂しさを振り切るように、早足で家に戻った。



    ◇



 妹が作った夕食を済ませて一息ついたところで、食後のお茶をいれながら彼女が声をかけてきた。


「でも珍しいわね、生き物を連れて帰ってくるなんて」

「え?」


 置かれた木製のカップを手に、レイが聞き返した。


「ジャドニックやミゼリットみたいに元々動物が好きならわかるけど、そういうの苦手じゃなかった?」

「……まあ……」


 言われてみればそうだ。名前が上がった仲の良い友人は二人共動物好きで、よく余所で飼っているのを構ってやったりしている。だが、自分は確かにそういう触れ合いは苦手な方だった。


「大きいのは……怪我しそうだし」

「ああ、あの子ちっちゃかったものね」


 思いつく理由はそれくらいだった。妹はくすくす笑ってから言葉を続けた。


「でもね、そういうのはすごくいいと思う。今回はこうするしかなかったけど、書物で得る知識と、実際に触れてわかるものは違うと思うから」

「……うん……」


 頷きながらも、レイは正直、どうして自分があの生き物を助けたのか、わざわざ川の下流まで連れて行き、汚れを落としてやってから家に連れて帰ったのか、理由は説明できなかった。いつも自分の行動の理由は把握しているつもりなのに。


 彼女の自分を肯定する言葉が妙に頭に残って、その日はなかなか寝られなかった。

 それに、目を瞑るとどうしてもあの生き物の大きな瞳を思い出してしまう。

 あの温かい生き物ともっと一緒にいたかった、何か他にもしてやれたことはあったかもしれないのに、と後悔しているうちに、いつの間にか睡魔に忍び寄られていた。



    ◇



 夢の中で、また会えたらいいな、なんて子供のような願いごとを唱えていた。

 すっかり大人になったのに、我ながら本当に拙い願いごとだ。

 それほど綺麗な瞳だった。

 妹の言う心配事は確かにある。共にするが故にわからないことがわかってしまい、争いの元になるのではという懸念。

 それでも、やはり興味と脳裏に焼き付いたあの瞳が勝ってしまう。

 起きたらまたあの木のところに行ってみようか。仕事の合間でもいい。


 まどろみの中でぼんやり考えていたら、突然妹に起こされた。

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