銀杏

あべせい

銀杏



 とある山中に、ぽつんと建っている。

 「水気神社」。

 造営されてからどれくらい経つのかは、だれも知らない。とにかく、古い。禰宜は無論、管理する者もなく、朽ち続けている。

 それは、鳥居を見ただけでわかる。笠木、島木、貫と呼ばれる3本の横木はすでに崩れ落ち、二本の柱だけがかろうじて建っている。

 拝殿は、扉が閉じられ、内部を窺うことはできない。拝殿にあがる階段もところどころ抜け落ち、拝観者が久しくないことを物語っている。

 その日、ひとりの男がやってきた。

 初冬のこの季節、色あせた紺色ジャンパーに、同じく元の色がわからないほど褪せたズボンを身に着け、風采はあがらない。

 ズボンのポケットに手を突っ込み、取り出したのが10円玉。目の前の、形ばかりの賽銭箱にそれを投げ入れると、神妙に二拍二礼一拝し、しばらく頭を垂れたまま身動きせず、じっとしている。

 男の名は、「寿夫」。

 寿夫は、上体を45度に傾け、心の中で念じている。

「会わせてください。もう一度だけ。妻も会いたがっているはずです……」

 このことばを繰り返している。

 男の背後に、もう一つの人影が……。

「あなた、このところ毎日のようにみえますね」

「ハァ?」

 男は、姿勢を戻して、振り返る。

 野球帽を目深にかぶり、ジーンズの上下を着た中年男が、薄ら笑いを浮かべて立っている。

「あなた、どなたですか?」

「おれ? おれは、名前がない」

「名前がない、ってどういうことですか?」

「必要ないからだ」

「必要ない、って?」

「きさまは名前が必要なのか?」

「名前がないと、呼んでもらうときに困るでしょう」

「おれの世界では、その必要がないということだ。そんなことはどうでもいいだろう。きさまが毎日ここにやって来るのは、なぜだ。おれはそのことに興味がある」

 ジーンズの男は、そう言って、寿夫の肩越しに、拝殿を見つめる。

 いつも閉じているはずの扉が、半分近く開いている。

 拝殿の奥には、この神社のご神体とされる直径30センチほどの銅鏡がある。

 元々は遠目からでも、その輝きがわかるほど、キラキラと光を放っていたが、いまはその在り処がわからぬほど薄汚れている。

「私がここに来るのは、お願いのためです」

「願い? なんだ、それは……」

「亡くなった妻と話がしたいからです」

「亡妻と会話がしたい、か。難しい注文だな……」

「願いはかなわなくても、ここに来ると気持ちが落ち着きます。いいンです。それで」

「いつ亡くなった?」

「亡くなって、2年になります」

「2年か……もう少し早ければな……」

 寿夫は、ジーンズ男の脇をすり抜けて、苔むした参道に。

 すると、

「ここに来て、幾日になる?」

「きょうでちょうど45日ですが……」

「45か。それでおれの脇がかゆくなったのか……おまえ、年は?」

「33才です」

「亡妻は?」

「私と同い年です」

「……よし、わかった。きさま、明日からここに来て、拝殿にあるご神体の鏡を磨け。根気よく、磨いてみろ。願いがかなうかもしれない」

「どういうことでしょうか」

「どういうこともなにもない。そういうことだ。いやなら、やめておけ。それまでだ」

「あなたは、どなたですか。この神社とどういうご関係ですか?」

 しかし、ジーンズ男は、寿夫に背中を向けたまま、無言で拝殿の階段をのぼっていく。すると、たちまちその姿は掻き消えた。

 拝殿の内部は昼でも薄暗く、ひとの姿を隠してしまう。

 寿夫は、夢でもみていたような不思議な感覚に襲われた。


 翌日。

 寿夫は昨日と同じ時刻に、拝殿の前に立ち手を合わせた。

 すると、ジーンズ男が前日言ったことばが湧き出るように蘇った。

「拝殿にあるご神体の鏡を磨け」

 肩から下げている布バッグのなかには、昨日ホームセンターで購入した高硬度の耐水性サンドペーパーが入っている。

 寿夫はそれをバッグに入れたことさえ、このときまで忘れていた。

 寿夫は、拝殿の階段をあがると、埃とクモの巣にまみれた祭壇の最上段から、ご神体の銅鏡を両手で抱えあげた。

 ずしりと重い。20kg近くはありそうだ。

直径は30センチほど。厚みは5ミリくらい。

 寿夫は両膝を床につき、銅鏡を目の前の床に静かに置いた。

 銅鏡の表面を袖でそっと拭う。ほこりは取り除かれたが、うすぼんやりしていて何も映らない。

 鏡なのだから、磨けば顔が映るはずだ。

 寿夫は、ジーンズ男の言ったことばの意味を理解したつもりでいる。

 そして、鏡のなかに、妻が現れる……と。

 寿夫は湿らせて持参したハンカチで鏡を撫で、サンドペーパーで磨いていった。

 どれくらい時間がたっただろうか。

 振り返ると、外は薄暗くなっている。

 銅鏡は一向に曇りがとれない。何十年の蓄積か、埃がおりになり、固くこびりついている。

 寿夫はバッグから風呂敷をとりだすと、銅鏡を包み、ご神体を支えていた木枠に、自宅から忍ばせて来た丸盆を裏返しにしてたてた。


 寿夫の自宅は、公営団地の4階。

 古い団地で、エレベータはない。その3LDKに、10年前、結婚と同時に入居し、妻との新婚生活が始まった。

 もっとも、当初内部はリフォームされ、それなりに快適だった。

 しかし、2年前、妻が病で亡くなると、とたんに家の中は、ゴミがちらかり、薄汚く、悪臭が漂うようになった。

 こどもがいれば、寿夫もそれなりに気を遣ったのだろうが、幸か不幸か、子宝には恵まれない、可もなく不可もない8年の結婚生活だった。

 寿夫は改めて、妻のことを考える。

 妻はいまの職場で知り合った女性だった。亡くなるまではそれほどには感じなかったが、いま彼の心は妻への思いしか受け付けなくなっている。

 妻は完璧な女性ではなかったが、寿夫にとって理想の女性だった。怒ることもあった。不平不満をもらすこともあった。

 寿夫を大切に思ってくれた。どんなときも。

 なくして、その存在の大きさを知る、というのはよく聞く話だが、寿夫の妻はそれ以上の存在だった。

 妻に会いたい。話がしたい。あのやさしい、すべてを受け入れてくれる笑顔が見たい……。

 寿夫は、書き物机の上に持ち帰った銅鏡を置いた。

 3000番手のサンドペーパーを使い、鏡の表面を研ぎだした。

 原因のわからない付着物などの汚れは、なくなった。

 しかし、くもりは消えない。サンドペーパーの番手をさらに大きくした。10000、20000を使い、8時間磨き続けた。

 指が固くなり、手がおかしくなった。

 力が入らない。思うように動かない。

 翌日は、早朝から、30000番手のサンドペーパーを用いて、磨いた。

 5時間後。

 くもりは取れ、通常の鏡のような輝きが現れた。

 しかし、不思議なことに、何も映らない。寿夫が銅鏡を覗きこんでも、寿夫の顔が映らない。

 こんなことがありえるのか。街のガラス窓だって、通行人を映し出すのに……。

 ただ、光は跳ね返している。太陽にかざすと、反射した光が部屋の壁に、渦巻き状の明るい輝きをつくる。

 寿夫は、諦めた。この銅鏡は、そういう性格の鏡なのだと考えた。そして、その日の夕、元の拝殿の奥に戻した。

 

 俊夫の神詣では翌日も続いた。

 妻に会う以外、気持ちの落ち着かせようがない。

 数日後の、冬晴れに恵まれた午後。

 それまで拝殿奥のご神体には、何の反応もなかった。ところが、この日は太陽の日差しが強いせいか、ご神体が光った。

 太陽光が、拝殿奥まで差し込んだのだろう。銅鏡がその存在感を誇示するように、キラッキラッ、と何度も輝いた。

 しかし、それだけ。鏡が太陽光を反射する、単なる物理現象に過ぎない。

 その夜、寿夫は昼間に続いて拝殿を訪れた。

 妻の祥月命日ということもある。

 願掛けをして、100日を過ぎている。

 大きな月が妖しい光を放っている。

 そのときだった。

 とてつもない強い光の束がご神体から、寿夫のほうに放たれた。月光の反射に過ぎないのだろうが、寿夫は身の危険を感じ、咄嗟に体をひねってかわした。

 時計を見ると、午前零時。

 かわされた光の束は、そのまま一直線に走り、境内の東南隅に立つ、樹齢千年といわれる、幹周り6メートルの銀杏の腹に突き刺さった。

 しかし、銀杏は身じろぎひとつせず、光を吸収して静寂を保っている。

 銀杏の枝々は黄色く色づいた葉で覆い尽くされ、晴れた昼間には多くの見物人を集める。この寂れた神社が一年で最も賑わう季節でもある。

 そういえば……妻は銀杏が好きだった。橙色に色づいた銀杏の葉を見つけると、比較的こぶりの葉一枚を、財布の中にしまっていた。

 寿夫は亡き妻を想い、銀杏の樹に歩み寄った。

 巨木のごつごつとした木肌に掌を這わせる。

 と、直径1センチにも満たない小さな穴が指先に触れた。

 穴は新しい。光の束を受けたためだろう。寿夫は、穴の深さが知りたくなり、胸ポケットのボールペンをそっと挿しいれてみた。

 と、

「イタイッ」

 寿夫は、思わずボールペンを引き抜いた。

 声がした。確かに……。

 それは、妻沙里の声だった。


「沙里、いつまで、いられるンだ?」

 寿夫は、翌日から毎夜、零時きっかりにご神木を訪れた。

「わからない。こんなことができるなんて、わたしは知らなかった。いま、自分がどうなっているのかさえ、わからないのに……」

 寿夫は、ご神木の幹に向かって話している。

 幹の穴からは、懐かしい沙里の声が響いてくる。

 これは、夢かも知れない。しかし、そんなことはどうでもいい。妻と話ができるだけで、満足しなければ……。ただ、会話はわずか数分しかできない。

「もう、行かなくては……。わたし、胸が苦しくなるの。明日にして……」

 最後に沙里はそう言い。声が煙のように消えていく。

 寿夫がまず尋ねたのは、

「いま、どこにいるンだ?」

 しかし、沙里の返事は、

「わからない。自分の形もわからない。でも、あなたはよく見える」

 寿夫は、さらに、

「会いたい。どこに行けば、会える」

「それは、できないみたい。わたしは、自分のことさえ、よくわからないのだから」

「沙里、おれはひとりでは生きていけない」

「無理を言わないで。わたしだって、ひとりになりたくなかった。でも、わたしはいま、いつもあなたを見ている。どんなときも……」

 深夜、このようなやりとりが一週間、続いた。

 寿夫は思った。

 妻には実体がない。声でしか、感じることができない。

 7日目の深夜。

 あの男が再び現れた。

 寿夫が銀杏の幹に、いつものように耳を近付けたときだった。

「声だけでは物足りなくなった、だろう?」

 その通りだ。

 寿夫は男を見た。

「妻の体に触れたい……できませんか?」

「それはタブーだ」

「唇だけでも……お願いします」

 男は薄ら笑いを浮かべる。

「ダメですか?」

 目深に被った男のキャップが左右に動く。

「ぼくはどうすればいいのですか? 生きていけないのです」

「代わりを探すンだな」

 代わり!? 妻の代わりがいるわけがない。沙里のような女は二人といない。何度も自分の心でのなかで繰り返していることだ。

「そっくりとはいかないだろう。しかし、よく似た女には出会えるはずだ」

「ぼくは妻がいいンです。いくら似ていても、妻ではない。代わりなんて考えられない。考えたくもない……」

「もう、おまえに話すことはない。二度と会わないだろう」

 男は背中を見せ、足早に遠ざかる。そして、たちまち、闇の中に姿を消した。


 寿夫は駅に急いだ。

 突然、約束を思い出したのだ。

「駅のホームでお待ちしています」

 今朝、目覚めたとき、その声が蘇った。まるで、見知らぬ土地で出会った打ち上げ花火のように。

 声に聞き覚えはあるが、それを詮索する余裕はなかった。約束の時間をすでに10分以上過ぎていたから……。

 走りながら、いつ、どこでした約束なのか。考えたが、思い出せない。

 駅に着いた。改札を入る前に入場券が必要なのだと気がついた。電車など、妻が亡くなってから一度も乗っていない。

 小さな駅だ。ホームは上りと下りの二つ。

 改札を入ったすぐのホームは上りだ。

 人はまばらにしかいない。

 ホームは、四両編成の電車がちょうど埋まる長さだから、さっと見渡せばわかる。

 しかし、待ち人はいない……。下りのホームにもそれらしき人は見当たらない。

 念のため、寿夫はレールの下をくぐる地下道を伝い、下りホームに行った。

 ホームには、地下通路からの階段を上がったところに、ベンチが二つあるが、だれもいない……。

 そのとき、寿夫は、約束した相手の顔を知らない気がした。

 なんということだ! バカげている。寿夫は、思い出した「約束」について考える。

 夢だったのか。

 しかし、

「駅のホームでお待ちしています」

 の声は、その響きとともに耳の奥底に残っている。

 妻沙里の声なのだろう。寿夫は沙里以外に考えられない、と結論した。

 しかし、それでは妻と会話したことになる。

 いつだ。どこで? 寝ているとき以外、考えられない。ということは、夢……。

 寿夫は、下りホームのベンチの一つに、力なく腰をおろした。

 夢と現の違いもわからなくなっている。

 どうするか。起きぬけに駅まで来たから、朝食はまだだ。朝食といっても、食パン一枚にコーヒーだけだが。

 寿夫は空腹を感じ、駅周辺の飲食店を思い浮かべる。

 自宅に戻っても、食料品は底をついている。週に一度の買い物を、先々週以来、怠っているためだ。

「お待ちですか?」

「エッ……」

 突然、声と同時に人影が差して、寿夫は顔をあげた。

「失礼ですが、このベンチに財布を落としたようなのですが、ご存知ありませんか?」

 美人だ。

 寿夫は、亡くなった妻に似ていることに驚かされた。

 しかし、亡くなった妻より若い。30代の頃の妻だ。

「すいません。気がつきませんでした」

「そうですか……」

 女性は肩を落とし、そのまま寿夫の隣に腰かけた。

「お困りでしょう。わたしに出来ることがあればおっしゃってください」

 寿夫は亡き妻といまのようにベンチに腰掛けた日を思い出す。

 あれは公園のベンチだった。散歩の途中、立ち寄った公園。

「恐れ入りますが、一緒に交番に行ってくださいませんか?」

「はい。交番はすぐ近くにあります」

 駅の踏み切りのすぐそばに交番はある。

 女性は虚ろな目をしたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 寿夫は女性を先導するように一歩先を歩いた。

「すいません。あなた、お名前は? わたしは伊咲(いさき)といいます」

「ぼくは、寿夫です」

 妻の名前は、沙里。全く違う。

 寿夫は伊咲と一緒に交番の中に入った。

 彼女が財布をなくしたと伝え、彼女が勧められたパイプ椅子に腰掛けて説明している間、そばに立っていた。

 10分ほどで終わり、二人は交番を出た。

 交番には若い警官が二人いたが、二人とも寿夫と伊咲の関係を怪しまなかった。

 恋人とでも思ったのだろうか。

 寿夫は、交番の目の前にある交差点で信号を待ちながら考える。

 このあと、どうする?

「お財布、見つかればいいですね。じゃ、これで……」

 なにが「これで」だ。このまま別れるつもりか。おれは、別れる気もないのに、交差点を渡ろうとしている伊咲を置き去りにしようとした。

「寿夫さん」

 おれは、グッと立ち止まる。そして、振り返る。

 10数年前の沙里にそっくりだ。

 伊咲まで5、6メートル。寿夫はすぐに彼女のそばに戻った。

「どうかしましたか?」

「もう一度、自分で探したいンです」

 それはいい考えだ。寿夫は納得した。

「ホームに戻ってもう一度探して、それから自宅から出てきた道順を逆に遡ればいい……」

 伊咲は、寿夫の提案ににっこりした。その笑顔は、ますます沙里に似てくる。

 二人は、もう一度最寄り駅のホームに戻った。

 不思議なことに、ホームにいるひとは、全員同じ方向を見ている。その方角に、なぜか電車が停止している。

 二人はベンチの周囲を手始めに、ホームの端から端まで探した。

 しかし、見つからない。

「駅員にも届けておいたほうがいいです」

「気がつかなかったわ」

 伊咲が先に立ち、駅の改札に行き、駅員に事情を話した。

 寿夫は、一緒に駅事務室に入り、伊咲のようすを見守った。

 駅に財布は届いていなかった。

 伊咲は紛失届けの手続きを終えると、

「わたしの最寄り駅は、もう一つ都心寄りなのです。でも、余り変わらないから、最近はこの駅まで歩いています。行きましょうか」

 伊咲は、財布をなくしたショックから立ち直ったようだった。

 二人は駅前交差点を右に折れ、私鉄のレール沿いに続く歩道を歩いた。

 レールを見ると、電車が止まっている。ホームから見えた電車のようだ。

「そうだ。わたし、その境内で休みました」

 伊咲はそう言って歩道から逸れると、小さな家一軒分ほどの空き地に入っていった。

 奥に、小さな祠があり、手前には小さいながら鳥居もある。以前は神社だったのだろう。

 伊咲が境内で呼ぶ空き地は雑草が生え、手入れされているようすがない。

 境内の隅に、枝いっぱいに茂らせた小さな銀杏の樹が一本あり、伊咲はその樹の陰にあるベンチに腰掛けると、寿夫を手招きした。

 寿夫は伊咲の隣に腰掛けたが、急に落ち着かなくなった。

 おかしい。やはりおかしい。

 季節は初冬だ。こんなところに以前は空き地はなかった。銀杏の樹も……。

「伊咲さん、あなたはどなたですか」

 寿夫は、何かを感じとって言った。

 伊咲は、下を向いて笑っている。

 その横顔は、知り合った頃の沙里に生き写しだ。

「寿夫さん、ここはいいところよ。あなたはわたしの大切なひと。それでいいでしょう」

 いいわけがない。

「伊咲さん、ひょっとして、あなたはぼくの妻の親戚の方ですか?」

 姉妹なら理解できる。しかし、妻に妹がいるとは聞いていない。

「それだとあなたは安心できるのね。でも、そうじゃない」

 伊咲はくだけたもの言いになった。

「あなたは急にこちらの世界に来たの。だから、わたしはあなたのそばに来て、こうして話ができる。知り合った頃のように……」

「エッ……」

 寿夫はようやく悟った。妻に会いたくて、ホームから電車の前に飛び込んだ。

 ホームにひとがいなかったのは、閉鎖されていたためだ。電車が走っていないのは、事故のせい……。

 寿夫は死の世界にいる。

 伊咲は、寿夫が出会ったときの沙里だ。

「わたしはこの世界で生まれ変わったの。だから、名前を変えた。自分の好きな名前に……」

 沙里は親がつけた名前が気に入らないとよくこぼしていた。

 「去り」を連想するからのようだが、寿夫にはその気持ちがよくわからなかった。

「ぼくも名前を変える。『としお』はやめて……」

「どうするの?」

「伊咲に倣って、『伊佐夫』にする」

「いいわね。いさお、好きだわ」

 整然と整備されたその公園の前を、青年が通りかかった。彼は、ふと公園のベンチを見て、頭を傾げる。

「あの枯れ葉……」

 ベンチの座板に、色づいた銀杏の葉が二枚、仲良くたわむれるようにからみあっている。

 風に吹かれ、楽しそうにくるくると舞い続けて……。

                  (了)

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銀杏 あべせい @abesei

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