祭りのおわりに

梨ノ木音羽

祭りのおわりに

 今日も彼女は来ない。本来は別の予定が入っていたのに「今日しか空いていない」というから合わせたのに、当然のように遅刻してくる。

 これまでも約束していた舞台のチケットも有名店の予約もたまに作る夕食も幾度となく無駄にしてきた。記念日のケーキは、虚しくなって無理やり胃に押し込んだこともある。

 別に彼女が悪い訳ではない。

 ただ外国を相手にしている仕事のせいか、急に仕事が入るとプライベートが犠牲になるだけの話である。

 その偶然の被害者がいつも私なだけで、それももう今日で最後である。

 今日はどれくらいで彼女は来るだろうか。スマートフォンの画面を点灯させても新着通知はない。

 これまで決して約束を忘れていることはなかった。だからもしかしたらなんて考えず、疑うことはしない。

 ただ遅れるだけ。

 ただ連絡が来ないだけ。

 苛立つ経験も虚無感にさらされることも多々あった。しかし今日で終わりと思えば、不思議と感傷的でもある。

 併設されているカフェで待つことも考えた。

 連絡があれば、エントランスに迎えにくればいい。

 今までだってそうだったじゃないか。

 それなのにそうする気が起きないのは、今日が最後だから。

 今日くらいは、待ちぼうけを楽しむのも悪くない。

 広々とした吹き抜けのあるテラスに座るとぼんやりとスマートフォンを眺めた。

 今の時代は、時間を潰せるものが多くていい。突発的な空き時間も手のひらサイズのモニターが間を取り繕ってくれる。

 彼女と出会った頃はまだガラケーで、時間を潰すにも手持ち無沙汰で、まだまだ早熟だった。

 待つという行為に憤りさえも覚えていた。そのたびに喧嘩をして、仲直りをした。

 ワイヤレスイヤホンをつけながら、電子書籍を読む。本の世界に没頭しながらもガラス越しに見えるプロムナードを時折確認する。

 彼女の姿は見えない。

 三十分経っても一時間経っても現れることがない。

 連絡も相変わらずない。

 こんなものか。特別感を持っていたのは、私だけだったのかもしれない。

 そう思っていたとき、ハイヒールを鳴らしながら走ってくる彼女の姿が見えた。

 一瞬、立ち止まって息を整えると何事もなかったかのようにエントランスへと入ってくる。

 こちらの姿を見つけると足早に駆け寄ってくる。

「ごめん、遅くなって」

「大丈夫。入場時間に間に合わないかと思ってたから安心した」

 電子書籍を閉じると帰り際の人並みを避けながら、入場口へと進んだ。

 二人分のチケットを渡すと半券が戻され、その一枚を彼女へと渡した。

 閉館時間が近付いているせいか、人はまばらである。会話する人も少なく、隔離された空間だった。

 特に会話することなく、展示品を見て回る。

 のどかな時が流れていく。彼女がどうしても見たいといっていた作品たちが並んでいる。

 そういえば、初めて彼女と会話したのはこの場所だった。

 ミュージアムショップでアルバイトをしていたとき、話しかけられた。

「このアートパネルが欲しいんですが……入荷未定ですか?」

「そうですね。発注はかけているのですが、なかなか入荷して来なくて。申し訳ありません」

「入荷したら連絡いただくことは、可能でしょうか?」

「入荷しない可能性もあるので、致しかねます」

「そうですか……分かりました」

 企画展のために作られたオリジナルグッズなどは、再入荷しないことも多い。

 彼女が欲しがっているアートパネルは、製造元が競合と統合されたせいか発注をかけても在庫確認中のまま、時が過ぎている。

 そもそも取り扱いが長いわりに、需要が少ないことが答えのようにも思える。

 撤去しようかとも話題にあがったが、その後の展示スペースが寂しくなってしまうため、入荷未定のまま放置されていた、

「あの……新品でなくていいのなら、家にあるものを譲りましょうか? 箱に入れたままで褪せてもいませんので」

「いえ、そんなこと申し訳なくてできません」

「買ったのはいいものの、部屋に飾るには不釣り合いで、しまいっぱなしなんです。あなたの方がよほど大事にして貰えそうです」

「本当にいいんですか?」

「もちろん」

 普段ならばこんな分の悪い提案はしない。それなのに自然と言葉が紡がれていた。本能的な直感が、私以上に彼女には必要だと訴えてきたせいだろう。そこに迷いなんてなかった。

 まだ大学生だった私にはアートパネルは思い切った買い物で、それなりに思い入れがあったはずだった。それなのに飾ることはなくて、数回、箱を開けて眺めた程度だった。

 彼女ならば丁寧に何よりも適当な場所に飾ってくれそうである。

 連絡先を交換し「ありがとう」とミュージアムショップから出ていく背中は、光が差して凛としていた。


 数日後、彼女にアートパネルを引き渡すと嬉々とした表情で、でも表情に僅かな陰りが見えた。

「本当によかったのかしら……。まだ迷ってる」

「受け取ってください。せっかくここまで持ってきたんですから」

「本当にいいの? ありがとう。お礼にこの後、食事でもしない?」

 ここから、彼女との関係は偶然にも続いた。

 展覧を見に来た彼女と挨拶を交わし、また別の美術館でも再会した。親交が深まることに時間はかからなかった。

 大学の卒論に追われているとき、彼女から「一緒に住もう」という提案を受けた。

 良き相談相手の彼女は、当然ながら私の内定先を知っていたし、一人暮らしのことも知っていた。住所を聞けば、職場はそう遠くない。新居を探す暇を持てなかった私は、二つ返事で潜り込んだ。

 二人で暮らすようになって、関係は深く濃密になっていった。

 どちらからともなく惹かれ合い、ためらうことなく突き進んだ。

 当時は今ほど世間の理解が追い付いていなかったが、それでも構わなかった。

 世界は私達中心で回っていて、熱情だけが燃え上がっていった。

 新鮮だった。

 全てが満ち足りていた。

 若気の至りだろうとも誰にも祝福されなくてそれでよかった。

 二人だけの世界がそこにはあった。

 それがいつからだろう。

 歯車が狂いだした。

 熱が冷めただけではなく、確実に得体のしれない何かが蝕んでいた。

 展示を見進めていくとポスターと同じ絵画の前で立ち止まる。

 日常にあるそれは、私達の関係を表していた。

 一緒に暮らしていたリビングに飾ってあったかけがえのないもの。

 私達を繋げたもの。

 淡いペールトーンの色彩で描かれた港町は、幸福の美しさだけが描き出され、光が差していた。

 絵本の原画であるこれの本質を求めて、何度も彼女と絵本を読みあった。――そして、何度もお姫様は恋に落ちた。

 思わず頬が緩む。

 あぁ、やはりこれは力を秘めている。

「やっぱり本物は迫力が違うね」

 いつもまにか彼女が隣に立っていて、小声でつぶやく。

 話しかけているのか、独り言なのか判断できずにただうなずいた。

 会話なんて必要ないくらい穏やかな時が解かれた。

 ふいに花の甘い香りと柑橘系の香りが混じった香りが鼻をかすめる。普段、彼女がつけている香水とは違う香りで、でもなぜか懐かしかった。

 脳内に大喧嘩した光景が蘇る。

 あぁ、あれは彼女がどうしても行きたいと行っていたミュージカルのチケットが無駄になったときだ。

 記念日だったから、一番いい席を取ったのに彼女は来なかった。

「ごめん、緊急会議が入ったの。ギリギリになりそうだから先に会場に行ってて」

 昼休みに彼女から連絡があった。嫌な予感はしていたが、必死な声色を聞いてしまうとなんとも言えず飲み込んだ。

 会場で待っても彼女は来ない。

 開演時間が刻一刻と迫ってくる。もう入場しないと間に合わない。

 スマートフォンには、珍しく新着通知が届いていた。

「ごめん。間に合いそうにない」

 こんな日くらい、仕事より優先してくれてもいいじゃないか。

 悔しくて虚しくて寂しかった。

 怒りを通り越して、思わずロビーで笑い出した。

 彼女は来ない。

 おそらく、これまでの経験上、終演後の高級フレンチも間に合わないだろう。

 一人で観劇する気にもなれず、高級フレンチの気分も削がれてしまった。

 彼女のためにお洒落したのに。世知辛い。

 苦虫を潰しながらコンビニ弁当を買って、家路についた。

 その翌朝、過去にないくらい、感情は冷淡だった。

 顔を合わせても挨拶もせず、帰宅してもなお、口を聞かなかった。

 それほど興ざめしていた。

 彼女が何度も謝ってくるも心は動じなかった。

 それでも一週間が経つとふつふつと湧いていた怒りが、収束をし始めた。

「本当にごめん。これから気をつけるから」

「もう少し仕事以外のことを考えてくれると嬉しい」

 泣きながら微笑んで抱きついてくる。

 そのときに感じた香りと同じである。

 少し癖のある嫌味のない香り。

 一緒に暮らし始めてしばらく経ったとき、彼女は言っていた。

「たまに意地を張って、素直に謝れないことがあると思うの。そのとき、この匂いを感じたら、必死に謝っていると思い出して欲しい」

 何気ない会話だった。当時の私には意味がさっぱり伝わらず、聞き流してしまった。

 それなのに今、激情によって急速に記憶が巻き戻された。

 そうだ、これは初めて二人で絵本を読んだ日だ。飾られている絵と同じだと嬉しくてたまらなかった。

 当時は喧嘩することもなく、日々が幸福に満ちていた。

 そっか、私は忘れていたんだ。

 気にもとめていなかった。

 遅刻するたび、チケットを無駄にするたび、彼女は謝っていたのかもしれない。

 それに気づいていたら、私達の関係は続いていたのだろうか。

 ただお互いの歯車がかみ合わなくなっただけである。

 特に重大な問題が起きた訳ではない。僅かな綻びがクレバスのように広がり、距離が縮まることはなかった。

 展示を見終えると閉館のアナウンスが流れ始める。

 ここで終わり。

 お互いに新たな道を歩み始める。

 僅かな名残惜しさを感じながら、出口へと向かった。

「部屋の鍵、忘れないうちに返しておく」

「ありがとう」

「少し歩かない?」

 うなずいた彼女は、月明かりに照らされながら、はにかんでいる。

 その姿からは大好きな淡い港町が垣間見えた。


                          〔了〕



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