第6話
「やってくれたわね」
三回目の面接。
着席するなり、理恵はそう切り出した。
「何を?」
「とぼけるんじゃないわよ。私の娘は紗季なんて名前じゃないわ」
「何のことか分からないな」
八木は薄ら笑いを崩さない。ここで噛みついても、彼のペースに吞まれるだけだ。理恵は努めて冷静であろうとする。
「とにかく、あなたとの面接はおそらく今日が最終回。と言っても、欲しい証言はほとんど出揃っているわ」
「最終回か。寂しいね」
「嘘ばっかり」
理恵は言いながら、いつものように八木へ紙とマーカーを手渡す。
「今日話したいのは一点だけよ。もしかしたら、かなり早く終わるかもしれないわね」
「それは嬉しい」
「寂しいのか嬉しいのか、どっちよ」
軽口のような会話が、二人の間を飛び交う。しかし、どちらの顔にも笑みはない。
相手がどう出るのか、探り合っている。
理恵は覚悟を決めた。悩んでも答えは出ない。そんなときは、単刀直入に切り出した方が功を奏する――少なくとも理恵はそう考えている。
理恵はクリップボードを手に取った。そこには、八木に関する報告書がまとめられている。理恵が関係各所に手を回して入手したものだ。
「前回の面接から、私が個人的に違和感を抱いた点について調べてみたの」
「違和感ね」
「そう」
この話をすることがどう転ぶか分からない。しかし理恵は賭けてみるつもりだった。
「あなたのお母さんについて」
ぴくり、と八木の眉が上がる。やはり彼は、母親に関する話題を避けようとしているのだ。
八木が口を開こうとする。ここで妨害されてはたまらない。理恵は、調べた事実を突きつけることにした。
「あなたのお母さんは、事故死なんてしていない。お母さんは、あなたを親戚宅へ預け、若い男性と再婚したのね」
「先生、やめてくれ」
それは懇願だった。八木が悲痛な表情を浮かべている。聞きたくない、とでも言うように。
精神的な外傷だろうか。それとも、泣き落としでこれ以上の追及を避けようとしているのだろうか。
「お母さんは、あなたと面会もせず養育費も払わず、素知らぬ顔で生活しているみたいだわ」
八木の右手が素早く動いた。
『うそだ』
「本当よ。調べてもらったの」
『うそだうそだうそだうそだ』
右手が狂ったようにもだえている。用紙が真っ赤な『うそだ』で埋め尽くされる。
理恵はわずかにうろたえた。八木が動揺を見せることこそ予見できたとは言え、『書き言葉』の人格からここまでの反発を得るとは思っていなかったのだ。
「先生、勘弁してくれ」
八木の声は、もうほとんど悲鳴だ。彼はおののくように、暴れ狂う右手を見つめている。
『お母さんはぼくをすてたの』
八木が絶叫する。
「捨ててないっ。そんなことはないって」
『お母さんはぼくがじゃまだったんだ』
「先生!」
理恵は八木の方を見る。
額から汗をだらだら流しながら、彼は理恵を見つめていた。
「こいつを押さえてくれっ」
右手を押さえてくれという。理恵は動けない。八木の右手はぐるんぐるんと、軟体動物を思わせる動きで文字を書きつけている。
「頼む先生っ! 俺がどんな思いでこいつを抑えてきたと思ってるんだ!」
バスは、いつ果てるとも知れないトンネルの中を進む。
車内は薄暗い。オレンジ色の照明が、断続的に座席の上を横切る。
八木は左側の座席に座っている。
右側へ目を向けると、そこにはもう泣きじゃくっていた少年はいない。
代わりに、黒ずくめの大男が立っている。
ゆっくりとした動作で、八木に近付く。
「俺に従え」
八木はからからに乾いた唇を震わせながら、小さく頷く。
「分かったよ……」
バスがスピードを上げる。
運転席から身を乗り出すようにして、運転手が八木の方を振り向いた。
真っ黒な顔。
そこに、大きな裂け目ができた。
真っ赤な口。
運転手は笑っている。
彼は目的地を見つけたのだ。
『こんな世界、壊れてしまえ』
八木の『書き言葉』は、そんなふうに書いた。
「どういうこと? 何が起こっているの?」
理恵の言葉に、八木は力なく笑う。
「もう遅いよ、先生。バスは行き先を決めたんだ」
「それって――」
理恵の言葉はそれ以上続かなかった。
『書き言葉』の人格が、再び文章を書きつけたからだ。
『俺に従え』
八木の顔から、みるみる表情が失われていった。血の気を失い、目の焦点がぼやけ、どこかとろんとした顔つきになる。
「従うよ、もちろん」
怪しい呂律で、彼はそう言った。
理恵は混乱する頭で、状況を整理しようとした。
八木の様子を見るに、『書き言葉』の方も他人を操る能力をもっているのかもしれない。
当の彼は、ふらふらと立ち上がり、理恵のことを見据えた。そこには、先ほどまで言葉を交わしていた饒舌な嘘つきの姿などどこにもなかった。真っ赤なマーカーを握りしめる右手と、その傀儡が立っているのだ。
——『話し言葉』の人格が、催眠術や洗脳の重ねがけで、これまで『書き言葉』を弱体化させていたのだとしたら?
そんな考えがよぎる。
——『書き言葉』が本質的に邪悪な存在で、その根底に母親による見捨てられ経験があったとしたら?
八木の言う「バス」は『世界を壊す』ことを目的地にしているのかもしれなかった。
——もし、『話し言葉』の不自然な嘘が、すべて『書き言葉』を目覚めさせないことを目的にしていたとしたら?
嘘ばかりの供述調書。罪の自認。家族に関する話題の回避。彼の言動には一貫性がないように見えたが、この仮説ならばつじつまが合う。
理恵が考えられたのはそこまでだった。
八木の右手は、彼女の眼前に、真っ赤な文字を突きつけた。
『ペンで喉を突き刺せ』
理恵は胸ポケットから、ボールペンを抜いた。ペン先を露出させ、自分に向けて両手で握る。
ペン先がじわじわと彼女の首元へと近づいてくる。
理恵も抗おうと力を込めるが、手がぶるぶると震えるだけで、ペンの進みは止まらない。
「それでは先生、ごきげんよう」
八木がショーを終えたマジシャンのように、深々とお辞儀してみせた。
彼はそのまま面接室を出て、扉を閉める。
廊下を行く彼の後ろで、理恵のくぐもった悲鳴が聞こえた。
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