第8話:虫の侵入
さて、返事が来るまでに少しでも進めておこう。
エディさんに手紙を出したあとも、私はクロシェットを書いていた。
小説は日々の積み重ねが大事だからね。
書けるときは少しでも書いておくのだ。
執筆していると、風がふわりと顔を撫でた。
ふっと顔を上げる。
青空には白い雲がポンポンと流れていた。
お屋敷の前にはお庭と森が広がっている。
「……いい天気」
私は窓の前に机を移動していた。
キレイな景色が見えてリフレッシュできるし、インクもすぐに乾いてくれる。
まだ暑くなる前なので、涼しい風が吹いていた。
窓を開けているだけで執筆が捗る。
風が強かったり雨が降ってきたらすぐ閉めればいいからね。
快適すぎる……。
おまけに、常に新鮮な空気を吸っているからか、アイデアがどんどん湧いてくる。
筆が進むぞ~。
上機嫌で書いていたら、不意に耳元で低い音がした。
ブンブン……という羽のような音だ。
まさか、この音は……。
「あっ、虫が!」
部屋の中を小さな虫が飛び回っていた。
ぱっと見た感じミツバチのようだ、わかんないけど。
きっと、窓を開けてたから入って来ちゃったんだ。
ええ~、困るな~。
たしかに、虫が入ってこないでほしいのなら、窓を開けなければいい。
いや、そうなんだけどさ。
窓くらいは開けさせてほしい。
虫も外にいた方が快適だろうに、どうしてここへ来る。
仕方がない、追い払うか。
よっこいしょと立ち上がると、それを待っていたかのように虫は部屋の奥に飛んで行く。
あっ、ちょっと、そっち行かないでよ。
このお部屋はとんでもなく広いので、どんどん窓から離れていく。
虫は天井付近に留まってジッとしていた。
「ほらほら、外に出ていいんだよ~。ここにいても何も楽しくないよ~」
『……』
紙を重ねて風を送ったけど微動だにしない。
壁の上の方に鎮座しているので、台を使っても届きそうになかった。
まぁ、静かにしてる分には別にいいか。
執筆できればそれでいいし。
勝手にいなくなるでしょう。
無視するのに限る。
虫は無視ってね。
気を取り直して机に向かう。
さ~って、クロシェットの続きを書きますか~。
風が気持ちいいな~。
筆が進む~。
ブンブン……。
「なんで書き始めると近くに来るの!?」
羽ペンを走らせた瞬間、ミツバチらしき虫は私の周りを飛び回る。
さっきまであんなに静かだったのに。
いや、逆にこれはチャンスだ。
外に出してしまおう。
窓を最大限開けて静かに待つ。
虫はただただ元気に飛び回っていた。
室内を。
……だから、どうして。
廊下に繋がるドアも開けてみたけど、出て行く気配はまるでない(執務室へのドアはフィアード様が怖くて開けられなかった)。
う~む、これは困ったぞ。
「諦めて他の部屋で書こうかなぁ……。でも、邪魔になると迷惑だし……」
皇太子様のお屋敷なので、日頃から偉い人がたくさん訪ねてきたり、大事な会議も開かれているようだ。
窓からチラリと外の様子が見えていた。
そんなところをウロチョロしていたら迷惑極まりないだろう。
どうしたものかな……あっ、そうだ。
この中で場所を変えればいいんだ。
お部屋はとんでもなく広い。
なので、違うところで書けばいいだけ。
幸いなことに机やテーブルもいくつかある。
もちろん椅子も。
窓から離れたところに座る。
相変わらず、虫は私がいたところで飛び回っていた。
ああ、良かった。
これで一安心。
執筆に集中できる。
さあ、クロシェットの続きを書きましょう。
場所を変えるだけでも、案外気分転換になるなぁ。
筆が進んでいく~。
ブンブン……。
「だから、なんで私の近くに来るの!?」
お部屋は広いというのに、虫はなぜか私を追ってくる。
そして、私が立ち上がると壁に鎮座する。
これはもう意志があるといっても過言じゃない。
諦めて書き始めると、耳元でブンブン……も始まる。
ああ、もうどうすればいいの。
こうなったら、ちょっと手荒だけど無理矢理外に出すしかない。
待て~、虫~。
……追いかけ回すこと十数分。
私は完全に翻弄されていた。
汗だくだ。
元々、作家の私に体力はない。
も、もうダメだ……色々限界だ……ヴァリアントさんを呼ぼう……。
「虫を部屋から追い払ってください」なんてお願いは、恥ずかしいし申し訳なさすぎる。
フィアード様のメイドさんなんて大変に忙しいだろうに。
そんなしょうもない理由で呼ぶのはあまりにも申し訳ない。
とはいえ、背に腹は代えられない状況なのもまた然り。
ふらふらと扉を開ける。
「ん? どうした、ベル。汗だくじゃないか」
「……え?」
なんということだ。
間違えてフィアード様の執務室に入っちゃった。
疲れて判断力が鈍っていたんだ。
「も、もしかして、具合でも悪いのか!? これは大変だ! すぐに医術師を呼ぼう! おーい……!」
「ち、違います! 私はすこぶる元気です! すみません、間違えて入ってしまいました!」
「なんだ、元気ならよかった。心配したぞ」
心配してくれるのはとてもありがたいけど、下手したら屋敷中の医術師を呼ばれかねない。
すぐにお暇しましょう。
「それでは、私は失礼いたします。部屋に虫が入ってしまいまして。ちょっと集中できないだけなので……」
「なんだと!? 集中できない!?」
フィアード様はガタッ! と勢い良く椅子から立ち上がる。
し、しまった。
うっかり口を滑らしちゃった。
「あ、いえ、集中できないと言っても大したことはございません。ただ、書き始めると耳元でブンブン飛び回るだけでして……」
「ふむ……断じて許せんな」
話せば話すほどフィアード様の興味を引いてしまう。
どうすればいいのだ。
「よし、私が何とかしよう。ベルの執筆を邪魔するなど、とんでもない大罪だ」
「い、いや、そこまでしていただかなくても大丈夫です! それに、フィアード様もお仕事でお忙しいんじゃ……」
「遠慮なんてしなくていい。君のことが最優先だと言っただろう」
フィアード様はズンズン……と私のお部屋に入っていく。
もう今さら止めることなどさらさらできない。
まだ全然書いていないのに~。
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