わたしがあなたになるまで、交番に届かなかった百円。
上善如水
Pray with coin.
「百円玉を拾ったとして」
私が静かに切り出すと、小さな机越しに座っている女は、その切れ長の瞳を私に向けた。その視線が恐ろしくて、私はすぐに、目を伏せた。少しだけ唇を舐めて、そのまま続ける。
「百円玉を拾ったとして、そのもとの持ち主の幸せを、祈れますか」
「分からないわね。それと
聞かれて、私はふっと息を漏らした。そうだ、伝わるわけがない。
狭い生コンクリートの部屋。警察の取調室、なんだと思う。私は取り調べを受けていた。それは、
少し黙ったまま考えて、ゆっくりと口を開いた。
「自殺しようとしたことがあったんです」
学生の時分に自殺未遂をかましたことがある。
哲学科というところは――少なくとも私の通っていた場所は――一種の精神病棟のような有様だった。いや、この表現は良くないけれど、ともかく、精神を病むにはこれとない環境だったことだけは確かだ。将来の薄暗さが現実的な恐怖に変わっていく焦燥は覚えているけれど、実際の引き金が何だったか、今ではもうぼんやりとしか覚えていない。
とにかく、私は三回生の時に自殺を図り、それは見事に失敗した。睡眠薬を大量に飲んだ私は、自分の部屋で吐瀉物にまみれて転がっていたらしい、というのは旧友の仁科の話だ。
彼女はサークルの飲み会帰りにたまたま私の家にやってきて、都合悪く私を発見した。鍵をかけ忘れていたのは不幸だった。私にとって? いや、仁科にとっての不幸だろう。
「なんで自殺なんかしたの」
病院で目を覚ました私に、仁科がかけた第一声はそれだった。私はそれに答えようとして、ぼうっとする頭でしばらく考えた後、「月が綺麗だったから」と言った。仁科が私の言葉に怪訝な顔をしたのも当然の話だ。
人生への絶望を人に語るのは、難しい。改めて考えてみると、私が自殺した当日は大雨で、月など見えようもなかった。きっと私は恥ずかしくなったのだと思う。仁科みたいな真っ直ぐな人間の前で、私の弱さを陳列するのが、恥ずかしかったのだ。
真偽のほどはもはや確認するべくもないが、ただ、「クソ馬鹿」と普段使いもしない言葉で私を罵る仁科の両目から、たっぷりの涙が流れ落ちるのを見て、なんとなく「私は間違ったんだな」と理解したことだけは、いまだにしっかりと覚えている。
きっとこれからずっと、私はこの記憶を忘れない。
私は自殺未遂の後、仁科と同じ教育文化学部に転学科して、それで、教師になった。一度自殺した人間が未来ある子供達を育てることに対する疑問はあるが、今のところはうまくやれている気がする。今の私の人生は、仁科がいなければ無かったものだ。
そこまで一息に話すと、警察の女は納得したようだった。
「なるほどね。つまり、同じ大学の友人だったって、そういうことね?」
「はい、それで今日、久々に会う予定だったんです。同じ学校に配属になったから」
「納得いったわ。それで――」
それで、今日、仁科は死んだ。
今日、私は走っていた。夜。街灯は少ない。春先ですこし涼しいのは幸いだった。とはいえ、運動不足の体には染みる。走るたびに脇腹が痛くなって、ぜえぜえと息が荒れる。けれど、止まれなかった。止まるわけにはいかなかった。
走っているうち、遠くからざわつく声が聞こえてきた。角を曲がると、道の向こうに赤色灯が回転している。警察車両がたくさん並んでいて、夜の暗い現場を照らすためだろう、白いライトが並べられているのが見えた。ブルーシートが張り巡らされていて、中の様子はわからない。「立ち入り禁止」の黄色いテープの周りには、夜だというのに野次馬が何人もいた。
「仁科!」
私は思わず叫んだ。何人かの野次馬と警察官がこちらを見る。
「仁科!」
黄色いテープにたどり着くと、一人の警察官に制止される。
「立ち入り禁止です。関係者の方ですか?」
「電話を聞いて来ました! 仁科は! 仁科はどうなったんですか!」
警察官は無線で一言二言確認を取っている。おそらく、電話をかけたのは別の人物なのだろう。私はいてもたってもいられず、立ち入り禁止のテープを超えて、ブルーシートの方に走っていく。「あ、ちょっと! 待ちなさい!」という制止の声を振り切って、ブルーシートの方へ走っていく。すると、わたしの胴は横から差し出された腕で止められた。
「止まりなさい」
私を抑える手の先を見ると、黒いスーツの上から悪目立ちする蛍光色の上着を着た女が立っていた。左腕には警察の腕章が見える。
「あなた、落ち着きなさい。ここから先は立ち入り禁止。触られるのも、見られるのも困るの」
「仁科は大丈夫なんですか!」
私の言葉を聞いて、女は目を見開いてから、悲しそうな顔をした。
「お友達?」
「友達です! 私の友達なんです!」
女は慌てふためく私を見て、本当に、心の底から悲しいという顔をした。なんだそれは。やめてくれ。私は吐きそうだった。どうしてそんな顔をするんだ。女は「落ち着いて聞いて」と前置きする。やめろ。やめてくれ。
女は続ける。
「仁科香織さんは」
聞きたくない。私は思わず耳を塞ごうとする。
「亡くなった」
嘘だ。私は聞こえなかったふりをして、ブルーシートに向かって進もうとする。けれど、もっと強い力で押しとどめられた。
「やめなさい。仲が良かったなら、なおさら見ないほうがいい」
私は、その場で崩れ落ちた。あの日の仁科が流した涙は、今でも覚えている。それを私はただ呆然と見つめていただけだったけれど、今なら、あの意味がわかる。悲しいとか、辛いとか、嘘だとか、いろいろ言いたいことはあったけど、私の脳裏に浮かんだのはあの日の仁科の顔だった。だから私の口から出たのは、「ごめん」という言葉だった。あの時、仁科もこんな気持ちだったんだろうか。
「ごめん」
ごめんね、仁科。死のうとして、ごめん。
◆
それが、事の顛末だ。
取調室で、私と机を挟んで向かいに座っている女こそ、その蛍光色の上着の女だった。もっとも、その上着はすでに脱いである。だから正確に記述するなら、さっき蛍光色の上着を着ていた女、とするべきなのだろう。
「コーヒー、まだ一口も飲んでないけど。砂糖、もっといるかしら?」
「えっと」
思わず口ごもる。そうして見てみれば、切れ長の目から受ける印象の割に、その表情は意外と穏やかなことに気づいた。私はやっぱり、少し動転しているのかも知れない。砂糖はいりません、と言おうとしたところで、女は「おっと」と思い出したように「自己紹介がまだだったね」と切り出した。
「私は、
「警察じゃないのに、取調室が使えるんですか」
間座の言葉への返答になっていないことに気づいたのは、言葉を全て言い終えてからだった。けれど間座はまったく気にしていないようで、丁寧に私の質問に答えてくれた。
「それだけ込み入ってるの。私は今、割と結構な権限が与えられてる。まあ、宝の持ち腐れみたいな状態なんだけど」
「それじゃあ、仁科が」
それじゃあ、仁科がどうなったか教えてくださいよ。と言おうとして、言えなかった。単純に萎縮したのもあるけれど、「見ないほうがいい」という彼女の言葉が脳裏にこびりついていたからだ。見ないほうがいいくらい、ひどい状態だったのだろうか。
私が二の句を告げられずに居ると、間座アルクは私が言いたいことを汲み取って、穏やかな目線で私に告げた。
「一言で言うと——、酷い有様だった。それでも聞きたい?」
正直、聞きたくなんてない。仁科には幸せに生きて、そして幸せに死んで欲しかった。彼女が少し変わった人間だったということを差し置いても、少なくとも、こんなにあっさりと、酷い目にあって殺されてもいい人間ではなかったはずなのだ。
仁科の顔が、脳裏をよぎる。
あの時、彼女にとっての掛け替えのない人間を殺そうとしたのは、間違いなく私だ。だとしたら、彼女の死を受け止めるのもまた、私に課せられた責任であるべきだ。
「聞かせてください」
「後悔するわよ? 断言しても良い」
「それでも、聞かせてください」
「そう。いいわ」
間座アルクの顔から、優しさが消えた。
「彼女の遺骸は、正直に言ってかなり酷い有様だった。顔は殴打されて変形していて、後頭部に大きな傷。出血も多かったけど直接の死因ではないはずね。それで——両手両足は切断されていた」
そう言って、彼女は思い出すように天井を見つめる。
「詳しい状況は検死結果を待たなければならないけど、手足の指がバラバラにされていたことを見るに、そちらから先に切断された可能性もある。つまり、生きたまま切られた可能性も高い。相当強い恨みを持っている人の犯行でしょうね。それと」
そこまで聞いた時点で、私の気分は相当悪くなっていた。気が遠くなって、このまま倒れてしまいそうだった。けれど、間座アルクは語調を緩めることなく続ける。
「それと、死後か生前かはわからないけれど、確実に強姦されてる」
仁科は、どんなことを思って死んだのだろうか。絶対に流さないつもりだった涙が頬を撫でる。なにかどす黒いものが腹の底から湧き上がってきて、どうにかなってしまいそうだった。私は思わず天井を見上げた。間座アルクは私の様子を見て、それでも敢えて話を中断することはなかった。けれど、その対応はむしろありがたく感じた。
「逆にいえば、このおかげでDNA鑑定ができるってこと。ただ、これだけ周到な犯行の割に、ここだけ杜撰なのが何ともいえないんだけど……」
「犯人を」
私の言葉に、間座アルクは言葉を続けるのをやめた。
「犯人を、できるだけ苦しめてください」
私の言葉を聞いた間座アルクは、困ったように眉をひそめて、まるで小さな子供のわがままを宥めるような口調で回答した。
「それは私じゃなくて、検察官の仕事ね」
◆
昼下がり。人の少ない喫茶店で、どうして経営が成り立っているのかわからない。でも内装は趣味が良いし、曲は知らないものばかりだけど、レコードで流れているクラシックは居心地も良い。間座アルクに呼ばれた私は、この喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「あら、お待たせしたみたいね」
「いえ、お気遣いなく」
遅れてやってきた間座アルクはマスターに短く注文して、私と向かいの席に座った。あの事件から、こうしてコーヒーを飲むようになって久しい。週末に間座アルクと会うのも普通になった。彼女はたぶん、私を気遣っている。
「捜査に進展があったわ。被疑者のDNAが現場のものと一致した。まあ間違いなくクロね。動機はまだわからないけど、犯人は仁科さんの教え子だったみたい。接点はあるから、あとは検察の力量次第ってとこかしら」
「ずいぶん時間がかかりましたね」
私は言ってから、随分と刺々しい言い方になっていることに気づいた。間座アルクはわざわざ休日に時間を作って、詳しい捜査の状況を教えてくれているのに。
「あっ、すみません。えっと、批判するような意味じゃなくて、えっと」
「大丈夫よ。分かってるわ」
そこで、マスターがホイップがもりもりのウインナーコーヒーを持ってきた。どうも間座アルクは甘党らしく、いつもあれに角砂糖を五個も入れて飲んでいる。
「被疑者は長いところ逃走していて、住所もなかったのよ。戸籍謄本に残っていたのは実家の住所だけ」
「実家はどこだったんですか?」
「ごめんね、そこまでは言えないわ。でも戸籍の住所は賃貸で、すでに別の家族が住んでいたわ」
ふと、間座アルクのすっと伸びた指先に目が吸われた。彼女の長い指がマドラーを回す。
「あなたは犯人を、どうしたい?」
急にされた本質的な質問が、私の胸に刺さる。
「どうって」
どうしたいんだろう。私を救ってくれた仁科は救いのない死に方をした。でも、その犯人を裁くのは司法だ。仁科はあんなに苦しんだのに? 許せない。きっと私は犯人と対面して、冷静でいられない。怒りは六秒で忘れると言うけれど、どれだけの時間が立っても、仁科の死に様を思うだけで、いつだって新鮮な怒りが腹の奥底から湧いてくる。
多分私は、その犯人を殺す。できるだけ苦しめて、苦しめて、殺す。
正面を見れば、間座アルクが切れ長の瞳でじっと私を見つめていた。私は腹の奥底のそれを大事にしまって、一度目を閉じて、大げさな動作に見えないように、ゆっくりと息を吸って、静かに吐く。大丈夫だ。たぶん、表情には出ていない。
「それは警察の仕事でしょう」
私を見つめる切れ長の瞳は、まったく揺らがない。やがて息を吐くように、間座アルクは目を逸らした。
「そうね。その通りだわ」
レコードから、コーラスが聞こえる。オペラだろうか。間座アルクは珍しく眉根を寄せた。
「リヒャルト・シュトラウスね。趣味の悪い……」
どういう曲なのか聞こうとしたけれど、どうも聞くのが躊躇われた。窓の外で、風が吹いた。巻き上がる枯れ葉と砂、ざわめく緑。けれど、風の音はガラス越しには聞こえない。
私には意味の分からないコーラスが、静かに空気を揺らす。
◆
「改めて聞くけど」
レンタカーのハンドルを握った間座アルクが、東北の山道を走らせながら、助手席の私に聞いた。
「仁科さんは、どういう人だったの?」
私は運転席に少しだけ目をやって、また、前を向いた。ずっと変わらない緑の景色が、絶えず後ろに向かって流れ続けている。少し唇を舐めてから、言葉を選んだ。
「京都に行ったことがあるんですよ。仁科と」
「京都?」
仁科は、私には勿体ないくらい、良い友達だった。おおよそ倫理観が服を着て歩いているような人間、と言っても間違いじゃなかったと思う。今でも覚えてるのは、京都に観光に行った時のことだ。
清水の雑踏で、前を歩いている一団が百円玉を落とした。でも、人が多くて誰が落としたのか分からない。仁科は反射的に百円を拾ってから、誰が落としたのか分からずに途方に暮れていた。
交番に届けたほうが良いかな、と仁科は言うけれど、落とした本人が百円のために交番に行くとはどうしても思えなかった。たぶん、仕事が増えるだけじゃないのか、と私は言った。つまるところ、私はその百円を仁科がもらうべきだ、と暗に告げたのだ。でも、仁科には伝わらなかった。仁科は少し考えた後、「じゃあ、お参りに行こう」と言った。
その後、仁科は百円を神社の賽銭に放って、随分と熱心に祈っていた。私は後で仁科に聞いた。
「なんて頼んだの?」
「落とした人に、百円なんかどうでも良くなるくらい良いことがありますように、って!」
仁科がどんな人間かと聞かれたら、そういう人間なんだと、私は答えることにしている。
「なるほど、素敵な人ね」
そう言いながら、間座アルクはレンタカーを走らせる。深い山道は景色も変わらない。お互い喋ることなんか、事件のことしかない。だから、車中には沈黙があった。
そもそも、どうしてこんな事になったのか。それは、あの喫茶店でクラシックを背景に、間座アルクが放った一言が原因だった。
「被疑者と一度、話をしてみない?」
犯人は、日本中を転々として生活していたらしい。その犯人の場所が特定できたのだと、間座アルクは言っていた。もしもそうだとして、言ってしまえば部外者の私を犯人に会わせるのはリスクが高すぎやしないか。でも、間座アルクは私と犯人を会わせたがって、そして、私は。
「はい、一度、話してみたいです」
会うことにしたのだった。
東北の片田舎。随分と遠くまで来たものだ。地名は読めなかったけれど、こうして間座アルクがレンタカーで私を送ってくれた。間座アルクは正確には警察官ではないから、警察車両は使えないらしい。でも、警察ではないからこそ、私と犯人が会う機会を作れたんだろう。
道中、車の中で間座アルクは、私にクリアファイルを渡した。
「本当は見せちゃいけないんだけどね」
人差し指を唇に当てて間座アルクは言う。なんという悪徳警官だ、と思ったけれど口には出さない。第一、警察ではないらしいし。それに、私にとっては好都合だ。クリアファイルの中身は、被疑者のプロファイルのようだった。名前の部分には黒いマジックで線が引かれている。
「被疑者は――。母子家庭で育ったみたい。ただ、母子家庭と言っていいのかも疑問ね。母親はほとんどネグレクトしてた。一度行政が介入したんだけど、うまくいかなくて結局被疑者は母親と生活してたらしいわ。当時被疑者がアルバイトしていたコンビニの店主から証言が取れた。高校に通いながら母親を養ってたそうよ。大変ね」
山道を走りながら、間座アルクは事もなげに言う。こういう仕事をしていたら、色々な人間を見るのだろうか。そうしたら、悲劇にも鈍感になっていくのだろうか。
「当時、その高校の教師に新任だった仁科さんが居て、被疑者と関わりがあったみたいね。仁科さんは熱心で、被疑者の話をよく聞いていた……っていうのが、当時の学校関係者からの証言」
仁科は、優しい。そんな境遇の子供が居たとして、放って置くような人間じゃない。それは私にも、分かる。そして私は仁科のそういうところに救われたのだから。
「でもまあ、人は救われなかった時――救いの手を差し伸べなかった人間よりも、手を差し伸べた人間をより憎むものなのよ」
間座アルクはそう言った。思わず彼女の顔を見たけれど、彼女の目はまっすぐに道路の先を見つめている。色々と聞きたかったけれど、これ以上どこまで話してくれるかも分からなかった。
ふと仁科の顔を思い出して、なんとなく聞いた。
「その被疑者は、京都に行ったこと、あるんですかね」
「京都? どうかしらね」
景色はずっと変わらない。間座アルクは言った。
「まあでも、あの辺の小学校なら、修学旅行は京都よね」
◆
到着したのは昼間の十二時で、間座アルクが言うには、夕方には警察が着くから、それまでには話したいことを話すべきだと、そう言っていた。
私は懐にナイフを隠してきたけれど、間座アルクは私の手荷物を調べることはなかった。私は被疑者を殺さないと信じているのだろうか。それとも、私が何かをしようとしても止められると、そう信じているのだろうか。
犯人の部屋のドアを叩くと、生気の無い顔が私たちを出迎えた。
「えっと、あの、どちら様ですか?」
「すみません、少しお話を伺いたくて」
間座アルクが警察手帳を取り出した。警察じゃないんじゃなかったのか。色々聞きたかったけれど、それを聞くのは今じゃないことだけはわかった。それに、もっと大きな問題が起こったのだ。
警察手帳を見た瞬間、犯人の顔色が変わった。挙動不審、とも言えるかも知れない。間座アルクは無理やり被疑者の部屋に押し入った。私もそれに続いて、部屋に入る。すると間座アルクは後ろ手に部屋の鍵を閉めて、懐から仁科の顔写真を取り出して、見せた。
「知ってるわよね、この人のこと」
犯人は、玄関とは逆方向に走り出した。
「おい、待て!」
私は思わず声を出す。でも、間座アルクは落ち着いていた。
「ここは二階よ。どこにも逃げられっこないわ」
私は感心したが、でも、無意味だった。犯人はベランダから飛び降りて、逃げた。間座アルクの顔を見る。彼女は落ち着き払って、言った。
「逃げられるみたいね」
それで、私はそいつを追う羽目になった。
◆
随分ときれいな月が覗いていた。
街灯のない真っ暗な夜道。観光地の京都とは違って、人っ子一人いない静かな道路。たまに思い出したかのように自動車が通る。その殆どはトラックだ。田舎の幹線道路といえば、きっとどこもこんな感じだろう。
私はまた、走っていた。
履いてきたのがスニーカーで良かった。人に会う日はだいたいヒールだったけれど、遠出だし、間座アルクが相手ならあまりめかし込まなくても良いだろうと思えたのも理由のひとつだ。
犯人が逃げ出した後、間座アルクが電話をかけただけで、一瞬で警察が動き出した。被疑者が捕まるのは時間の問題だ、と言っていた。裸足のまま逃げ出した犯人は、そう遠くには逃げられないだろう、と。道路は検問が敷かれていて、どうあがいても逃げ出せない。
だから、これは私と警察の追いかけっこでもある。警察が先に犯人を見つけたら、私はたぶん、そいつを殺せない。犯人ともう一度会う機会はあるだろう。でも、法廷でも面会でも、犯人は殺せない。だから、これが最後のチャンスだ。
幸いにも、犯人は夜になっても見つからなかった。でも、それは私も同じだ。真っ暗な道を、街灯だけをたよりに探す。犯人の顔は、間座アルクからもらったファイルと、昼に一度見たことしか情報量がない。正直、見つけても分からないかも知れない。
でも、殺さなきゃ。
すると、車道を挟んで向かいの歩道に、人影があった。人の少ない夜道に人がいるだけで目立つ。その人影が街灯の下を通った時、その顔がしっかりと見えた。見間違えない。腹の奥底から、何かが沸騰してくるのを感じる。
私は、走り出した。犯人はこちらに気づいた。犯人が逃げ出す。私は走る。
「どうして!」
走りながら、私は叫ぶ。
「どうして、仁科を殺したんだよ!」
眼の前を走っていた犯人は、足をくじいて転んだ。裸足で逃げ出したのだから無理もない。その足は血だらけだった。
私は犯人に近づいて行く。それはもう気力を失ったように、逃げようとしなかった。
「どうして、仁科を殺したんだよ」
私はもう一度聞いた。地面に伏せた影が、言う。
「先生は、俺を助けてくれなかった」
嘘だ。仁科はきっと、お前を助けた。助からなかったのは、お前が助かろうとしなかったからだ。私は、懐からナイフを取り出した。刃渡りは十分。サバイバル用で、鹿も解体できるサイズだ。じゅうぶんに、人も殺せる。
「どうして、仁科を、あんな目に合わせなきゃいけなかったんだ」
私がナイフを持ってにじりよっても、影は動こうとしなかった。まるで、全部諦めきったみたいだった。
「だって、先生は、俺のことを……」
私は思わず走り寄って、そいつの胸ぐらを掴んだ。その目を見て、分かった。きっとこいつは、私と同じだ。こいつも、私と同じだった。仁科に救われて、仁科のことを好きになった。
でも、仁科は。
「先生は、俺のことなんか、好きじゃなかった」
思わず、歯を食いしばる。私は、こいつと同じだ。誰にも必要とされず、誰からも見放された私を、仁科だけが救ってくれた。でも、それは非対称だ。私にとっての仁科は仁科だけだけど、仁科にとっての私は、たくさんの救うべき人のうちの一人でしか無い。
でも、私は満足した。それで良かった。でも、きっとこいつは違った。
だから仁科をあんな目に合わせた。
ナイフを持った手を、振り上げる。こいつは、仁科を殺した。指を切り落として、苦しめて、強姦して、殺した。絶対に許してはいけない。絶対に生きていてはいけない。でも。
――でも、こいつはもう、きっと、生きていけない。
こいつは私と同じだ。私には、よく、分かった。思わず、歯を食いしばる。悔しい。嗚咽が漏れる。
いますぐこのナイフを振り下ろして、こいつの指を切り落として、爪も剥がして、歯も抜いて、肌を丁寧に剥いで、苦しめて苦しめて、そうして殺してやりたい。でも、それに意味はない。こいつはもう、これ以上苦しめない。だって、私と同じだから。
悔しい。こいつを殺してやりたい。でも、こいつを殺したら、私はこいつと同じになる。それがたまらなく悔しい。私は、私だけは、仁科にとってのひとりになりたかった。仁科のために、仁科を殺した最低の敵をやっつける。仁科の復讐をして、それになろうとした。でも、それでは、ダメだ。
仁科の顔が、思い浮かぶ。
「落とした人に、百円なんかどうでも良くなるくらい良いことがありますように、って!」
一度目を閉じて、大げさな動作に見えないように、ゆっくりと息を吸って、静かに吐く。大丈夫だ。たぶん、表情には出ていない。
「あなたは、百円玉を落としたこと、ある?」
影は戸惑うようにしてから、やがて、小さくうなずいた。
わたしがあなたになるまで、交番に届かなかった百円。 上善如水 @ueharu_josui
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