第7話

 僕の中で蘭葡らんぽさんの言葉がずっと渦巻いている。同じくらい安藤のことも考えていた。ぐるぐる回る思考の欠片は、それだけでは何なのかわからない。でも、一つずつ拾い集めて組み合わせていくと何かしらに形を変えていく。


「僕は、安藤のことを……」


 言葉にしかけて唇を噛み締めた。まだ、言葉にはできない。本当は違うんじゃないかと未練がましく踏みとどまる。そんな無駄なあがきは、安藤の姿が目に入った途端に呆気なく消え去った。

 大学内で安藤とすれ違ったのは偶然だ。安藤の目は見開いていたし、焦って歩き出そうとしていることでたまたまなのだとわかった。早く僕の視界から消えなくてはと思ったのだろう。これ以上僕に嫌われないように、僕に嫌われることを恐れるように立ち去ろうとした。


(まるで昔の僕みたいだ)


 そう思ったら腹の底から仄暗い愉悦がにじみ出た。あんなに怖いと思っていた安藤が、途端にちっぽけなものに見えてくる。いや、ちっぽけなだけじゃない。ちっぽけで弱くて情けなくて、それでいて僕の中の大半を占めてしまった大きな存在。

 僕は慌てている安藤をじっと見た。ギョッとしたような目と視線を絡める。それからゆっくりと前方に視線を向けた。


(これだけで伝わるはず)


 そのまま歩き出す僕の後ろで、複数の男女が「えぇー、どうしたんだよ」だとか「一緒に行くって言ったじゃない」だとか非難の声を上げるのが聞こえた。


 いつも文庫本を読んでいるベンチから少し奥に進むと、文学部棟と教養学部棟が隣り合っているところに出る。近くに出入り口がないからか、高校時代の校舎裏や体育館裏のような雰囲気を感じさせる場所だ。僕は安藤がついてきているのを背中に感じながら、小さな裏庭のようなその場所で立ち止まった。


「やっぱりついてきた」


 くるりと振り返り、そう口にした。それにギョッと目を見開いたのは安藤で、口を開きかけたまま視線をうろうろとさまよわせている。


「別に責めてるわけじゃない。ついてくると思ってた。いや、そう仕向けた」

「沢渡……」


 安藤が戸惑いながら僕を見た。大学でも派手なイケメンで人気者だと知ったのは最近のことだ。僕がもっと周囲の声に耳を傾ける人間だったら、一年のときに安藤の存在に気づいていただろう。気づいていたら、大学を辞めるか絶対に見つからないように最大限注意しながら通っていたに違いない。


(でも、そうしていたら再会しなかった)


 どちらが僕にとって最善だったかはわからない。再会しなかったら、きっといまでも穏やかで平穏な日常を送っていただろう。

 でも、再会してしまった。そして僕は自分の中の深淵を見ることになった。そこに沈んでいたのは、安藤の告白よりずっと重く自分でも信じられない歪な形をしたものだった。


「安藤は、まだ僕のことが好きなんだよね?」


 僕の問いかけに、笑いたくなるくらい大袈裟に肩を振るわせている。偶然見かけた安藤は自信たっぷりで相変わらず人の輪の中心にいたのに、目の前にいる安藤は僕のひと言ひと言に反応し、怯えていた。


「忘れられないんだよね?」

「……あぁ」


 安藤の返事に腹の底から愉悦があふれ出した。


「そっか」

「それでも、忘れようとして」

「僕もずっと考えてたんだ。安藤に好きだって言われてから、ずっと考えてた」


 遮るように話し始めた僕に、安藤が戸惑うような視線を向けてくる。


「誰かのことをこんなに考えたのは初めてかもしれない。ううん、中学のときもしばらくこんな感じだったかな。考えて考えて、考えるのが怖くなって考えるのをやめてしまったけど」

「沢渡、」

「でも、今回はやめなかった。だから気づいたしわかったんだ」


 口を閉じた僕を安藤が険しい表情で見ている。よくないことを言われると覚悟している顔だ。

 僕はおかしくてたまらなくなった。あの安藤が僕の一挙手一投足を気にしていることに歓喜にも近い感情がわき上がってくる。


「僕は、安藤が好きだったんだと思う」

「……え?」

「中学のとき、はっきり認識してたわけじゃないけど好きだったんだ。もしかしたらずっと憧れていたのかもしれない。三年で初めて同じクラスになったけど、僕は一年のときから安藤のことを知ってたしね」


 あの頃も僕は周囲の言葉に耳を傾けるような人間じゃなかった。それでも安藤のことは知っていた。何度か見かけた姿は眩しくて、自分とは違う世界の人間なんだと思った。それでも視界に入れてしまったのは安藤に惹かれていたからだ。


「あの頃本当に好きだったのかは、正直もうわからない。ずっと思い出さないようにしていたから思い出そうとしてもわからなかった。でも、いまのことならわかる。ずっと考えて、考え続けてわかった」


 二人分くらい間を空けた距離まで近づいた僕は、少し上にある安藤の目を見ながら口を開いた。


「僕は安藤が好きだよ」

「……まさか、」

「僕から好かれるのは嫌?」

「そ、そんなことあるわけない! いや、そうじゃなくて、だっておまえは俺のこと怖がってただろ? それに忘れてくれって」

「たしかに怖かったし、忘れてほしいと思ってた。でも違ったんだ。まぁ、蘭葡らんぽさんと話していて気がついたことなんだけど」

「……あの人か」


 安藤の顔がわずかに歪む。その顔が嫉妬によるものだと、いまの僕ならわかる。


「まさか、蘭葡らんぽさんのほうに嫉妬する人がいるなんてなぁ」

「どういう意味だよ」

「だって、普通なら蘭葡らんぽさんのほうに気が向くよ? 美人だし、現にたくさんの人に言い寄られてる。しかも言い寄ってる人たちの半分は男性だ」

「あの人にそんな気持ちは持ってない。俺は沢渡しか見てない。本当だ」

「うん、わかってる」

「それに、あの人よりおまえのほうが可愛い」

「そんなこと言うのは安藤くらいだろうね」

「俺だけでいい。おまえが可愛いことに気づくのは、俺だけでいいんだ」


 安藤の視線が熱を帯びてきた。熱に浮かされたような言葉も耳に心地いい。

 きっと僕は安藤のことが好きだったんだろう。覚えていないけれど、そんな気がする。そしていまも好意を持っている。口にしたことでストンと腑に落ちた。


(でも、それだけじゃない)


 安藤が僕に夢中だということがおかしくてたまらなかった。「あの安藤が僕を」と思うだけで、愉悦にも似た感情がわき上がってくる。


(中学のときの安藤も、こんな気持ちだったのかもしれない)


 自分だけを見ている姿はたまらなく心地いい。自分だけのものになった気がして興奮する。クラスメイトから無視されていた僕を見て、安藤も同じ愉悦を感じたのだろう。


(でも、僕はああいったことはしない)


 いつもの安藤が、僕の前でだけ僕の安藤・・・・になる姿が見たい。だから安藤は人気者のままでいい。みんなが手を伸ばしほしがっているのを見るたびに、僕は心の中でほくそ笑むだろう。


「あのさ、念のため聞くけど、安藤の好きっていうのは恋愛の意味でだよね?」

「当然だ」

「それって、たとえば僕とキスしたいとか、そういったこと?」


 安藤がごくりと喉を鳴らすのがわかった。そんな些細な反応でさえ僕の腹の底を気持ちよくくすぐる。

 不意に「春みじかし」という言葉が脳裏に浮かんだ。そのまま「何に不滅の命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」と言葉が続く。情熱的な想いの丈を綴った女流歌人は僕の中にもいたのだ。

 もちろん僕に女性のような胸はない。でも、同じような唇はある。安藤は僕の唇に触れたいと思っている。それなら僕にも触れさせることができる。

 ゆっくりと人差し指を安藤の顔に近づけた。そうして食い入るように僕を見つめる目元に触れ、頬を伝って唇に触れる。さぁ、これは最初の呼び水だ。


「さ、わたり」


 安藤の手が唇に触れている僕の手を掴んだ。そうしてグイッと引き寄せ勢いのままキスをする。どさりと音がしたのは、僕が持っていたカバンから左手が離れたからだ。そういえば安藤はボディバッグみたいなカバンだったな、なんてことを頭の片隅で思い出す。


「沢渡、好きだ」


 一度唇を離した安藤に眼鏡を取られた。そうして今度は反対の角度でキスをされる。最初は触れるだけのキスだったのに、今度は噛みつくようなキスだ。

 上唇を吸われ、下唇を噛まれた。刺激に驚いて口をほんの少し開くと、舌がぬるりと入ってくる。もちろんキスなんて初めての僕は、安藤の舌に翻弄されるしかなかった。


「ん……っ、は、はぁ」


 解放されて、ようやく息ができた。最中も鼻で息はできたのかもしれないけれど、そんな余裕はなかった。


「がっつきすぎた、ごめん」


 見上げた安藤は息を乱していない。きっとこれが経験の差というものなんだろう。そう思ったら胸の奥に黒いものが少しだけわき上がる。


「いいよ。初めてで、勝手がわからなかっただけだし」

「初めて、」

「これから何度もしているうちに、僕も慣れていくよ」


 安藤ののど仏が動くのがわかった。何もかもが初めての僕にキスを教えるのは自分なのだと興奮したに違いない。これで安藤は二度とほかの人とキスをすることはない。そう思うだけで笑いたくなった。


「僕が安藤を好きだって、信じてくれた?」


 頷く安藤に「眼鏡、返して」と告げる。


「これ、伊達眼鏡だったのか」

「そう。中学時代の誰にも見つかりたくなかったから。前髪を伸ばしてるのもそのためだよ」

「……ごめん」

「もういいよ。それに、結局安藤には見つかったわけだし。中学のときと全然見た目が違うのに、よくわかったね」

「すぐにわかった」

「そっか」


 そう言って笑った僕に、安藤が恭しい手つきで眼鏡をかけた。


「ありがと」

「……おまえから、そんな言葉を聞けるとは思わなかった」


 懺悔するような声に、僕はにこりと微笑み返した。

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