第6話

 安藤に「沢渡のことしか考えられないんだ」と言われてから数日が経った。あの日以降、安藤が僕の前に姿を現すことはない。そのことにホッとしながらも、モヤモヤとした霧のようなものは胸の奥に立ちこめたままだった。


(なんでこんなに胸がざわつくんだろう)


 大学内のいつもの場所で文庫本を読みながら、そんなことを考えていたときだった。


「沢渡」


 遠慮がちに呼びかける声にゆっくりと視線を上げる。そこにいたのは、この間よりも少しやつれた安藤だった。


「安藤」

「悪い、魔が差した。すぐ消えるから」


 そう言った安藤の顔が少しだけ歪む。それを見た瞬間、僕の中にあの奇妙な仄暗いものがわき上がるのを感じた。


「安藤は」


 気がついたら、そう呼びかけていた。


「何で、僕のことが好きなんだ?」


 告白を聞いてからずっと考えていた。僕は中学のときから社交的じゃなかったし、安藤が言ったように本ばかり読んでいた。あの一件がなくても親友と呼べるような友達はできないままだっただろう。

 そんな僕に、正反対とも言える安藤が好意を寄せる理由がわからない。顔が可愛かったからというのも疑わしいものだ。そもそも高校の間一度も会っていないのに、五年経ったいまでも好きだなんてどう考えてもおかしい。そのうえストーカーまがいのことまでしてしまうなんて理解の範疇を超えている。


「自分でもわからないんだ」


 力のない返事に、思わず「は?」と問い返していた。


「最初は可愛い顔だなって思っただけだった。それが、気がついたら好きになってた。高校三年間一度も顔を見なかったのに、それでもずっと好きだった」


 安藤の言葉に、不意に「三年のあいだ待ちわびる」という文章が脳裏をよぎった。


「まるで本当にみだれ髪みたいじゃないか」

「え? みだれ……?」

「何でもない」


 蘭葡らんぽさんじゃあるまいし、安藤がそんなことを考えて口にするはずがない。それなのに、安藤の背後に情熱的な女流歌人の姿が見えるような気がした。

 その瞬間、腹の底がゾクッとした。ぞわっとした何かがうなじを粟立たせる。鳥肌を立てながら、僕の体は別の何かでブルッと小さく震えた。


「ごめん。こんなの気持ち悪いよな。……あの日から、がんばって忘れようと努力はしたんだ。思い出さないように、大学でも姿を追わないように必死だった。だけど、駄目なんだ。どんなに忘れようとしても忘れることができない。気がつけば沢渡のことを目で追ってるんだ。……ごめん」


 明るい茶髪を揺らしながら安藤が頭を下げる。


(本当に忘れる努力をしたんだ)


 いつも人の輪の中心にいて、誰からも好かれる安藤が僕の言葉一つに悩み苦しんでいる。僕を苦しめた安藤が、僕を忘れることができないのだと顔を歪ませている。


(僕だって、忘れられなかった)


 怖くて理不尽で、言われたときの胸の痛みも含めて忘れることができなかった。何度忘れようとしても奥深くで息を潜めるように居座り続けた。安藤もかつての僕と同じような思いをしているということだろうか。


(しかも、安藤が忘れようとしてるのは僕への恋心だ)


 だとしたら、僕の気持ちよりもずっと苦しいのかもしれない。


臙脂色ゑんじいろは誰にかたらむ血のゆらぎ、か」

「沢渡?」


 百年以上を経てもなお燃え続ける女流歌人の想いが口からこぼれ落ちた。それが耳から入り、僕の体を侵食していく。


(駄目だ)


 唐突にそう感じた僕は、慌ててその奇妙な感覚から目を逸らし開いたままだった文庫本をカバンに仕舞った。


「謝られても、困るから」


 それだけ告げた僕は、逃げるようにその場を後にした。


 この日以降、僕はことあるごとに安藤を思い出すようになった。歪んだ顔で「どんなに忘れようとしても忘れることができない」と懺悔する声が耳の奥でこだまする。


(あの安藤が僕のことを忘れられないなんて……)


 気がつけば安藤のことばかり考えていた。蘭葡らんぽさんが言ったとおり「いまの卓也くんはイケメンくんのことでいっぱいだ」という状況そのものだ。


「ふぅ」


 いつまで経っても心がざわついて落ち着かない。「もう大丈夫」と思っていたのが嘘のように心が揺れている。それなのに、何に揺れているのかさっぱりわからない。

 そんな気持ちのまま二日ぶりにアルバイトへと向かった。


「おや、いつになく深く思案している様子だ」

蘭葡らんぽさん」

「ふむふむ。その様子だと、卓也くんの中はあのイケメンくんで溢れそうになっている、違うかい?」


 奥の自宅スペースから出てきた蘭葡らんぽさんが、そう言いながら唇に右手人差し指を当てて笑っている。


「やはり、俺が解決すべき事件になったというわけだ」


 役者口調の蘭葡らんぽさんに少しだけ笑ってしまった。


「まだ探偵なんですか?」

「いいや、探偵が登場するシーンは書き終わったよ。もうほとんど書き終えたと言ってもいい」

「ということは、完成ですか」


 僕が少し熱の籠もった目で見ると、蘭葡らんぽさんがにこりと微笑んだ。


「わかってる。完成したら、ぜひ読んでほしい。読者第一号は卓也くんだ」

「ありがとうございます」


 僕は蘭葡らんぽさんが創り出す作品が好きだ。「難解なようであっさり、しかし読み進めると撹乱されているような不思議な気持ちになる」と言われるそうだけど、そこが僕はおもしろいと思っている。

 それに普段の蘭葡らんぽさんを知っている僕にとって、文字になっているだけわかりやすいように思えた。日常と非日常の狭間が見え隠れするような、そんな一瞬もあって興味深い。


「あいつも卓也くんくらい熱心に読んでくれるといいんだけど」


 珍しくため息をつきながら「あいつは流し読みしかしないんだ」と文句を口にした。おそらく例の幼馴染み兼編集者の男性のことだろう。そういえば、さっき僕が思い出した評価もその男性が口にしたものだと聞いた。しかも「結果的に万人受けはしない」とまで言い切ったそうだ。


(それでも毎回渡せば読んでくれるみたいだし、案外仲がいいんじゃないかな)


 一度だけ見かけた件の男性を思い出す。蘭葡らんぽさんより頭半分ほど背が高く、すらっとしたスーツ姿だった。後ろ姿で顔は見えなかったけれど、絶対にイケメンだなと思わせる雰囲気を漂わせていた。蘭葡らんぽさんと並んだら美男美女のように視線を集めるに違いない。


「俺の作品のことは置いておいて、問題は卓也くんのほうだね」

「僕ですか?」

「うん。何やら恋煩いをしている顔になっている。イケメンくんと何かあったのかな?」

「恋煩いって、そんなことないですよ。僕はあいつのことを忘れたいと思っているし、好きになることなんて、ないですから」

「ふむふむなるほど、これはなかなか厄介だ」


 そう言った蘭葡らんぽさんが、さらさらの黒髪を乱雑に掻き乱した。


「もしかして金田一耕助ですか?」


 髪の毛が絡む指がぴたりと止まる。


「いや、俺に彼を真似ることはできないだろうね」

「まぁ、そうですよね。蘭葡らんぽさんがよれよれの帽子と羽織袴にボストンバッグを持っていたとしても、きっと大勢が振り返ってしまうでしょうし。そうなると金田一耕助のイメージからは大きく外れてしまいます」

「そのいずれの小道具も俺は持っていないよ。それ以前に、彼のことを真に理解するのは難しいんだ」

「もしかして、あの名探偵が苦手なんですか?」

「そうだなぁ。ある意味そうかもしれないね。彼はメランコリーともいえる孤独を抱えた名探偵だ。それに近づくのはあまり得策じゃない。きっと容易に引きずり込まれてしまうだろうからね。そういう意味では苦手かもしれないな」

「珍しいですね。蘭葡らんぽさんにも難しく感じる存在がいるなんて」


 僕の言葉に蘭葡らんぽさんがパッと目を見開いた。


「おや、そういう卓也くんだって難しい青年だよ?」

「難しい、ですか?」

「そう、少し難しい。そしてわかりやすい。俺と卓也くんはよく似ているからね。似ているけど、決定的に違う部分もある。俺はふわふわと漂う綿毛のようなものだけど、卓也くんは登場人物が潤いを求めて口にする水のようなものだ」

「水、」


 今日の蘭葡らんぽさんはいつにも増して難しい。言わんとするところを考えてはみるものの、輪郭がぼやけてしまってよくわからなくなる。


「あぁいや、それじゃあそのうち排泄されてしまうか。そういう意味では水じゃないな。卓也くんは少しずつ蓄積されて重くなっていくんだ。そのうち目を逸らせなくなって、最後は溺れてしまう」

「よく、わからないです」

「そういう存在だということだよ。誰に対してもというわけじゃないけど、少なくともあのイケメンくんにとってはそうだった。一度溺れてしまうと抜け出すことは不可能だろう。憐れ、イケメンくんは卓也くんであっぷあっぷというわけだ」

「あっぷあっぷって」

「そして、卓也くんの中にもイケメンくんが蓄積されている。随分と重くもなった。違うかい?」


 忘れられないという意味では、僕の中での安藤の存在は相当重いものに違いない。一度は消えつつあったはずなのに、再会したことであっという間に目を逸らせなくなってしまった。それでも認めたくなくて、つい「重いかどうかは、わかりませんけど」と口にする。


「日常の中で不意に思い出してしまうということは、それだけ重いということじゃないのかな」


 何も言っていないのに、ずばりと踏み込んでくる。きっと蘭葡らんぽさんには僕の心の内がわかっているのだろう。


「さて、ではどうしてそれほど重くなったのか。卓也くんはどう推理する?」


 まるで探偵作品の話をしているようだ。そんな感想を抱きながら中学のときのことを思い出した。


(あのときは、理不尽だと思ったし意味がわからなかった)


 だから混乱した。どうしてそんなことを言うのか怖くて胸が痛くなった。


(そういえば最初に胸の痛みを感じたのもあのときだ)


 あの切ないような奇妙な痛みを最近また感じ始めている。全部、安藤に関係しているときだ。同じ痛みを中学のときも感じていた。


(胸が痛いのは……ショックだったからだ)


 ショックだったし悲しかった。悲しくて、それから怖くなった。怖くなったのは……。


(そうか、安藤にこれ以上嫌われたらどうしようと思ったからだ)


 悲しかったのは、あんなことを言うくらい安藤に嫌われていたと知ったからだ。だからショックを受けた。


「何か解決のヒントが見つかったって顔だね?」


 そんなはずはないと思おうとしたけれど駄目だった。僕は、僕の奥深くに存在するものに気づいてしまった。


「僕はずっと、どうしてあんなことを言われたのかわかりませんでした。理不尽に思ったし意味がわからなかった。それ以上にショックで悲しくて、そして怖くなった。……全部、安藤に嫌われていると思ったからです。これ以上、安藤に嫌われたらどうしようと怖くなったんです」

「そう。卓也くんは怖いとは言うけど、一度たりともイケメンくんのことを憎いとは言わなかった。理不尽だと口にしても嫌いだとは言わなかった。気づいていたかい?」


 そうだっただろうか。そういえば、安藤と再会したときも恐怖はあったものの憎しみがわき上がることはなかった気がする。


「ショックが大きすぎると、中心にあるものを見失うのはよくあることだよ。そして、見失っている間に大抵は捩れて余計に見えなくなってしまう。ふむ、二十面相に奪われた大事なものが、ようやく見つかったような気持ちだ」

「少年探偵団でしたか」

「俺が小さい頃に夢中になった名探偵だよ。さて、これで卓也くんの迷子になっていた数々のものが手元に戻って来た。これからのことは卓也くん次第といったところかな」


 にこりと笑った蘭葡らんぽさんがじっと僕を見る。


「俺はね、誰かを溺死させかねない卓也くんを好ましいと思っている。そういうところは俺とよく似ているとも思う。だからかな、卓也くんのことが好きになった。俺は元々自分に似ているものを愛しいと思う質でね。自己愛と言ってもいい。今回のこともまるで昔の自分を見ているようで、つい鬱陶しくも野暮なことをしてしまった。許してほしい」


「許してほしい」なんて、蘭葡らんぽさんが謝ることは何もない。むしろ蘭葡らんぽさんとこうして話したことで、自分を知ることができた。


蘭葡らんぽさんに謝ってもらうようなことは何もないです。むしろ感謝しているくらいです」

「これは参った。卓也くんは昔の俺よりずっと素直でいい子だ。たしかに似ているとは思うけど、あいつが言うほどとは思えないなぁ」


 あいつというのは編集者の男性に違いない。そういえば、以前「あいつが俺と卓也くんは似た者同士だと笑っていたよ」と蘭葡らんぽさんから聞いたことを思い出した。


蘭葡らんぽさんと僕、そんなに似てますかね。少なくとも、僕は蘭葡らんぽさんみたいな美人じゃないですよ。あ、でも中身が似ているということなら嬉しいです」

「おっと、それはまた熱烈な告白だ」

「そうですか?」

「大抵は俺の見た目にしか関心が向かないというのに、卓也くんは俺の中身が好きだと言ってくれる。こんないい子は卓也くんしかいないよ」


 そう言った蘭葡らんぽさんが僕の頭にそっと触れた。そうして撫でるように二度、手のひらが動く。


「拗れて厄介になっていた恋心、さて、結ぶか切るか見物といったところかな」

蘭葡らんぽさん?」

「自分の奥からわき上がる声と言葉に、よく耳を傾けることだ」


 蘭葡らんぽさんの手が頭から離れた。前半何を言ったのか聞き取れなかったものの、後半はまるで禅問答のようだ。僕は「やっぱり難しいな」とため息をつきながら、それでもしっかりと頷き返した。

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