クロック・フロッグ

羽上帆樽

第1話 対のAとB

 空。


 丘。


 うっそうと茂る草の中に、一つだけ、小さな黄金色の花が咲いていた。風に煽られて、小さく揺れている。花の香りはなく、代わりに土の匂いがした。草の匂いもする。Aは背を屈めて、その花の輪郭にそっと触れる。花は健気に咲いているが、生きているという感じがまるでしなかった。それは、きっと、自分が生きていないからだろうとAは考える。


 輪廻。


 転生。


 なんとなく、ごろが良いから、そう口に出してみる。


 立ち上がって前方に顔を向けると、地平線が遙か彼方に見えた。地面はずっと緑色。下に向かってカーブした曲線の上に、上に向かってカーブした曲線がある。それなのに、曲線は実際には一つしかない。これはどういうことだろうとAは考える。


「世界は、デジタルではなく、アナログということ」


 唐突に背後から声がして、Aはそちらを振り返る。首に巻いたマフラーがはためいて、自分の顔を覆いそうになったから、手でそれを退けた。布が退いた先に、髪の短い少女が立っていた。


「君は、なんでもかんでも、デジタルに置き換えようとするから」Bがシンプルな声で言った。何も書かれていないジグソーパズルくらいシンプルだ。「世界はもっと単純明快。考えるまでもない。感じれば、それでいい」


「やあ、いたの」


「見れば分かるでしょう? もしかして、存在を証明しようとしてる?」


「いや、そんなつもりはないよ。ただ……」


「何?」


「もしかすると、存在を証明しようとしているのかな、と思って」


 キャンセル。


 地平線に向かって風が吹いた。空気がそちらの方向に引っ張られている。Aの隣にBが立った。Aはそれを認識するが、彼女に触れようとはしない。では、一体、何をもって、彼は彼女の存在を認識したのか? それは、もちろん、視覚をもって、ということになるだろう。視覚とは、光、つまり、物質のある特定の運動、それを受容した結果生じる感覚のことだ。聴覚も、触覚も、物体の運動を受容した結果生じる感覚という点で変わらない。運動の種類によって、受容する器官が分担されているだけだ。


「というのは、考えた結果の産物だよね?」と言って、AはBに確認する。


「そうそう。よく分かってるじゃん」Bは頷く。彼女は何度も頷いた。首が外れてしまうのではないかと思われるほど頷いた。「その調子その調子」


「何が?」


「しゃぼん玉を飛ばそう」


「持ってるの?」


「頭いいからさ」


「数多の才能の持ち主」


 Bはどこからともなくシャボン玉のセットを取り出す。パイプと、液体が入った容器だ。容器の蓋を開けて、Bはその中にパイプを入れる。


 吹くのではなく、吸い込んだ。


 それで、B自体がシャボン玉になった。


 風の影響を受けて、というより、ある種の彼女の意志に従って、巨大なしゃぼん玉が空へ舞い上がっていく。Aが手を伸ばすと、しゃぼん玉はたちまち割れてしまった。


「ちょっと、やめてよ」と、隣から声。


 いつの間にか復活している彼女。


「しゃぼん玉って、割るために飛ばすんじゃないの?」


「はあ? 馬鹿じゃないの?」


「じゃあ、何のために飛ばすわけ?」


「目的なんてないよ」Bはつんとする。「もし、五百歩譲ってあるとしたら、割るために飛ばすんだろうね」


 地面から炊飯器が生えてくる。蓋を開けると炒飯が入っていた。Aはそれを茶碗によそって食べる。


「どこに行く?」彼は質問した。


「別に。どこでも」今度こそちゃんとしゃぼん玉を飛ばして、Bは答える。


 この地のどこかにある古書店で、本の整理のアルバイトをするはずだった。そのために二人はここにやって来た。しかし、古書店などどこにもない。それどころか、ここには何もない。


 相対的に質量が小さい金属バーは、自身のポテンシャルを維持するために、側面の重力加速度を一定に保ち、減速、分裂する。結果として、アルコール消毒の効果は激減し、事態は収束の一途を辿ることになる。鉛筆削りの挟み口を微分し、ルート五の三乗で割れば良いが、徹底的に成された音階の変化は、それでは収らない。


「キューキューシキュー」とBが呟く。


「アレー? ボータオシ?」とAが応答した。


「一口ちょうだいよ」BがAの炒飯を指さす。


 Aはレンゲに炒飯をよそって、Bの口に入れる。Bは炒飯を食べた。噛む度に首が上下に揺れる。


「美味しい?」Aは尋ねる。


 Bはもう一度頷く。


 ふと、顔を上げると、空はいつの間にか暗くなっていた。星が上り、月が見える。月は冗談と思えるほど大きい。大きすぎる。対照的に、星はあまりにも小さすぎた。大統領と首相ほど両者のギャップはある。


 空に輝線が見える。


 尾っぽを引いて、流れていく。


 緑色。


 落ちた。


 何の音も、衝撃もない。


 AはBの手を取って、輝線の着弾点に向かって歩いていく。手をぶんぶんと振って歩くと、春が散ってガルが飛んだ。


「ここって、どこ?」Bが質問する。


「さあ」Aは首を傾げた。


「ちゃんと帰られる?」


「さあね」


「大丈夫だよね?」


「うーん」


「ちゃんと考えておけよ!」


「そんなこと、言われてもね」


 突然立ち止まり、AはBを抱き寄せる。


 Bは泣いていた。


 目から大粒の涙が零れて、足もとに池を作る。


 溺れてしまいそうな予感。


 しかし、予感は当たらなかった。


 重力が反転したから。


 水が、下から上へと流れる。


 流れて、空を青く染める。


 雨が降ってきた。

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