第2話

 人生最大の屈辱は、母に負け続けていることだ。

 父は医師で、背もすらりとして、見目麗しい。難しい本をたくさん読んでいるし、油絵だって何度も入賞している。

 その昔、母はただ美しいだけのお人形さんだった。

 光も音も知らない。だけど、母は父の輝きを見抜き、愛の印を迷わずにつけたのだ。月岡つきおか学園に、母をモデルとして、絵を描きに来た少年の手に噛みついたのだ。私は、目を閉じる。チューリップの香りと冷ややかさ、控えめな触れ方をしてくる、自分より大きな少年の手。きっと緊張して、汗ばんでいる。私は、首を捻る。どうして、その子が運命の相手だと解ったのだろう。

 ある日、子供の戯言たわごとで、私は父のお嫁さんになるのだと宣言した。適当に話を合わせておけばよいものを父はそれはできない、お父さんのお嫁さんは、小華こはるだけだと抜かした。

 端的に、面白くなかった。地団駄踏んで、泣きわめいた。だって、お母さんは、大人になっても子供みたいじゃない。子供をお嫁さんにしたんだから、子供のあおいと結婚したっていいじゃない。

 父は首を振る。碧が大きくなったら、きっと大好きな男の子ができるよ。お父さんよりも、大好きな男の子がね。よく意味が解らなかった。

 それから、私は父のまわりをうろつくインテリ男子たちにちょっかいをかけるのだった。さすがに、相手も大人である。誰も本気にはしない。

 哀れに思ったのか、青年の一人が助言した。オウジロウさんは、知的な女の子が好きだよ。

 慧眼だった。小華さんは、ただ見た目が可愛いから、オウジロウさんのお嫁さんになれた訳じゃない。ものすごく努力して、言葉を手に入れた。そこなんだよ。碧ちゃんは、お母さんと同じくらい頑張ったものがあるのかい。

 そうか、そうだったのか。それから、私は、父の後輩にちょっかいをかけるのを止めた。その代わりに、学校の勉強に身を入れた。外国語も習ったし、絵画教室にも通い始めた。

 でも、嘘っぱちじゃない。

 結局、私が一所懸命になったところで、母が言葉を得たほどのインパクトはないのである。

 つまらなかった。

 勉強はほどほどにして、生まれてきた妹と遊ぶ。たまに、祖父のコンサートを聴きに、外国へ行く。

 母が亡くなって、父はほとんど家に帰らなくなった。

 ああ、この子は、妹は父に恋することも、母に嫉妬することもなく、この山のお屋敷で育っていくのだ。幸せなのか、不幸なのか判然としない。

 一歩、外に出ると、世間や学校では、天才少女と騒がれる。父の愛も得られないのに、何が天才か。

 美術室で、絵を描く日々。

 進級してできた後輩。田中たなかという女の子は、嫌いではなかった。まるい眼鏡をかけている。でしゃばらず、普通の先輩として扱ってくれる。病気のことを告白したのも、田中がはじめてだった。一人泣いていると、いつもお菓子か何かくれる。自分より、子供だと思われているのかもしれない。何だか、嬉しくなった。

「え、で、何で、田中さんと買い物に行こうとしないの?」

「はあ~…」

 深い溜息を吐く。

「こんなに長々と語ったのに、国語力が皆無なのかしら。坂木さかきは」

「田中さん…」

 石矢いしや君は、腕組みして考え込んでいる。はっと、顔を上げる。

田中愛加たなかまなかさん? ナカナカって呼ばれている子?」

 そこで、石矢君が青ざめる。

「ちょっと待って。田中さんと僕、ポジション被ってない?」

「いや、石矢君のが、可愛いから」

 しれっと、坂木がほざく。

「それを言うなら、田中のがお前より可愛いよ! 女子はメイクしたら化けるんだから!」

 頬を膨らませる。

「田中は、きっと良い中間管理職になるよ!」

「何だ、その微妙な物言いは…」

 坂木が、うろんな目をする。

 事の発端は、私が「石矢君と勝負下着買いに行く~」とるんるん気分で言ったことだった。

「いや、そういうのは、女子と行けよ」「石矢君は、どう見ても、女の子の友達ポジションじゃない!」との応酬。そこで、坂木は、田中のことを持ち出したのである。

「だからあ、田中はそう言うんじゃないの。私が出しっぱにしたイーゼルとか、油絵の具とか、何も言わずに片付けてくれる子なの! 部のプリントとか、取っといて、後で私に渡してくれる子なの!」

「それ、ただの使い走りだろうが!」

「うん、田中さんと僕、やっぱり同じポジションだ…」

 心なしか、石矢君の表情が暗い。

「馬鹿坂木! 田中とは、必要以上に仲良くなりたくないの! 解りなさいよ!」

 坂木は、やはり、首を傾げている。

「あっ、そう言うことか!」石矢君が、立ち上がる。「これ以上、好きになると困っちゃうから! ってやつだ! 姉さんたちの少女漫画で読んだことあるよ!」

「いやあー! 石矢君のえっち!」

 石矢君のベッドカバーをひったくって、頭から被る。夏用の毛糸で編んだ手作りである。もはや、女子。完全に、女子。

「うん、ごめんね。くれさん。代わりに、謝っておく」

 しんみりした調子の坂木。

「芸術家は、大概、惚れっぽいの! 軽い女だなんて思わないでよね!」

「うん、解ったから…」

 困惑が、声から伝わってくる。でも、田中をお嫁さんにしたいと思ったことがあるのは、内緒である。坂木とつきあう前だし。

「四角関係は、なお面倒臭いし…」

 小声で、呟く。三角だから安定しているのに、四角って!


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