君への道は、ローマで通ず

武内ゆり

第1話

「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」

私はブツブツと小声でそらんじる。覚えてしまった。今まで塩野七生さんの本を読んできた中で、唯一心が震えたところだ。心が震えるというのは、合唱やオーケストラの演奏を聴いていると、身体中にメロディがじんと滲みわたる、あんな感じである。

「進もう、神々の待つところへ、われわれの……あれ、なんだっけ、敵の待つところへ、賽は投げられたぁ!」

こうした葛藤を乗り越えて、カエサルはルビコン川を渡ったのだ。私はというと、校舎の最上階へ向かう階段を登り切って、ゼエゼエと息切れしていた。やれやれ、階段を一気に登るというのも一苦労だ。しかしこの先に、図書室が待っている。栄えあるローマ帝国の続きが……待っている。

 確かにカエサルと比べたら、どうしようもないほどショボイかもしれない。でも、期待に胸を躍らせていると、世界が明るく見えてくる。塩野七生さんの描くカエサルは、地球を照らす太陽のように輝いている。塩野七生という名のガイアに祝福され、よみがえってきた時代精神なのだ。かっこいい。

 私には、とある朝習慣があった。朝食後から登校前の約15分間、粉末ミルクティーにお湯を注いですすりながら、分厚い『ローマ人の物語』をひもとくというものだ。紙面に広がる広大な歴史。愉快な人間模様。

 世界は広しと言えども、朝っぱらからローマ人をひもといて、ささやかな知的幸福に浸っている女子高校生など、ほとんどいないのではないだろうか。そんな微妙な優越感も相待って、いつの間にか習慣となっていた。

 さて、アウグストゥスを越え、五賢帝を乗り越え、塩野さんがことあるごとに「カエサルがいれば……、アウグストゥスがいれば……」とぼやき始めた頃。私は教室で、あるものを見つけてしまった。

それは『ローマ人の物語』である。決して見間違えることのない表紙と分厚いフォルムのその本は、学年屈指の読書家である中川くんの手におさめられていた。世界に『ローマ人の物語』を読む高校生がいたなんて! 月面でうさぎに出会うような衝撃があった。私は、井の中の蛙だったのだ。

 私は彼に話したい欲望に駆られたが、精神世界のルビコン川は越えられなかった。彼は若かりし頃の二宮金次郎の如く、四六時中、本を持ち歩いていた。廊下を歩いている時も本、休み時間も本、とにかく本。一週間もたたずに、二巻、三巻と表紙の絵が変わっていくことに、私は焦りを感じた。ああ、一年かけて歩んできた道は、彼にとっては数週間に過ぎないのか。

「先人は後人に越され易し」という言葉が、今まさに、ひしひしと感じるのだった。いや、ずっと彼が先を歩いていたのだろう。私が本を読み始めたきっかけも、彼に起因すると言えなくもないのだから。

密かにライバル意識を感じているものの、読書量といい、人間としての実力といい、彼には叶いそうにない。

ある時、人の少ない昼休みに、教室で本を読んでいる彼を見つけた。今がチャンスだと思った私は、勇気を出して声をかけた。

「その本、面白い?」

私の声は緊張で震えていた。彼は顔を上げた。

「面白いよ」

「そうなの……。私もそれ、読んでるから」

「ああ、そうなんですか」

心なしか、お互い声がうわずっている。

「五賢帝の統治システムはとても参考になる」

と彼はいう。私は人物模様中心に見ていたので、統治がどうだという感想を持ったことがなかった。そこに青年期特有の、微妙な劣等感を覚えるのだった。それでも、話せてよかった思った。

 ああ、私は彼とこういう話がしたかったんだと知った。それから、本の話をするようになった。彼がクラウゼヴィッツの『戦争論』に手を出せば、私も内容を理解できないながら、意地で読み切ったり、『宮本武蔵』をお勧めしたり。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』で盛り上がったこともあった。

 彼は尊敬できる人であり、唯一、ライバル心という密かな甘えをぶつけられる人でもあった。

「それ、なあに?」

読んでいる本を聞き合える関係は、楽しかった。

ある日、彼は言った。

「こういう関係って、いいよね。男女とか付き合うとか、煩わしいこと考えなくていいからさ」

「えっ」

私は思わず聞き返しかけた。でも、すぐに、無理に笑顔を作った。

「うん……そうよね」

自分以外のものを傷つけたくはなかった。このあと校舎のトイレで、少しだけ泣いた。

 しかし私は涙の川を渡った。やはり、カエサルと比べたら断然小さいのには違いないが、それでも人それぞれの渡るべき川があると思えば、それで十分だった。

 永遠のローマが、そこにあった。

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君への道は、ローマで通ず 武内ゆり @yuritakeuchi

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