煙草
増田時雨
煙草
夏のある夜。
小汚いアパートのベランダに座って、空を見上げる少年が1人。
締め出されてから何時間が過ぎたのだろうか。点滅する星々が、僕の心にそっと影を落とす。静かな夜。ただ虫の声と、生ぬるい風だけが僕を包む。
閉められたシャッターの奥では、きっと酒に酔った父の理不尽な罵倒と、母の泣き叫ぶ声が飛び交っていることだろう。
僕はそんなことを考えて、ちょっと後悔する。こんなに綺麗な夜空も、その現実の前では暗闇と化す。
あーあ、嫌になってきちゃった。
僕はそうぼやいて、冷たい壁にもたれる。
ひゅーっと風が吹いた。
涼しげな風鈴の音と共に、煙草の匂いが運ばれてくる。
父さんと同じ煙草の匂い。
気づいた瞬間、僕の目から涙が溢れた。どうせ僕が泣いたところで、この現実は変わらない。そう思っていたけれど、感情というものはそう簡単ではないようだ。一度泣いていると自覚してしまうと、もう止められなかった。
声を殺して泣いていたのが、だんだん耐えられなくなって、終いには子供のようにわんわん泣いていた。
「えっと……大丈夫?」
隣のベランダから、声がした。
慌ててそちらを見ると、癖のある黒髪が仕切り板の向こうから見えていた。
僕はゴシゴシと目元を擦り、鼻を啜る。
返事がないのが不安だったのか、隣人はぐぐと体を捩らせて顔を覗かせる。
僕と目が合うとはっとした表情を浮かべ、でもそれは一瞬で困ったような笑顔へと変わった。
「君、こっち来る?」
予想外のお誘いに、僕は固まってしまった。隣人は
「ちょっと待っててね」
と言って顔を引っ込めると、ドン、という鈍い音が静かな夜にこだました。
ボロアパートの仕切り板はもう意味をなしていないようだ。隣人は瞬く間に下の一枚を外してしまった。
「ほら、こっち。」
そう言って、僕に手を差し伸べてくる。
僕はおずおずとその手を掴んだ。
引っ張られた先のベランダには、灰皿と換気扇の他には何もなかった。灰皿には、まだ赤く灯った煙草がくしゃりと折り曲げられている。
彼の部屋は、いわゆる男子大学生の一人暮らしの部屋と言えるようなものだった。全体的に家具が少ない。床にそのまま敷かれた布団は畳まれておらず、その上に靴下が脱ぎ捨ててある。低い丸テーブルには空のカップ麺が置いてあって、そこからあの独特な香りがたちのぼっていた。
彼は申し訳なさそうに僕をその部屋に通す。
「これだからいつも整理整頓は大事って言われるんだよなぁ」
少し顔をしかめた彼は、床に散らばったものを足で避けながら道を作る。
「腹とか減ってる?まぁ、そんないいものは食べさせられないけど。」
そういえば、夜ご飯を食べていない。
テレビ台の上の時計を見ると、22時を示していた。
こくりと僕がうなづくと
「よっしゃ、ちょっと待っててね」
と言って彼は台所に入って行った。
しばらくすると、焦げ臭い匂いが部屋中に広がった。
「えっと……ごめんね、やっぱ無理だったわ」
そう言って彼が出してきたものは、食べ物と言ってしまうのには食べ物に申し訳ないような有様だった。
「ふっ」
思わず笑みがこぼれ落ちた。
「あっ、笑ったな!」
彼が頬をむくぅと膨らまして抗議する。
その顔が、あまりにもわざとらしくて、また笑いが止まらなってしまった。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
その晩、僕は彼と共に眠った。
その一晩から、彼の部屋が僕の居場所になった。親の機嫌が悪い時は
「図書館に勉強してくる」
と言い残して彼の部屋に向かった。
チャイムを鳴らすと、くたびれた長袖のスウェットを着た彼が笑顔で出迎えてくれる。
彼の部屋は初めて行った時の状態とは打って変わって、ショウルームのように整理されている。
彼は僕のいる間、パソコンに向かって何か小難しい文章を打ち込んだり、ぼーっとしていたり、様々だった。
時には僕のやっているワークを覗き込んで、教えてくれることもあった。
彼は文系らしい。
数学のワークを解いていると、
「数学は無理」
と言って布団に潜ってしまう。
でも、英語や社会になるとすぐに僕の隣に座って、意気揚々と豆知識などを話してくれる。
彼の教え方は決してわかりやすいわけではないけれど、親身になって質問を聞いてくれるのがちょっとくすぐったかった。
昼には、彼が手料理を出してくれる。あの晩から料理に火がついたようだ。
卵焼きに焼いた肉にちょっと野菜、みたいな献立からだんだんと上達していっている。
今ではコロッケに挑戦しているようだ。
僕が美味しそうに食べてくれるのが嬉しいのだと、彼は楽しそうに言っていた。
僕の最悪だった日々が、彼によって少しずつ色づいていく。
彼の気遣いひとつひとつが僕にとって初めてで、新鮮で、眩しいものだった。
だから時々、怖くなる。
「明日には、彼は跡形もなく消えてしまうかもしれない」
「彼は、僕の中の想像なのかもしれない」
そうだったら、僕はどうすればいいのだろう。
一度知ってしまった幸せをもう無くすことなんて考えられない。今まではなかったものだからこそ、それがとてつもなく大切で、特別なものになってしまった。
ある、蒸し暑い夏の日。
彼はいつもと変わらない長袖のスウェットで僕を出迎えてくれた。
「暑くないんですか?」
僕が問うと、彼は少し困ったように笑った。
「あんま外でないから平気なんだよね〜」
そう言いながら彼はそっと腕を組む。何かを隠すように。
少し違和感はあった。
でも、僕はそれを見ぬふりして玄関へと足を踏み入れた。
でも、そんな幸せな日常は長くは続かなかった。
父が、夏休みに入った。
毎日家から出ていく僕を見て、父は怒鳴り声をあげた。
「俺が休みな日ぐらい家にいろよお前!」
ばち、という鋭い音が家中に響いた。
頬に激しい痛みを感じる。
ぶたれた、そう気づく間も無く父は僕をリビングに引っ張っていき、思い切り床に叩きつけた。
「お前を生かしてやってるんだから大人しく俺のいうことくらい聞けよ!!」
そう言って僕の腕を踏む。
これはあざになるな、半袖着るのはやめておこう。
そんな感情しか湧かなくなっている自分にびっくりした。
もう末期だな。そう思いながら父の理不尽な暴力を受け続ける。
僕が無抵抗なのが面白くなかったのかもしれない、今までに感じたことのない刺激が僕の右腕を襲った。
顔を歪めてそこを見ると、父が火のついた煙草を押し付けているのが見えた。
じゅう、と言いながら僕の肌が焼け爛れる。
脂が焦げたような匂いがして、煙草の火が消えた。
それからは散々だった。
母に殴りかかる。酒を浴びるように飲む。皿を割る。
動物園の檻の中の方がまだ安全だと感じられるほど、家の中は荒らされていった。
僕はただ黙って、部屋の隅に座っていた。
早く眠ってくれ、そう祈ることしか出来ない自分に嫌気がさした。
父がやっと治ったのは、それから半日ほど経った後、もう夜のことだった。
僕はばれないように、ベランダから彼の部屋に向かう。
彼もベランダにいて、夜空を見上げながら煙草を吸っていた。
その匂いのせいで先程の痛みが蘇り、僕は思わず顔を歪めた。
「あ、ごめん。煙草嫌だよね」
彼は僕に気づいて、慌てて火を消す。
そうじゃない、彼のせいでこんな思いをしたわけじゃないんだ。
そう言おうと思って、でもそれは嗚咽の中に消えてしまった。
急に泣き出した僕を見て、彼は家の中からティッシュを持ってきてくれた。
彼がそっと僕を抱きしめて背中を撫でる。
何も聞かずにただそうしてくれる彼の優しさを感じて、僕は彼の胸の中でただただ泣きじゃくった。
そのまま眠ってしまったのだろう、目が覚めると僕は彼の布団の上にいた。
「あ、起きた?」
布団のすぐ隣で本を読んでいた彼は、僕に気づいてそっと笑った。そして、辛そうな顔をしながら僕の右腕を見つめる。僕も釣られて見ると、そこに包帯が巻いてあった。
「あまりにも痛そうだったから、応急処置をしちゃったんだ。でも、ちゃんと病院行かないとね。跡が残っちゃう」
そう言って彼も右腕をさすりながら苦い顔をする。
「そうだ、夜ご飯は食べた?今日は天ぷらを揚げたんだ」
彼は明るい声を出してキッチンに入っていく。
その時、彼が腕まくりをした。
右腕の同じところに丸い火傷の跡がたくさんあるのが、見えてしまった。
僕の今日つけられた傷にとても似ていて、さあと血が引いていく。
「じゃーん、天丼でーす」
優しい出汁の香りが僕の鼻を掠めた。
彼は僕の顔を見て心配そうに眉を顰める。
「具合悪い?顔色が良くないね」
「だ、大丈夫です、いただきます」
僕は無理に笑顔を浮かべて、その天丼を頬張る。甘辛い味付けの天ぷらと白米が程よく絡み合い、僕の空腹を刺激する。
美味しい。いつの間にかまた涙が溢れ出した。
僕は涙でぐしゃぐしゃになりながら、彼の温かいご飯を食べ続けた。
花火の音が聞こえる。
僕はまたもや両親が眠ったのを確認してからそっと彼の部屋に向かった。
今日は近くの公園で夏祭りがあったようだ。
喧騒から離れたこのアパートは、いつもよりもっと静かなように感じる。
彼はベランダに出て、空を見上げながら煙草を吸っていた。
風が吹くたび、ゆらゆらと煙が上がって風鈴が鳴る。
父と同じ煙草の匂い。それがいつの間にかほっとする匂いに変わっていたのはいつからだろう。
前に、彼に煙草について聞いたことがあった。
彼は困ったように笑いながら、
「この煙草がとっても大切な人と俺を結んでくれるように感じるから、かな。ふふ、実は俺、相当ロマンチストなんだ」
とおどけて見せた。
さぁと風が吹く。
風鈴の音が暑苦しい夜に爽やかなエッセンスを加えてくれる。
彼の半袖がめくれた。
僕、いや、
「俺にも一本ちょうだい」
俺と同じ所に傷のある彼の腕に気づかないふりをして、彼のいるベランダへと駆けて行った。
煙草 増田時雨 @siguma_rain
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