とりなしを乞う


 どのぐらい放心していたか、物音で我に返った時には、すっかり日が傾いて薄暗くなっていた。振り返ると、ウズルとシャダイが恐れもあらわに、薪を持って立っていた。

「……ああ」

 タスハは嗄れた声でそれだけ言い、小さくなった聖火に向き直った。

(お許しください、アータルよ。愚かで矮小な怒りにとらわれ、祭司のつとめを疎かにしてしまいました。罰はどうぞ私一人の身に。カトナに慈悲を賜りますよう)

 深く頭を下げて祈り、なんとか気持ちを切り替えると、彼は弟子に場所を譲った。

「薪をくべて、とりなしの祈りを。……頼む」

 それだけ言い、聖域を出て礼拝室の水盤で手を清める。こびりついた血が落ちた後も、すぐには戻れなかった。視線の先では、平神官の丸帽子をかぶった少年が、見習いに指示を出しながら聖火を整えている。落ち着いた態度からは充分な経験に裏打ちされた自信が窺えた。そして、炎と三柱の神々に祈る横顔の敬虔さ。

 情けないことに、タスハはようやっと少年をただの弟子ではなく、一人の神官として認めた。神官位を授けた時に、そのように考えを改めたつもりであったのに、実際には今の今まで彼を一人前とみなしていなかったのだ。

 タスハは己を恥じ、うなだれた。

 あれほどの怒りに我を忘れたのも、理由は明らかだ。ウズルは自力で新しい神殿のあり方を模索するのだ、師を踏み越えねばならない――などと格好をつけたことを言っておいて、その実、踏まれる覚悟など微塵もなかった。それどころか、祭司として権威を保ち、この神殿を支配し続けるつもりでいたからこそ、いざ不意打ちを受けた途端に鍍金が剥がれたのだ。

 つくづくと深い悔悟のため息をつく。弟子二人が不安げに振り返ったので、タスハは微苦笑を見せてゆっくり歩み寄った。

 聖域を区切る柵の手前で、初めてそこを越える時のように合掌して神々に許しを乞う。それから彼は、弟子それぞれに慈しむまなざしを注ぎ、心を込めて謝った。

「すまなかった。異教徒と罵ったことは取り消そう、私が間違っていた」

 その一言でシャダイがほっと笑みを広げ、一方ウズルは唇を引き結んで顎を引いた。

「おまえたちが神殿の将来を考えてくれたこと、王の命令に背くことなくカトナの矜持を保つための方策だったこと……ジェハナ殿から聞いたよ。おまえたちの優しさと誠実さを忘れるなど、師匠失格だな。本当にすまない」

 そんなこと、とシャダイは言いさしたものの、適切な言葉が出てこず詰まってしまう。何とか言ってくれと兄弟子を小突いたが、ウズルは硬い表情のままだった。

 これは許されそうにないな、とタスハが諦めかけた時、ウズルは不意にくしゃりと顔を歪めた。涙を隠すように、勢いよく頭を下げる。

「申し訳ありませんでした! 思い上がって、勝手な真似をして」

「思い上がりなものか。前へ進めと促したのは私だぞ」

「そうじゃなくて! 俺は自分が一人前になったつもりで、どうにかしてあなたにも認めさせたいと、腹を立ててました。それが甘えだってわかってなかった。神殿の将来を担うのは俺なんだ、どんな事ができるか知ったら見直すに違いない、って決めつけて、相談もしなかった。本当に一人前の神官なら、それこそ、行動を起こす前にちゃんと話し合うべきだったのに! 俺のせいで、こんな……、めちゃくちゃに」

 最後はもう嗚咽に飲まれて言葉にならない。タスハは少年の肩を軽く抱き、優しくあやすようにさすってやった。もう何年もしていない仕草だったが、ウズルは恥じもせず、師に縋って泣きじゃくる。

「大丈夫だ、そんなに泣くな。明日にも私が各所に謝りに行くから。参拝者はしばらく減るだろうが、何度でも頭を下げるし、今後はおまえに歌を任せてもいい。心配するな」

 惨めでみっともないざまを晒すことになるだろう。当分、町の皆にあれこれ憶測され、陰口をささやかれるだろう。それでも、つとめを続けるしかない。

 それに、一番の問題はタスハの体面や信用ではない。

(総督府へ行かねば)

 このことが知れたら、ワシュアール王はどう出るか。イムリダールに土下座してでも、とりなしてもらわねば。

(随分厳しいことになりそうだが)

 果たして謝罪を受け入れてもらえるだろうか。総督の大事な妹を泣かせたのだ、平伏した背を踏まれるぐらいは覚悟しておかねばなるまい。しかもあの直感が正しいなら……

(ああくそっ、総督はとうに気付いていたのか)

 そうだ、間違いない。ジェハナはなぜかタスハを好いてくれて、それをイムリダールも察したからこそ、田舎祭司が不埒な考えを抱くなと釘を刺したのだ。今日の諍いの結果、彼女の好意が欠片も残さず消し飛んだとしても、手酷い痛撃を与えたことは動かしようのない事実。よくぞ妹の目を覚まさせてくれた、と感謝されるわけがない。

(なんてことだ。殺されるかもしれない)

 タスハは天を仰ぎ、神々の慈悲と加護を乞うた。他に縋れるものがなかったのだ。


     *


 祈りが届いたのか、それとも天罰てきめんということか。

 その夜のうちにタスハは高熱を出し、翌朝は身を起こすのもやっとのありさまになってしまった。謝罪に行かねばと言い張り、義務と危機感を支えに立とうとするが、頭はふらふらだし、足にも力が入らない。

 シャダイが身辺の世話をする一方、ウズルが礼拝を簡略化して済ませ、町へすっ飛んで行った。

 しばしの後、祭司の部屋を訪れたのは、医者と友人の取り合わせだった。オアルヴァシュは念のためにハドゥンを室外に待たせておいて、タスハを診察し、一言告げた。

「過労だな」

 感染しないから入ってよし、とハドゥンに許可を出し、自身は枕元に腰掛けを引き寄せて座る。タスハは頭も上げられないまま、情けない表情で医師を見上げた。

「それほど無理をした覚えはないのですが」

「俺の見立てが不満か? 疲れってのは自覚がないままに溜まっていくもんだ。あんたはここのところ新年祭の準備で忙しくしていたろう。加えて心労。俺たちがこの町に来てからずっと緊張を強いられていたんだ、いい加減ぶっ倒れない方がおかしい」

 ふん、と医師は鼻を鳴らして腕組みした。横からハドゥンが心配そうに覗き込み、いたわる。

「昨日は熱に浮かされてたんだな。おまえがあんなふうに怒鳴るなんて、おかしいと思ったんだ」

「ハドゥン……残念だが、あれは」

 タスハは弱々しく否定しかけたが、ハドゥンはその額に手を置いて黙らせた。

「そういうことにしとけ。ひどい熱だ」

 幼馴染みの思いやりに、タスハは抗弁する気力もなく瞑目する。ハドゥンは濡らした手拭いを汗ばんだ額に載せてやり、少々わざとらしく呆れた。

「違うってんなら、おまえが怒りすぎて身の内から焼かれたって話になっちまうぞ。実際、あの時のおまえは本当に火を噴くかと思ったさ。まさか俺が、よりによっておまえに対して、震え上がるなんてなぁ」

 ふざけた口調を装いつつも、声音にはまだ本物の恐れが潜んでいる。オアルヴァシュがさらりと肯定した。

「ああ、それも一因だろうな。度を超して強い感情を抱くと、意図せず標を辿って深淵に降りてしまうんだ。状況に対処しようとして本能的に術を探すせいだと考えられているが、とにかく、普段やらないような勢いで大量の標を開き、力をいっぺんに引き上げて、しかもそれを外へ出さずに溜めこんで無理やりまた沈めるんだから、すさまじい負担がかかる。本来あんたの路なら充分耐えられたろうが、今回は疲れが重なったのが悪かったんだろう」

「……なんとなく、理解できました」

 ぼんやりとタスハはつぶやいた。渦巻く白い炎の螺旋。路を自覚してから何度か意識したあれは、理の力だったのか。

 ハドゥンが目をしばたたき、不安げにタスハとオアルヴァシュを見比べた。

「物騒だな、おい。あの凄まじい迫力は、魔法が暴走する寸前だったってわけか? それじゃあ先生、こいつが堪えきれなかったらどうなっちまうんだ」

「路が損なわれて、ウルヴェーユを使えなくなる。ついでに身体もやられて、言葉が話せなくなったり手足が麻痺したり、最悪の場合は死ぬ。資質の程度によっては、周囲に居合わせた人間を巻き添えにすることもある。ああ、そんな顔をするな。よっぽど極端な条件が揃わない限り心配いらんよ」

 しれっと恐ろしいことを言い、オアルヴァシュはタスハの胸元にトンと指を突いた。チリン、と小さな音が路に響く。火傷した肌に清水が注がれたようで、タスハはほっと深い息をついた。オアルヴァシュは黙って患者の様子を診ると、問題ない、とうなずいて満足の表情になる。

 それでもまだハドゥンがしかめっ面なので、彼は辛抱強くさらに説明した。

「いいか、危ないことになるのは、度外れた資質の持ち主が、生きるか死ぬかの瀬戸際ぐらいに切迫した感情に襲われた時だけだ。普通の人間が普通に怒ったぐらいじゃ、どうにもならん。仮に路を全開にしたって、並の資質じゃ力の量も深さもたかが知れてる。祭司殿ぐらいだと相当の力が出てくるが、そのぶん路も丈夫だから、まず安全だ。あんたの友人が破壊の大悪魔に化けたみたいに怯えるな」

 揶揄されたハドゥンが酷い渋面をしたので、タスハは失笑し、面白がるまなざしを向けた。これまでタスハは常にハドゥンの子分、面倒をみてやるべき弱虫だったというのに。

 彼の内心が伝わったか、幼馴染みの親分は怒ったふりで手拭いを乱暴に取り替え、皮肉な目つきを覆い隠した。

「びびるもんか、こいつはなんにも変わっちゃいねえさ。世話の焼けるお人好しだ。今回ぶっ倒れちまったのも、その『路に負担をかける』だか、そういう危険があるって教えられてなかったせいだろう。あの導師様ときたら女子供の指導は熱心にやるのに、おっさんは放置か」

 苦々しく放たれた言葉にタスハが憮然とし、被せられた手拭いをずらす。オアルヴァシュがふきだした。

「そう言うな。祭司殿の資質を見れば、どんな導師もやる気をなくすさ。大概のことにはびくともしないだろうし、独り勝手に標を辿って相当な深みにまで降りている。教えることなんか何もない、ってな。正直、俺も妬ましいよ」

「皮肉なものですね。それほど恵まれている私が祭司であるとは」

 タスハはぽつりとつぶやいた。ハドゥンが同情的な顔をした横で、オアルヴァシュの方は、何を言っているんだ、と眉を上げる。

「皮肉? なぜ。資質があるのは『最初の人々』の血を引くしるしにすぎない。祭司だろうが山羊飼いだろうが貴族だろうが、恵まれてる奴は恵まれてるし、貧相な奴は貧相だ。ただそれだけのことさ」

 あっけらかんと割り切られ、タスハは返す言葉もなく絶句する。そもそも、熱のせいでまともにものを考えられない。ワシュアール人の価値観にはついて行けないな、とぼんやり思いつつ、彼は確かめておきたいことを尋ねた。

「医師殿。総督は……何と言っていますか。ジェハナ殿は」

 途端に、いわく言い難い気まずさが漂った。ハドゥンが頭を掻き、オアルヴァシュも腕組みして目をそらす。

「その件については、今は考えるな。気に病むとますます身体に良くないぞ」

 オアルヴァシュがごまかし、ハドゥンも調子を合わせる。

「少なくとも、地元祭司がワシュアールの役人を侮辱した、とかいう方向の話にはなっていないから、そこは安心しろ」

 そんな曖昧な言い方でなだめられても、かえって安心できない。タスハは胡乱げな目をしたが、二人ともそれ以上は教えてくれなかった。

「皆にはわしからちゃんと言っておく。祭司様は誰のことも断罪していない、元気になったらまたカトナのために神々へのとりなしをしてくださる、とな。とにかく、養生することだけ考えろ」

「大袈裟だな。じきに良くなるさ、明日には自分で謝りに行くよ」

「そういうのが駄目だと言ってるんだ」オアルヴァシュが厳しく却下した。「消耗した状態で自分に鞭打って何かをしても、ろくな結果にならん。熱が下がっても、しばらくおとなしく寝てろ。弟子どもに、祭司殿を絶対に外に出すな、と言っておくからな。……頭を冷やす時間を与えてやれ」

 痛ましげな最後の一言に、タスハは反射的に身を起こした。誰に、とは訊かずとも明らかだ。それほどまでに彼女を酷く傷つけたのか、謝らねば――後悔し焦り、今すぐ這ってでも彼女のもとへ行きたくなる。だが急に動いたせいで、すぐさま吐き気に襲われた。

 再び沈没したタスハを、シャダイが慌ててきちんと寝かせる。オアルヴァシュは見習いの少年にあれこれと看病の指示を出して、腰を上げた。

「ウズルが導師殿と話し込んでいた。あんたの謝罪はたぶん、しっかり届いている。急がずに、最低でも四、五日は置いてからにしろ」

 わかったな、と念を押して医師が出ていく。ハドゥンはそれを見送り、肩を竦めた。

「それじゃ、わしもお暇するが……何か入り用の物があったら言ってくれ。看病の人手を寄越そうか?」

 いや結構、とタスハは弱々しく断り、諦めたように目を閉じる。ハドゥンは憔悴した友人を見下ろし、つくづくと嘆息した。

「まったくもって、厄介な相手に惚れちまったな」

「……うん」

 ほとんど唇を動かさない、嗚咽のような一言。

 ハドゥンは驚きと同情を顔に浮かべたが、言葉はかけないまま、枕元をぽんと叩いて部屋を後にした。


 熱は一日で下がったが、タスハは忠告に従い、しばらく静養した。実際のところ身体的にもつらかったし、それ以上に、路が落ち着かなくて何も手につかなかったのだ。

 色と音が今までよりも鮮明に意識され、ちょっとしたことで標が反応し、様々な知識や直観と結びつく。自分自身の考えを筋道立てておこなうことが難しい。食事や清掃のような、身体に染みついた日常の動作はこなせるものの、そこに祈りの入る余地はなく、長い会話も続けられなかった。

 祭司を案じた町の住民が、遠慮しながらも毎日誰かしら絶えず見舞いに来てくれたが、そんなわけで、彼は応対を弟子たちにほとんど任せきりにしていた。

 四日ほどすると、少しずつ祈ることが可能になり、そうなると路もゆっくり鎮まっていった。だが礼拝を執りおこなえるまでには至らず、彼は一人で食堂のアータル像に祈っていた。当然、教室はずっと休みのままだ。総督府での方は再開したとウズルが教えてくれたが、生徒たちも『異教徒』の断罪に動揺しているようで、集まりが悪いらしい。

(早く謝りに行かなければ)

 祭司と導師が和解したことを、皆の目にはっきりさせなければならない。タスハは焦っていたが、果たして己にその準備ができているか、相手はどうだろうかと案じると、足が萎えて行動に移せなかった。

 オアルヴァシュは時間を与えてやれと言ったが、いつまで待てば適切なのだろう。ぐずぐずして手遅れになりはすまいか。いやしかし。

 埒もなく考えあぐねていた彼を動かしたのは、結局、総督府からの召喚だった。


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