三年C組デゴイチ班

@kam10250429

第1話

 随筆 主題「温かい冷凍蜜柑」

    副題「三年C組デゴイチ班」


「ドシュー」、吐き出された蒸気がプラットホームに湧き上がる。

 送別の人で混雑するホームを駅弁売りが右往左往している。

 引き上げられた窓越しの送り人と送られ人の会話が喧しい。

 私は列車内の通路を隔てた席からホームの喧騒をボンヤリと眺めていた。

 九時発、上り夜行列車は心に不安を満載した少年以上、青年未満の私たちを車輌に収めて間もなく新天地へと向けて発車する。

 

 石炭産出地を間近にした筑豊の寒村で私は生まれた。昭和初期に隆盛を極めた石炭産業も、戦後は次第と斜陽産業となり、閉山が相次いだ。それでも筑豊では幾つかの山が【地底深くの採掘であっても山と言う不思議】稼働しており、私の父親も筑豊の鉱山で職を得ていた。

 



しかし、私が中学生になろうかと云う時期に父親は突然に失踪してしまった。

 一家離散を余儀なくされた家族は、妹は母親の実家へ、私は親戚に預けられた。親戚といっても系図の枝葉の末で、もう少し辿れば日本人の大方が親戚になるのではと思える遠縁だった。

 母は温泉地の旅館で住み込みの仲居として働き、重い人生を背負う道を歩み始めた。




 私が預けられた親戚は下宿屋を生業にしていたので、私はそこの下宿人の扱いで預かってもらった様であった。母親から月々に幾らかの送金があり、義務教育である中学校への通学と朝晩の食事、三畳間の寝る場所だけは与えられていた。その様な事情では学校での昼弁当などは私の処遇項目にはなく、昼食時は室外で時間を潰した。けれど、見かねた担任の先生が自分の弁当を度々私へと横流しするといった救済があり、私の心を卑屈から救ってくれた。村の中学と云えども団塊世代であった当時、各学年に二〜三組はあり、三〇〇人の子供たちが通っていた。

 中学も三年生になると慌ただしくなってくる進学か就職か進路によって授業のカリキュラムが異なってくる。進学組は受験に備えて主要課目に重点が置かれ、体育など課外授業は減少してゆく。就職組は進学組の邪魔にならない様に体育班に選別されて校庭へ送り出された。最初は喜んでいた運動場組も、窓越しに見える同級生に疎外感が膨らんでいった。校庭を周回しつつ教室の進学組を冷やかしていたが、彼らも運動場を周回する就職組を、デゴイチ班と揶揄していた。




 翌年の春には就職組の多くを異邦の地へと運んでゆく列車、SL列車に世話になる就職組を称してデゴイチ班とは頷ける言い草だった。

 担任教師は幾分か学力のあった私に進学の道が閉ざされている事を残念がっていたが、この一年間、私も会うことが叶わなかった母親の状況では進学は夢の話だった。

 

 ″ガガッ″ 動輪が勢いよく空転する。

 ″ガコン・ガコン″ 客車を繋ぐ連結器が音をリレーしてゆく。機関車は列車が支配下にある事を確認すると緩りとプラットホームを滑り始めた。

 送り人たちの姿が徐々に後方の窓へ流れて行く。

 その時、ホームの人壁の肩越しに思いがけない顔が見えた。

 母親だった。頻りに窓から窓を窺っている。私は、窓際の席へ割り込んだ。

「かあちゃん!」大声が出た。

 後方の窓を覗いていた母は私の声に気付き、「ごめんね、ごめんね」 動きが増してきた列車に遅れまいと小走りの母は私に叫んだ

「かあちゃん、危ないから、もういいよ、わかったよ、手紙を書くから」

 私の母への言葉は僅かしかなかった。

 母は力を振り絞って走りながら、窓から手にした物を押し込む様に渡してきた。

 母の足が縺れ始めた。姿が後方の窓へ移っていく。



私は客車の通路を後ろへと走る。

 列車はスピードが増していく。

 最後尾の窓の隅にチラリと母の姿が瞬く。

 D51はプラットホームから放たれた。

 母から渡されたものは冷凍蜜柑だった。

 ネットに入った三個の蜜柑が母と私の絆を訴えている。

 私は冷凍蜜柑のひとつが温かいことに気付いた。

 私の姿を探し求め、列車の窓から窓へとホームを駆け巡っていた母が握りしめていたのだろう。

 D51は私の母への思いを振り切らせる様に速度を増していった。

 

 

 

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