第10話 道行きの商人〈下〉
レントは自分を抱き込むイシュカの胸に背中をあずけると、馬車の天井を見つめた。
思い出すのは、すべてのきっかけとなった三年前のこと。
「うちの村、そういうのけっこう信じてたみたいで。おれが生贄にされそうになったのをイシュカが助けてくれたんだ」
村人のことを恨んでいるわけじゃない。ただそういう事実があっただけ。
レントが端的に答えると、ヤーモンの雰囲気が少し変わる。さっきまでの陽気な声音がなりをひそめて、少し暗い、申し訳なさそうな表情になった。
「おっと……それはそれは。すまないね、嫌なことを思い出させてしまったな」
「べつに。イシュカのおかげで助かったし。今は広い世界を見ようってイシュカが言ってくれたから、色んなところに行こうって旅してるんだ」
天井を見ていたレントの視界いっぱいにイシュカの顔が割り込んできた。ゆるく編まれた蒼銀色の髪に、ちょっと獣っぽい蜂蜜色の瞳。垂れ目で気がつくといつも笑っている。イシュカの纏う空気はいつだって穏やか。たまにレントよりも子供っぽいところがめんどくさい時があるけど、それはそれでにぎやかだったり。
この三年、そんなイシュカと一緒に過ごしてきた。レントはそのおかげで元気に今日も生きている。だからヤーモンが言うような嫌なことなんてなかった。そう思っていたら、イシュカがにやにやしだして。
「最初の頃はさ、お金の使い方も分からなくてすっごい苦労したんだよね。あれが三年前とか、懐かし~」
言われて思い出す。
そういえばそうだった。知らないまま旅を続けていたら、今もずっと極河を越えた武陵の森の中で暮らしていたかもしれない。それこそ人間よりも獣たちと仲良くなって野生化していたのかも。
龍江での出来事よりも、そのあとの怒涛の一年のほうがよっぽど濃かった。レントが遠い目をしていると、ヤーモンはイシュカのその話に興味が出たのかつついてくる。
「買い物の仕方からか。イシュカ殿、それは大変だっただろう」
ヤーモンはたぶん、イシュカがレントに買い物の仕方を教えたんだと思っている。実際はイシュカよりもさきにレントが買い物という概念を覚えてイシュカに教えたのだけど。まあ、そのあたりは話すとややこしいので、レントは黙っておくことにした。
「親切な人がいたんだ。そこで一年くらい、いろいろ教えてもらった」
武陵の東、龍江沿いにある森を管理している村だった。そこの森番の女性が空腹に生き倒れていたレントとイシュカを助けてくれた。そこで二人のあまりにも世間知らずな状況に、お節介を焼いてくれて。そこで覚えたことは間違いなく、レントとイシュカの糧になっている。
イシュカもこの三年のことを思い出したのか、楽しそうにくふくふと笑っている。
「びっくりするくらい山ばっかりだったよね~」
「それで、今ここか」
「そう」
「レントとイシュカはすごい冒険家だな」
ヤーモンが快活に笑う。
たしかに龍江の村を飛び出してからここに来るまで、すごい大冒険だったかもしれない。レントとイシュカも、ヤーモンにつられるように笑いあった。
馬車ががたごとと揺れる。しばらく間があいて、ふと思い出したようにヤーモンがつぶやいた。
「それにしても龍江か。三年前といえば、
レントはごそごそと自分の荷物を漁る。察したイシュカがレントの取り出そうとしていた地図を先に取って手渡してくれる。
地図は二枚。一枚はさっきレントが持っていた武陵と虎途の間を流れる
天江と極河はこれから向かう常天というこの国の都で交差し、また分かれ、さらにその下にある雀胡の南に広がる海へと合流する。常天を境に北にある天江を上江、極河を上河と言い、同じように南に広がる天江を下江、極河を
「ちまたじゃ河神の怒りだと言われているそうだが、神様がそんな何年も怒っていたら、とっくにこの国は川底だろうよ」
「ヤーモン、わかってるねぇ。ほんとそれだよねぇ」
「なんだ、兄ちゃんもそう思ってるクチか。いいね、馬が合うな!」
「いぇ~い」
ヤーモンが拳を後ろ手に出した。レントがきょとんとしていると、その拳にイシュカが自分の拳をこつんとぶつける。息がぴったりだとイシュカが主張したい時にするやつだ。
会って一日も経っていないヤーモンとそれをしたことにちょっともやっとする。
イシュカがごめん、って言うように片目をつむった。レントはばつが悪くてそっぽを向く。
「ま、実際のところ天河に幻獣が棲みついたらしいがな。幻獣の仕業とかで、諸侯軍が駆り出されてるって噂だ。橋が上がっているのも軍の指示だろう」
レントとイシュカの肩がちょっと跳ねる。
ばれてないよな、最近本性なってないよ、とお互いに目で会話していると、ヤーモンがさらに言葉を投げてきて。
「レントは見たことあるか?」
ちょっと考える。あるどころか、今ここに一匹いたりする。
どう答えよう?
「……ある。緑色をした毛むくじゃらと、川を泳ぐ馬」
「へえ。川の近くだと、
ヤーモンがひゅうと口笛を吹く。
幻獣の恐ろしさはこの三年で思い知っている。あまり巡り合うことはないけど、たまにイシュカに喧嘩を売ってくる幻獣がいたから。
たいていそれはヤーモンのいう毛茸竜で、イシュカは「毛むくじゃらペルーダ」と呼んでいた。なんでも川棲の幻獣だから、ケルピーのイシュカとは種族的に縄張り争いになりやすいのだとか。武陵の森番の村でお世話になっていた頃に一度やりやったのも一緒に思い出した。
「まあ、うん……そうかも。毛むくじゃらのほうは軍士が助けてくれたんだ。馬のほうはいいやつだったよ。川でおぼれたのを助けてくれたんだ」
「ほう、幻獣が? そういうこともあるのか」
ヤーモンが意外そうに声を上げる。イシュカがレントの金色頭に顎を乗せて主張した。
「べつにおかしくはないでしょう? 人間だって悪いやつはいるし、幻獣も案外そうかもよー?」
「ははは、面白い考え方だな! 気に入ったよ」
イシュカはにっこにこ。
薄々気づいていたけれど、イシュカは幻獣だからとひとくくりにされて悪者にされるのが嫌らしい。一瞬嫌そうな雰囲気になっていたけど、ヤーモンが理解を示せば満足そうにうなずいた。
とはいえ、ヤーモンの話は一般的な話で。
「だがまあ、悪いことは言わない。幻獣に対して気を許さないほうがいいぞ。大河に棲みついた幻獣っていうのも、水棲馬だって話だしな。海のほうにもでたらしい。軍士が今一番警戒しているのが水棲馬だからな」
レントが顔を上げると、イシュカはちょっと不愉快そうに唇を尖らせていた。
自分じゃないから! とイシュカの心の抗議が聞こえた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます