第4話 水棲馬のイシュカ
その日のレントは、人生で一番身奇麗だった。
井戸の真水で身体を清められ、簡素だけれど真新しい麻の服を着せられる。
沢山の垢がぽろぽろ落ちて、くすんでいた金髪はわずかに輝きを取り戻した。
「ひりひりする……」
「なんか言ったか?」
垢を削るために身体をこすられたせいで肌がひりひりする。そのことをぼやけば、村長がレントを見下ろした。レントはなんでもないと言うかわりにべぇっと舌を出した。隣を歩く村長の息子にどつかれる。
村長に近しい者たちは、あまりレントのことを快く思っていない人間のほうが多い。余所者だったレントの両親のせいで八年前の氾濫が起きたと思っているくらいだった。
それでもレントが今こうして生きているのは、村長が生かさず殺さずでいてくれたおかげだ。村長がレントへの過度な虐待を止めていなければ、それこそ村長の息子にレントは殺されていたかもしれない。
村長の息子の嫁は八年前の極河の氾濫のときに亡くなった。レントの両親と同じで氾濫に巻きこまれてしまったらしい。術士だったレントの両親ですら死んでしまったのに、ただの村人が生き残れるわけもなかったけれど……その時の禍根をレントへと結びつけようとする人間はそれなりにいた。
そんな自分のことを嫌う人間に囲まれて、林のなかを極河へと向かって歩く。やがて切り開かれた場所へと出れば、数日前に見たときの大河とは全く違う光景が広がっていた。
「おぉ、河神よ! 何故にお怒りか!」
空は晴れ渡っているのに、泥で濁りきった水が轟々と勢いよく流れている。上流から稀に丸太が砕け散りながら流れていき、大きな岩も筏のように押されて流れていく。
レントがごくりと喉を鳴らしてその川の様子をのぞいていれば、村長はその長い口上をもったいぶったかのように述べ始めた。
村長の長話に付き合えるほど、レントは我慢強くない。川に流れていくものを数えたり、川の流れの速さを数えてみたり。川の向こうに何があるのかを見て暇を持て余した。
「故に、我らにその真意をお伝えくださいませ……!」
村長が川に向かってひれ伏した。膝をつき、額を地面に擦りつけ、川にいる何かへ最上の敬意を表した。
他の者たちも同じようにひれ伏している。レントも空気を読んで同じようにすればいいのだろうかと首をひねっていたら、村長の息子がレントの腕を強引に引いた。
「河神よ! 我らが供物をどうぞお受け取りください!」
レントがたたらを踏む。引きずられるように、極河の縁まで連れてこられて。
そこまでくれば、レントでもこれから何が起きるのかが分かってしまった。
「なっ、おいっ、待てっ! やめろ! 危ないってっ!」
「孤児一人で河神の怒りが収まるなら、安いもんだ」
ざわっと肌が粟立った。
村長の息子の力は強い。小さくて軽いレントなんて、簡単に川へと放り投げられてしまう。
ドボン、とレントは川へと放りこまれた。
濁流の勢いは恐ろしかった。
川へとのまれた瞬間、目も開けられないぐらいの水がレントにぶつかってきた。苦しくて、息もできなくて。濁流とともにやって来る石や木に身体がぶつかっては、小さな傷を生んだ。
(いやだ! いやだ、死にたくない!)
もがくレントだけれど、ちっぽけな身体は言うことを聞いてくれない。
もう駄目だと、小さな身体が抵抗をやめようとしたとき。
『良い匂いがする』
誰かの声が、レントの頭の中に響いた。
びっくりして目を開く。泥水の勢いが心なしか穏やかになった気がした。
声の持ち主を探す。自由の効かない水の中は足の踏み場もなくて、でんぐりとひっくり返ったり、思った方向へ顔を向けられない。
それでも砂利混じりの濁水の中で見えたのは、ほのかに蒼く輝く白銀だった。
『懐かしい気配もするよね。これかな、僕を呼んでくれたのは。ねぇ、きょうだい』
また声が響く。
誰に向かって呼びかけているのか分からないけれど、たぶんレントではないことは分かった。だってレントには、兄弟なんていないから。
『それにしても、くっさいなぁ。こっちってこんな泥臭かったっけ? こんなの僕らが棲めるわけないじゃんか。あーあ、せっかく繋がったのに、残念だ』
(もしかして、河神?)
ようやくレントが蒼く輝く白銀を直視できた。泥の中で見間違えようもないくらいに輝く光。
その光の中央には見たこともない生き物がいて。
その生き物の、星のように瞬く金色の瞳と視線が交わった。
『おや。君か、良い匂いがするのは。泥中の蓮なんてよく言ったものだよね』
蒼く輝くたてがみに、美しい銀の鱗。馬の身体に、魚の尾を持つのが河神だと、遠い記憶の中で誰かが教えてくれた。
今にも消え入りそうなレントの命の灯。その眼の前で、強烈に輝く存在はあまりにもきれいで。手を伸ばさざるを得なくて。
『君、大丈夫かい? なんだか死にそうだけど』
死にそう、じゃなくて正しく死にかけている。
そんなレントの周囲を、ぐるりと自由自在に河神は泳ぐ。
『このまま枯らしてしまうのがもったいないな。せっかく境界を越えられたんだ。僕ももう少しこっちの世界を見てみたいし……そうだ!』
河神の声が楽しそうに弾む。
もう息が続かなくて、掠れていきそうになる意識の中で、河神の声が優しく響いた。
『君、僕と契約してくれたら、助けてあげるよ』
今にも汚泥にのまれて死にゆくはずだったレントの心臓が、大きく鼓動を打つ。なけなしの意志で腕を伸ばせば、レントの指へたおやかで青々しい水草が絡む。
レントは必死にその絡んだ水草を引き寄せて、光へと近づいた。
(契約だとかなんだとか、知らないけど……生きるためなら、神だろうと鬼だろうと、なんだって――!)
死にたくない。
まだ死にたくない。
河神の怒りを示すかのような荒々しい濁水の中、無我夢中で光へと手を伸ばす。
『
レントは必死で言葉を飲みこんだ。理解して、今にも力尽きそうな身体で、肺に残った空気すべてを吐き出して。
「――
眼の前の蒼銀の神に、その手で触れた。
つん、つん、と何かに頬をつつかれる。
頭からなんだかもしゃもしゃという音もして、その不快さにレントはパチっと目を開けた。
『あ、起きた?』
「わ――――!?」
レントの眼の前に、青い馬面が突き出される。
至近距離で見た生き物の顔に、レントはびっくりして叫んだ。
『元気、元気。やー、目覚めて良かったよ。せっかく助けたのに死んじゃうとか、僕が馬鹿みたいじゃんね?』
「は? いや? お前? え? なに……?」
『んー? ご主人、ちゃんと覚えてない感じ? 寂しいなぁ』
馬面でも、目の前にいる生き物がにんまりしてるのは分かった。
レントはもぞもぞと起き上がると、ふと頭が軽くなっていることに気がつく。
もしゃもしゃ。
「あぁぁあ!? おれの髪!?」
『ごっめ〜ん、食べちゃった』
「食べちゃった!?」
驚きの連続でレントの心臓はぎゅっとなった。ふらぁ〜っとまた意識が飛びそうになる。
『おっと。せっかく起きたんだから、また寝たらもったいないよ』
「え、いや、あの、えぇ……?」
状況がうまく飲みこめない。
レントが目を白黒させていると、馬っぽいソレはレントの手首に巻かれた水草を示した。
『君が僕を呼んでくれたんだ。それ。それのお陰で、僕もこっちの世界に来れたんだよー』
「呼ぶ……?」
『そ。僕は水棲馬ケルピー。
うきうきしながら話してくれる馬っぽい何か。ケルピーと名乗ったそれの話を聞いてみても、レントにはピンとこない。
「え、ぇえと、ケルピー? は、その」
『イシュカだよ』
「イシュカ?」
『君がくれた名前さ。ケルピーは僕らの種族名。せっかく君と契約をしたんだ。名前で呼んでおくれよ』
「っ! 契約! お前、もしかして河神か!」
ようやくレントの記憶が辻褄を合わせるように戻ってきた。
川に落とされて、川の中で見つけた光。その光は河神で、それとレントは契約をした。
そこまで思い出して、レントはハッとする。
「川! 川はどうなった!?」
『川?』
「おれ、河神にどうして川を荒らすのかを聞くために、川の中に放り込まれたんだ」
『へぇ。でもご主人、あのままだと、河神ってやつに聞く前に死んじゃいそうだったけど』
ケルピーのイシュカにその通りのことを言われて、レントはこっくりと頷いた。
「それな。おれも死ぬかと思った」
『あっさり〜。で、お目当ての河神には会えた?』
「お前がその河神じゃないのか?」
二人で顔を見合わせる。
レントが首をひねれば、イシュカも同じように首をひねった。
『僕、ケルピーだけど?』
「でも、河神ってお前みたいなやつのことを言うんだぞ」
レントがイシュカを指さして言う。
馬の身体に、魚の尾。川の中で泳ぐ馬の姿は、まさしく河神のよう。
『あ〜、それじゃあ別のやつかも』
「お前みたいなのが他にもいるのか?」
『いるよ〜。器用なやつはこっちの世界に来ててもおかしくないし。それにほら、ご主人の腕。それがあるのが何よりの証拠』
イシュカがレントの腕を示した。レントが持ち上げた腕には、イシュカのたてがみとよく似たものが巻きついている。
蒼銀色に輝く水草のようなもの。数日前に川の近くで拾ったものだ。
『それ、僕の気配とよく似てる。たぶん、兄弟のかなぁと思うんだけどさー、違うかな?』
「いや、おれに聞かれても……イシュカって兄弟がいるのか?」
ふんふんとレントの腕の匂いを嗅ぐイシュカ。レントが聞いてみると、そうだよー、と頷く。
『兄さんがいるんだー。まぁ、ここしばらく見てないんだけど』
「なんだ、家出かよ」
『ちっちっ、ひとり立ちって言うんだよ? でも、まさか
よく分からないけれど、何かがきっかけでイシュカはこの川に現れたらしい。このイシュカが河神ではないことだけは分かって、がっかりした。
がっかりするレントの顔を、イシュカがのぞきこむ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。川がこのままだと、みんなが困るんだ」
『困るって?』
「よく分からないけどさ……川がはんらん? すると、村が困るから、おれが河神にどうすればいいのか聞けって言われて」
『ふぅん……』
イシュカの目が細められる。星のようにきれいな金色の瞳がじっとレントを見つめれば、なんだかレントは落ち着かない気持ちになって。
『ご主人も苦労してるんだねぇ』
「苦労って」
『まぁ、川が荒れてて困るんなら、僕がなんとかしてあげるよ』
「えっ? なんとかできるのか?」
『僕はケルピーだからね。水のことならお安いことさ!』
そう言ってイシュカが身を起こす。つられてレントも起き上がれば、ようやく自分が極河の川岸で寝ていたことに気がついた。
こんな河のぎりぎりにいたら危ないと思ってイシュカを見れば、イシュカの馬の部分だけが岸に上がって、魚の身体の半分は川の中に浸ってたらしい。
『それじゃ、ご主人。ちょいと呪力をもらうよ』
「呪力?」
『そ。契約した幻獣は、契約者の呪力を使って力を行使する。こっちじゃ、うまく力の補給ができないからさー。契約の基本中の基本だよ?』
そんなことを言われても、レントはちんぷんかんぷんだ。
イシュカに言われるまま好きにしてくれと頷けば、彼ははりきったようににんまりと笑った。
『それじゃ、とくとご覧あれ!』
イシュカがそういった瞬間、レントの身体から何かがごっそりと減ったような気がした。目眩がして、せっかく起き上がったのにくらりと地面に逆戻りしてしまう。
それでもなんとか首をもたげて、川の様子をうかがえば。
あれはイシュカの影だろうか。
土砂混じりだった川に、ほのかに青く輝く影が泳いでいく。
川底から広がる神秘的な光が広がっていくと、段々と川の流れがゆったりと落ち着き始めて。
『でーきた。こんな感じでどう?』
イシュカが戻ってくる頃には、ずいぶんと川の流れがゆっくりとなっていた。
「なにをしたんだ……?」
『川底をちょっと掘って、水を受け止める量を増やしたんだよ。氾濫って、こう、川からはみ出るわけじゃん? はみ出る分を、下に掘って受け止めるわけだ』
「これでもう、村は安全なのか?」
『んー、まぁ、しばらくは? でもこれ、一時しのぎだからねぇ。こんなにも汚い水が増えているのには原因があるはずだよ。この近くにはなさそうだから、もっと上のほうに』
そういえば、似たようなことをアーヴィンも言っていたような気がする。レントはそっか、と頷こうとして、そのままぐてんと地面に突っ伏した。
『えっ? あ、ちょっと、ご主人っ?』
「いや、その……そのご主人ってのやめてくれ……なんか、ヤダ……」
『いや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! うっわ、呪力吸い過ぎたのかな!? ちょっとご主人、弱すぎ!』
わたわたしだしたイシュカに、レントの口角が自然と上がった。
「おれ、レント。よろしく、イシュカ」
にぱっと泥だらけの姿で、レントは笑う。
イシュカはそんなレントを見て、なんだか毒気が抜かれた様子でため息をつく。
『そーゆーのずるくない? いいけどさ。あーあ、人の子ってあざとーい。でも可愛い。許しちゃう』
可愛いという言葉にレントが眉間にシワを寄せれば、岸に上がってきたイシュカがふるりと身を震わせた。
その姿がみるみるうちに変わっていき、レントの目がまぁるく見開かれる。
馬だった顔が金色の瞳を持つ凛々しい青年の顔へと変わり、蒼く輝いていた銀のたてがみが水草まじりで編み込まれた髪へと変わる。馬の身体と魚の尾も細身ながらしっかりと成熟した人間のものへと変わり、人好きのする好青年がレントの顔をのぞきこんだ。
「ご主人……じゃないか。えーと、レント。これからよろしくね? 色んなところに連れて行ってくれると嬉しいなぁ」
にっこりと笑うイシュカ。
レントは、イシュカのほうがよっぽどずるくてあざといと思った。
子供っぽいのは言葉ばかりで、ほんとうは大人なんて、イシュカのほうがずるい。
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