〈4〉

 結局、あの後説得を試みた僕は見事に玉砕した。女は強し、ってこういうことを言うのかな。

 最大の懸念点であった寝室については、あっさりと解決――もとい、押し切られた。というのも、


『冬彦、もうちょっと寄って』


 僕の部屋にあかりが泊まることで可決されたからだ。若い男女がどうこうとか言えば、二人から一斉に変態と罵られ。ベッドは一人用と言えば、母さんから買ったのはセミダブルだと訂正される。あかりから『冬彦が心配だから』と言われ、母さんが『嫌なら私との添い寝になるわね』とニヤニヤしてくるのだから、もう首を縦に振るしかなかった。


 あかりがうちに泊まると聞いて、紫さんが着替えを持ってきてくれたのだけど、今思えば、その時に帰れば良かったんじゃないだろうか。


『寄ってと言われても、こっちも狭いよ』

『くっつけば大丈夫だって』


 顔が近いということもあり、マシンガンはかなり控えめだった。もぞもぞと身を寄せるあかりから、ふわりと甘い香りがする。……おかしい。今のあかりは我が家のシャンプーを使った後のはずで、普段の母さんからはこんな匂いはしないというのに。

 こういう時、女の子って不思議だと思う。と同時に、やっぱりあかりは普通の女の子だと、変なところで実感した。


『あの、さ』

『ん?』

『僕が色を認識できなくなった日。酷いこと言って、ごめん』


 そんな、遅すぎた僕の謝罪に、あかりは口を尖らせる。


『遅い』

『ごめん』

『ん、許す。私もかっとなっちゃってたし』


 二人で頭を下げ合って、なんとなく恥ずかしくなって、はにかんだ。


『ねぇ、冬彦』


 あかりはじっと僕を見つめながら、ゆっくりとシーツを剥いでいく。


『今は、ちゃんと見えるんだよね?』


 そこで僕は、改めてあかりのパジャマ姿を見た。うさぎを模したピンクのフード付きチュニックと、その裾から覗く赤いベビードール。


『見えるよ』


 あかりが、紫さんにどのパジャマを持ってきてもらうか悩んでいたのは知っていた。その上で赤を基調としたものを選んだ、あかりの意図も伝わってくる。

 また僕の目に異常が起きる前に、この色を、目に焼き付けておこう。


『ちゃんと見えてる。可愛いよ』


 手を伸ばして、髪を梳くと、あかりは『ありがと』とくすぐったそうに笑った。


『あのさ』


 おずおずと、小さく右手を挙げたあかりは、その薬指だけを立てて見せる。


『あの糸、結んで寝たい』


 ほのかに顔を赤らめたお願いを無下にすることはできず、僕は一度ベッドから下りた。

 僕はクローゼットからジャケットを探すと、ポケットに入れていた赤い糸を取り出す。乾いた糸は、元の大きさに戻ってくれていた。


 輪の片方を自分の指に通してベッドに戻り、もう片方をあかりの指に通す。

 寒くないようにシーツをかけると、二人の頭と、糸を結んだ手だけが出ている形になった。


『ねぇ、冬彦。もう一つ提案があるんだけど、いい?』

『何? 何でも言ってよ』

『おやすみって、言い合いっこしよ』

『それだけ?』


 どんなお願いが来るのかと思っていて、拍子抜けしてしまった。笑ってしまった僕に、あかりは頬を膨らませる。


『普通のおやすみじゃないんだよ。良く考えて』


 ささやかな乙女心によって、急に難題へと変わってしまった。多分、いや、間違いなく、ヒントはあるはず。


『ロミオとジュリエットみたいに?』

『当たり。冬の彦星様からのおやすみが欲しい』


 子供が寝る前の絵本をねだるような、それでいて真剣な目に、たじろいでしまう。


『でも、僕は名前負けしてるよ。輝けてなんて――』


 言葉の途中で、あかりから手を止められた。そのまま、包み込むようにやさしく摩りながら、あかりは首を振る。


『一度は失ったかもしれない。でも、あの日のコンサートで、冬彦はちゃんと取り戻してるんだよ』

『僕は、取り戻せた?』

『うん。そうじゃなかったら、私がここにいないって、冬彦の方が分かってるでしょ?』


 それもそうだった。僕が単なるお節介焼きで、あかりが障害者だからと近づいている男なら、今頃あかりから容赦ない毒のマシンガンを撃たれて終わってると思う。

 でも、それはやっぱり、僕一人の力じゃない。あかりがいなかったら、僕は未だにピアノとも向き合えないままでいたかもしれない。もしかしたら、別の聾者と知り合って、今回みたいに事故に遭って、病院のベッドで光を失っていたままかもしれない。


 僕は、あかりという光があったから、ここにいられるんだ。


『おやすみ』

『おやすみ』


 その言葉を合図に、あかりはゆっくりと目を閉じる。

 するとすぐに、静かな寝息が聞こえてきた。ここ数日、学校と病院とに通いづめだったんだ。かなり疲れているんだろう。


 そんな、あかりの寝顔に、僕は、


「おやすみ」


 聴こえないと知りつつささやいて、目を閉じた。

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