〈6〉

「うちらは幸せやね、フユ」


 演奏が頭の数小節でループする中、シフォンが目を細くして呟いた。


「信じられるけ? あのセルゲイが、今日の打ち上げの予約をずらしよった。ユーリは遅刻せんかった。サボり魔のクオーラが、本番中いっこも音を外さんかった。わかるか、フユ。みんな、お前に会えると聞いてきばく出しちょったんじゃぞ」


 それはまるで、おとぎの絵本を読み聞かせるかのような、優しい声色だった。

 ヴィオラは人間の声に最も近いと言われている。つまり最も身近で、最も耳に馴染む音だということ。ビオラジョークの中には「ビオラがいなくても何も変わらない」というものがあるけれど、それは逆だ。月並みかもしれないけれど、軽んじていると失って初めて気づくことになるだろう。


「ほんとは後から顔だけ見せて、デュエットは独り占めするつもりじゃったんだがな。フユの指のファンは、うちだけじゃなかった」

「それは……ほとんどシフォンのおかげだよ。君が周囲を巻き込む台風だったから、その中にいた僕にも、縁が出来たんだ」

「じゃろーじゃ」


 シフォンはオペラのソロを謳い上げるように、ふふんと胸を反らしてみせて、


「じゃけぇ、あんたが嫌じゃ言うても、吹き荒れてやるけえ覚悟しぃ!」


 にっと八重歯を見せて、ヴィオラを構えた。


「待たせたのう、フユ。うちの手をとれ!」


 シフォンの音色が、僕に手を差し伸べてくれた。奏でてくれる調べに、導いてくれる標に合わせて、僕もピアノを弾きはじめる。

 ハーメルンのヴィオラ弾きを先頭に、かつての仲間たちの行進が今、始まった。


 本来ここまで跳ねることのないピアノの音。本来の調律がなされていないヴィオラの音。ヴィオラが高音を出し切れなければピアノが、ピアノが迷えばヴィオラがカバーする。

 まだ十代半ばの子供たちが出す道案内は、あっちに行ったりこっちに来たり、次はどこに行こうかもわかっていない、未熟なもので。その度に、後ろから温かい笑い声に茶化される。支えてもらっている。


 涙が止まらなかった。


 そして第四楽章。壁を乗り越えた絵本の囚人たちは、戦いのあとの静けさに包まれる。

 別れだ。静かな歓喜とともに訪れる、覚悟との別れ。

 それは戦いに赴く時に抱いた覚悟を捨てることじゃなくって、新たに「生きていく覚悟」を決めるために、戦いに命を懸ける覚悟とはお別れするためのものだ。


 穏やかな旋律の中で、シフォンは三本だけになってしまった弦を、小さな指で繋ぎとめていた。物語のエンディングの後でも生き続けるために、必死に、けれど優しく。


 ふと、背中に指先が触れるのを感じた。あかりが、リズムを取っていた。シフォンの語りに呼応するように、僕の背中で語り返しているんだ。

 とん、とん。僕の心の弦を、シフォンの見よう見まねで押えるあかりの指先は、三つ。


 懐かしい感触だった。僕は、つい最近、この感触に会ったことがある。

 あれは、いつのことだったっけ――


 僕とシフォン、そしてあかりの三人で始まったオーケストラは、優しいピチカートの余韻を残して、演奏を終了した。

 僕たちが、絵本の世界を出られたのかは分からない。でも、少なくとも心は晴れやかだった。






 サプライズコンサートが終わった後、さすがに時間が圧しているということで、僕たちは管理者さんから追い出されるようにホールを出た。


「今日はありがとう」


 外まで見送りに来てくれたシフォンに頭を下げると「せわぁない」と素っ気なく返される。ホールの外には他の奏者も集まって来ていて、その多国籍っぷりに、道行く人々が何事かと二度見していく。


「うちもまだまだじゃのう。ヴィオリスト語ってるくせに、フユのことで頭がいっぱいで、相棒のメンテを怠っちょった」


 そんなことない、とは言えなかった。どんなコンディションでもベストを発揮する、それがシフォンのいるプロの世界だ。そこを降りた僕が慰めを言うのはお門違いだと思う。


「じゃが、やっぱりフユはぶち阿呆じゃ。ちゃんと、笑顔を紡げちょるじゃろ」


 そう言って笑ったシフォンが、僕に目線で促した先には、降り始めた雪を背に微笑む天使がいた。


「結局、本当の意味でフユに手を伸ばせたのも、あかりの方じゃったのう」


 すこし悔しそうに笑ってから、シフォンは、セルゲイたちに背中を突かれるようにして前に出た。

 彼女にしては珍しく、何かを言いよどむように指先をくるくると合わせてから、意を決したように、その指で天使の肩をちょんと叩く。


『フユヒコを、頼む』


 たどたどしい手話で、願いを託した。

 きっと、この一言を言うためだけに調べてきたんだろう。


『頼まれました』


 天使の答えがどういう意味かは、手話が分からなくても伝わっていたと思う。

 その笑い顔で、十分に。


 僕たちは、そっとおやすみを交わすと、歩き出した。

 去り際に、背中に届いた声を、


「忘れんなよ、うちはずっと、あんたのファンじゃからな!」


 僕も、忘れない。


 視界は相変わらずぼやけているけれど。

 嵐のように出会って、嵐のように別れた「小さな淑女きょじん」の姿は、ちゃんと焼き付いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る