〈5〉
シューマンの「おとぎの絵本」。この曲は、ピアノとヴィオラが同時に演奏を開始する。イントロからすでに、物語は始まっているんだ。
第一楽章は悲しく、怪しくも不思議な世界から始まる。見るものは囚われる幻惑の絵本。
目を開けていると、ぼやけた白鍵と黒鍵がぐにゃりとねじ曲がり、引きずり込まれそうになる。でも、鍵盤の位置は憶えている。僕はもたつく指を見てしまわないよう目を閉じて、シフォンの音と、指が憶えている道筋を頼りに進んだ。
そうして入った第二楽章で、ようやく心が晴れていく。絶望に挫けそうになった絵本の囚人は、仲間とのささやかな出会いを得るんだ。
ファンタジーの物語といえばそれまで。でも、そこにはまるで、人生というものが凝縮されている気がした。
何もなかった僕に、光を与えてくれた女の子を横目で見る。
あかりは、熱心に僕たちの演奏を「聴いて」くれていた。
笑う。出会いを喜ぶ。そうして前を向いた絵本の囚人たちは、しかし、再び立ちふさがった壁に戸惑う。跳ねるように進むピアノを呑みこむように、シフォンのヴィオラが鮮烈さを増していく。そう、先の見えない大きなうねりが立ちふさがる。
皮肉にも、この不思議な絵本の世界は、僕に重なっているように感じた。今の僕は、大きなうねりの中にいる。目が見えなくなる恐怖。そして、あかりと話せなくなる恐怖。
ヴィオラが加速したまま、第三楽章へと突入する。
ここで絵本の囚人たちは、さらなる新たな出会いを経て、足掻いて行く。
修一さん。シフォン。大切な出会いが心に浮かんでくる。僕はこの演奏という出会いを通して、足掻かなければいけない。見出さなければならない。
そう、確信した時だった。
ピンッ。
ピチカートにしては高すぎる、本来出るべきではない音に足が――手が止まる。
ヴィオラの弦が一本、切れたんだ。
まずい。今、この出会いを失うわけにはいかないというのに。
絵本の囚人は、気づけば叫んでいた。
「シフォ――」
「止めるな!」
しかし、それを上回る仲間の叫びにかき消される。
「これはうちの不注意じゃけぇ。続けろ、なんとかする!」
シフォンはしゃがみこみ、膝の上にヴィオラを置くと、切れた弦を胴から手早く外していく。
なんとかすると言われても。
このまま続けるとしても、曲自体の長さはそんなにない。シフォンが楽屋へ予備の弦を取りに行って戻ってくるうちに、タイムリミットを迎えてしまう。
そして何より、僕自身が続けられない。音の標を失ってしまったピアノだけで、この絵本から抜け出すことはできないんだ。
「頼む、歩いてくれ! フユ!」
シフォンの叫びが悲痛なものに変わる。その瞬間。
僕の視界で辛うじて見えていた鍵盤たちは、完全にその色を混ぜてしまった。
プレッシャー。灰色に染まった世界で、僕は足が竦んでしまう。
「……見え、ない?」
嘘だ。落ち着け。見えない。見えているはずだ。
手が震える。ぐちゃぐちゃになっても、鍵盤は見えている。手は見えている。僕の目はまだ生きてるはずなんだ。
――ねえ冬彦、まだ少しは見えるんだよね?
――フユ。まだ目は見えちょるんじゃろ?
そうだよ、そのはずなんだ。なのに。
「見えない、見えない! 見えないんだよ!」
「落ち着けフユ! ちっ、しもうた。うちがしゃんとしちょらんばっかりに!」
もう、シフォンの声もろくに耳に入らなかった。
音のない、灰色の世界で蹲る。
――蹲った私が顔を上げた時には、何も見えませんでした。
修一さんの言葉が頭の中に反響する。顔を上げたら、終わってしまいそうだった。
「うわああああああああああああ!」
鍵盤を叩きつける。どんな楽譜にだって書かれることのない不協和音を訴える。
あかりの赤を見失わなかったらどんなによかったろう。あかりの耳が聴こえてたらどんなによかったろう。「普通」に出逢えてたら、どんなによかったろう。
何度も、何度も、何度も。ふざけた神様とやらに届くまで文句を叩きつける。
「届けよおおっ!」
けれど。次に振り上げた手が、音を訴えることはなかった。
「……えっ」
おそるおそる、顔を上げると。すっと、灰色の霧が晴れていったようだった。
誰かに手を握られている。誰かに抱き締められている。
振り返らなくても分かるような、温かい光。
「あかり……?」
僕の顔のすぐ隣に、願ってやまなかった笑顔があった。
ああ、手話以外にもあったんだ。ちゃんと体に感じる、温もりと言う意思伝達手段が。
辛うじて、視界が戻ってきた。大丈夫、まだ見える。
「すまんのう。もうちぃとだけ、もうちぃとだけ待っちょってくれ!」
シフォンが悔しさを吐き捨てながら、弦を張り替えていくのが見えた。一番端の弦を失ったことで空いた部分を埋めるように、すぐ隣の弦を調節している。
スコルダトゥーラ。本来の調律とは異なるチューニングをする技法だ。シフォンは、抜け落ちてしまった弦の代わりに、一本の弦で二本分の仕事をすることでカバーしようとしている。
支えられているだけでは駄目だ、僕も何かをしてあげたいと思う。でも、僕にはヴィオラの知識はない。素人が手出しをしたところでどうにかなるものではない。
それならピアノか。いや、闇雲に進んだところで、逆にシフォンとはぐれてしまうだけだ。
頭の中に眠る、楽譜を掘り起こす。考えろ、どうする。
逃げるな。僕自身の一歩を踏み出せ。どうにか――
「(頼む、見えてくれ……っ!)」
叫びたくなるのをどうにか押し殺し、肩をぎゅっと縮める。
その時、それをからかうような陽気な声がかけられた。
「ただごとじゃねえシャウトがしたかと思ったら、ガキだけで何やってんだよ、プティタン」
フランス語独特の柔らかな舌の回り方で訛る日本語。その声は、つい最近思い出したばかりだった。
「アダン……?」
かつてシフォンにヴィオラジョークを投げかけた、ヴァイオリニスト。
顔を上げれば、もう一人――いや、まだ他にも薄暗いホールに人影が次々と。
「一丁前に逢引なんかしたから、ロミオとジュリエットは悲劇に行き着いたってのにな。音楽家としてその辺どう思うよ、スネグーラチカ!」
「セル、ゲイ……どうして」
「帰りの遅い子供を迎えに行くのは、大人の役目でしょう?」
「ハオチェイさん……みんな」
チェロを抱えた色白の大男の向こうから、アジア系の女性がサックスを引っ提げて入って来た。僕の目に顔は見えていないけれど、声をかけてもらえる度、思い出が次々に蘇ってくる。
彼らはまだ撤去されていない椅子に、めいめいに座った。
「どこまで行った!」
「
弦を引き絞りながら、シフォンがオーケストラに指示を飛ばす。
「ほいじゃ行くぞ――さんのーがーはい!」
彼女の合図で、ずん、と体に響くような音がホールを揺らした。
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