〈2〉

 家に帰った僕は、さっそくパソコンに齧りついた。

 昔取った杵柄の勘を取り戻さなければ。母さんに聞けば早いんだろうけど、恥ずかしくて言い出せなかった。

 手話を投げ出したのは僕の方だったから。


 小学四年の頃に、僕は通っていたピアノ教室の奨めでコンクールに参加した。ちょうど小学生の部の参加資格を満たした、日コンの学生版――全日本学生音楽コンクールにだ。

 優勝は偶然だった。それまでコンクールには出ていなかったために、「彗星の如く現れた神童」などと呼ばれたりもした。

 自分の予期しないところで株価が上がるというものはプレッシャーだった。周りからの期待というものに応えようと、ピアノだけに専念した僕は、いつしか家と学校とピアノ教室の往復だけになり、母さんについて手話サークルに行くことがなくなっていた。


 ほとんど何も言わず一方的に投げ出した手前、今更言い出しづらい。

 今でもピアノは趣味程度に弾いていて、母さんの職場で演奏する機会こそあっても、手話サークルにだけは顔を出せずにいる。


 僕は動画投稿サイト「WeTube」で、手話について検索していた。映像があった方が覚えやすいと思ったからだ。

 そこで、気になる動画を見つけた。


「……手話歌?」


 検索ワード欄に「手話歌」と打ちこんで、更新する。一般的に有名な曲――主にメッセージ性のあるバラード――を中心に、歌詞に手話を乗せて表現したものらしい。

 面白そうだ。大学生の文化祭などで行われた発表の映像が多い。一番上の動画を開いてみると、僕でも聞いた事のある女性アイドルグループの曲を手話歌にしたものが流れた。

 面白そう、という興味はすぐに、面白い、という感想へと変わった。動作が大きいから見やすいし、どうやら英語歌詞も日本語訳したもので手話にしているらしい。

 日本と海外では手話が違うらしいから、全て日本語訳なのはありがたかった。


 椅子を脇にどけて、立っても見えるようにパソコンの画面角度を調整する。

 一番上から全て学んでやろうと、見よう見まねの振り付けをはじめて五分弱。部屋のドアが開かれたかと思うと、母さんが入ってきた。


「冬彦、うるさいわよ」

「あっ、ごめん、母さん」


 思わず頭を下げる。手話歌の振り付けではリズムをとるためのステップもあるから、家の中でやるのはまずかったかな。

 母さんは灰皿を片手に、タバコの煙をため息のように吐き出すと、


「何をしてたの?」


 まだ皺一つない目尻を細め、小首を傾げた。

 母さんの名前は月香つきか。三年前に父さんが亡くなってから、女手一つで僕を育ててくれている女丈夫だ。女の細腕とはよく言ったもので、近所のママ友達からも噂されるほどに細い。僕から見た綺麗かどうかのコメントは、その、遠慮したいけど。


「ええと、手話を覚えようと思って」


 見られてしまったからには、白状するしかなかった。

 母さんは目を丸くすると、部屋に入ってきてパソコンのモニターを覗き込む。

 画面では、部活ごとに映像が切り替えられながら、手話歌をリレー式に繋いでいた。今はサビの辺りだろうか。歌も手話も盛り上がっているところだ。


「ふうん」


 母さんは咥えタバコをくゆらせながら、曖昧に声を漏らす。眉を寄せているのは煙のせいか、それとも動画に思う所があってかは読めなかった。


「どう思った?」


 聞いたのは僕ではなく、母さんだった。


「どうって、手話歌のこと?」

「そ。直感でいいよ」

「面白そう、かな。うん、面白いと思う」


 母さんはタバコの火を揉み消すと、だよねぇ、と髪を掻きながらベッドに腰を下ろした。


「率直に言うよ。また手話覚えたいんなら、それ見るのやめな」

「どういうこと?」

「それは手話じゃなくて、パラパラだから」

「パラパラって……死語じゃんか」

「なら、冬彦が覚えようとしてるのは手話じゃなくて死話しわね」


 ばっさりと切り捨てられてしまった。

 いくら母さんが手話のベテランだからって、そこまで言うことはないと思うのだけど。


「何か言いたそうね」


 母さんは二本目のタバコを取り出すと、火を点ける。


「言ってみ? 別に怒ったりしてるんじゃないから」


 それは分かっていた。母さんはあかり以上にあっさりした性格だから、職場ではしょっちゅう口論の火種になっているみたいだけど。オブラートに包むということをしないだけで、実はけっこう優しい。


「むしろ言った方がいいかな。手話、やりたいんでしょ?」


 面と向かって背中を後押しされるという奇妙な感覚だった。


「この動画ってさ、みんな笑顔でしょ。しかも若い人たちが。これって、手話を広めるのに良い物なんじゃないの?」

「広めるにはね。それじゃ冬彦、もっかい再生してごらん」


 僕は言われるままにシークバーを戻し、頭から流す。隣に来て一緒に見ていた母さんが、あるシーンで動画を一時停止した。


「ここ、誰が踊ってる?」


 そう訊かれ、僕は現在映っているコミュニティが表示された画面の左上を見る。


「……聾学校の生徒?」

「ちゃんとできてる?」

「できてるも何も、ちゃんと踊れるわけないでしょ」


 聾者ならば、耳が聞こえないんだ。音楽に合わせて踊ることは無理に等しい。


「質問を変えようか。ちゃんと手話ができてる?」


 はっとした。言葉がちゃんとしていれば、踊れなくても手話はできる。リズムはとれなくても、歌詞を再現することは可能なはずだ。


「これが、振り付けとして指示されてるから踊れてないってこと?」

「いいね、その調子。そうなるのはどうして?」

「……手話のための踊りじゃなくて、踊りのための手話、だから」


 灰皿を置いた母さんは、その空いた手で僕の頭をくしゃっと撫でた。

 動作が大きいから見やすいと思ったけど、いくら手話の身振り手振りが大きくても、普通ここまではしない。ステージからみんなに見えるためという理由なら、記者会見なんかの手話通訳者は腕を振り回さなければならないはずだ。


「ま、全部が全部そうってわけじゃないけどね。中にはちゃんと伝える方法を研究している人もいるけれど、まだまだ上手くいってないみたい」


 母さんの指摘は続いた。


「例えばここの『I believe my dream.』って英語歌詞。動画では『私、信じる、私、夢』って振り付けにしてる。ただでさえ途切れ途切れなのに、分かる?」

「意味不明になるね。でも、英語歌詞だけじゃないの?」

「英語歌詞だけでもそうなのが、日本語歌詞でもそうなのよ」


 母さんの言葉をまとめるとこうだ。

 例えば手話で「私がやります」「私は行きます」「私にください」といった言葉の「私」は、てにをはに関わらず、すべて自分を指し示すジェスチャーになる。つまり直訳すると「私、やります」といった具合になるらしい。

 そこに、曲の歌詞特有の、韻に合わせた言葉表現が加われば、「言葉にならない」が「言葉、できる、ない」になったりと、もうしっちゃかめっちゃかだ。

 さらに「わーたーしーはーー♪」のようにロングトーンの部分があろうものなら、ずっと人差し指で自分を指し示す姿勢のまま固まることもままあるという。


「海外の映画なんかに出てくるサムライやニンジャを見て、ちゃんと侍と忍者が描かれていると思ったことある?」

「……そう言われてみると、ない、かな。へんてこな感じがする」

「そういうこと。別に手話歌が悪いとか、海外映画で侍を出すことが悪いって言ってるんじゃないの。参考にはならないってだけ」


 二本目のタバコも火を消して、母さんはにっと歯を見せた。


「ま、私個人の考えでしかないけどね」


 その言葉に、思わず吹き出してしまう。


「何よ?」

「ごめん、今日会った子も、同じこと言っててさ。筆談用のメモ帳に『※なお、意見には個人差があります』って書いてたんだ」

「ははぁ。それで? その子に惚れたから、手話を覚えたいと」

「そういうんじゃないよ。話をしてみたいだけだって」


 にやにやと笑う母さんを睨みつける。そうからかわれると、教えてほしいなんて言い出せないじゃないか。さっきとは別の理由で。


「それにしても、よく話のきっかけを掴めたね。あんただいぶ手話忘れちゃってたでしょ」


 三本目のタバコを咥えた母さんに、今日のことを説明した。

 からかわれたこともあって、あかりの名前と性別は伏せた。すでにバレている気はするけど、女の子だ明言したが最後、本当に笑われそうだったから。

 でも、


「あっははははは! コーヒー落として出会うって! パン咥えて角曲がったらぶつかる転校生か!!」


 結局腹を抱えられてしまった。なんなんだよ、もう。


「でも、ちゃんと『ありがとう』って言えたんだ。やるじゃん」

「うん、母さんのおかげでね」


 言うのが躊躇われたけど、事実だ。すると母さんは捩れた腹を反対に捩じる勢いで僕に飛び付くと、わっしゃわっしゃと髪を掻き回してくる。


「私のおかげだなんてそんな。嬉しい事言ってくれるじゃない!」

「……母さん、痛い」

「いい息子に育ってくれて、母さん涙出ちゃいそう!」

「……笑いすぎのせいだと思うよ」


 反論も虚しく、かといって母さんを突き飛ばすわけにもいかず、ひたすらされるがままになっていた僕は、夕飯を告げる炊飯器の音が鳴るまで解放してもらえなかった。

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