第一章 二度目のエチュード

〈1〉

 すっかりしどろもどろしてしまった僕に、女の子はポーチからメモ帳とボールペンを取り出すと、何かを書いて渡してきた。


『お話はできますか?』


 筆談だ。これまで母さんを通して知り合ったろう者の友達も、みんな書くものを携帯していたっけ。中には、せっかく持っていても紙やインクが切れたら意味がないと、二つずつ常備していた人にも会った。


『ごめん。手話、ほとんどできないんだ』


 正直に書いて渡す。それを読んだ女の子は、メモ帳ごと、手を左胸から右胸へとスライドするように押えた。


『大丈夫』


 今度は分かった。といっても、この手話の意味は知らなかった。女の子がゆっくり発音した声と、その優しい笑い顔で、想いが伝わってきたという方が正しい。

 女の子はもう一度、さっき書いた『お話はできますか』の文字をペンで示す。

 ああ、勘違いをしていた。この子が言いたかったのは「手話ができるか」ということではなかったんだ。手話という前提を決めつけていた自分が恥ずかしい。


 自販機で彼女のためのココアを買うと、二人一緒に、一度駅の中へと戻った。

 ベンチに腰かけ、まずは僕から名乗ることにした。メモ帳に『天野冬彦』と書き、かろうじて憶えている指文字で読みを紹介する。

 それに女の子は、指文字――多分指文字で合ってる――で、何かを言ってくれたのだけど、実はさっぱり分からない。猛省したそばからこれだ、恰好はつけるものじゃない。

 お手話べりにおいて何が一番大変かというと、相手の話を見取ることだ。英語と同じようなもので、単語を覚えたとしても、それを会話に応用することは難しい。正直なところ、僕の名前を誰かが指文字で再現しても、きっと読み取れないだろうと思う。


 女の子はくすくすと笑いながら、ペンを走らせた。


星川ほしかわあかり。あかりでいいよ』


 彼女の名前だろうか。「星川」の部分に丁寧に読み仮名が振られていた。しまった、最初からそうすればよかったのか。


『手話、上手だね』


 悪戯っ子のように舌を出されて、返す言葉も無かった。あかりは、けっこう明るい性格らしい。僕が『皮肉?』と唇を突き出すと、あかりからぷっと噴き出されてしまった。


『本当に上手だと思うよ? 三本指、立てづらいでしょ』


 僕の名前である冬彦の「ゆ」の字について言っているんだろう。温泉マークからとられた文字は、人差し指から薬指までの三本を立てて、さらに手首を返さなければならない。


『まだ大丈夫だよ。シュウって人とかもっと大変そうだし』

『指、引くもんね』


 指文字でも、濁音や長音という概念はある。文字を作りながら手を右にずらしたり、下げたりと動かすことで示すのだけど、「シュウ」のように拗音になる場合、手を引く動作があるのだ。初めて指を三本立てることができたとき、引いてみたら親指と小指が外れて文字が崩壊したのは懐かしい思い出だ。


『手話はどこで?』

『母さんがやってるんだ』

ろう者?』


 ストレートに書かれた質問に、普通、と書こうとして躊躇う。


『昔、ろう者の友達がいたんだって』


 そう書いてから、ふと気になったことを追記してみた。


『君は、聾って漢字で書くんだね』

『だって、一緒だもん』


 あかりは、何の気なしに答えた。

 彼女が言うには。「障害」と「障がい」、「聾者」や「聾唖者」と「ろう者」といった書き方の違いにはさして興味がないらしい。単に「聾」という文字を書くのが面倒になったお偉方が、平仮名に直した理由をもっともらしく付け加えたのではないかと思ってさえいるようだ。


 確かに僕自身も、指す意味は一緒だと思う。声にすれば同じものを書き分けて、さも「気を遣ってます」と善人ぶるのはまやかしかもしれない。

 さすがに、さっき僕が迷った「普通」かどうかの切り分けは問題だと思うけれど。


『いっそ、「かたわ」とか「つんぼ」って正直に言ってくれた方が気が楽だよ』


 あかりはメモ帳を掲げてから、おもむろに最後のページを開くと、


『※なお、意見には個人差があります』


 と大きく書かれたページを見せてきた。思わぬ一言に、僕は飲みかけたコーヒーをむせる。


『汚いなぁ』


 あかりは身を捻りながら、元のページにちゃっかり書いていた文句を、胸の前で掲げていた。

 筆談は、けっこう細かなニュアンスが分かりづらい。口では「もう、大丈夫? 仕方ないなぁ」とか「うっわ、マジで汚い」といった意味を、声色に乗せることが出来る。それができない上、端的に書かれた『汚いなぁ』の文字には、けっこうショックを受けた。

 あかりが心配そうに笑っていなかったら、ムッとしていたかもしれない。


『今のページ、何? 準備してるの?』

『あまり正直に言うと、先生がうるさいから』


 先生とは、あかりの通う聾学校の教師だろうか。

 気持ちは分からなくもない。例えば僕が後天的に聴覚を失ったとしたら、自分がどう呼ばれているかということには過敏に反応しそうだ。


『言った言葉は、誰かに聞かれなかったら済むけど、書かれた言葉は燃やさないと駄目だって』

『先生も、聾者なの?』

『健聴者。大人のツゴーってやつ? 私にも聴こえるんじゃないかってくらい怒鳴る』


 なるほど、体裁というやつだ。あかりが耳に当てた人差し指をねじったのは、「うるさい」という意味かな。


『あかりは、全聾じゃないんだ?』

『一応、聾の区分だけどね。補聴器付けて100dBがぎりぎり』


 ほぼ全く駄目、とあかりは肩を竦めた。

 100dBの区分がどこかは忘れたけれど、確か、線路の高架下で聞く電車走行音が聞こえないと、聾と診断されるはずだ。

 今は補聴器を付けていない所を見ると、おそらく耳で聴くことは諦めているんだろう。


 さっきの「うるさい」みたいに、音に関する手話が存在するのはこういう理由だ。手話を使う人が必ずしも全聾というわけではない。しかし、聴こえにくい耳でもうるさいと思うのは、よっぽどのことなのか、あるいは、悪意や無責任な同情が鬱陶しいのか。

 多分、あかりの場合は後者かもしれないと思うと、少しだけ可笑しかった。


『冬彦くんは、何年生?』

『高三だよ。一月生まれだからまだ十七』


 その答えに、目を見開いたあかりは、両手の親指と人差し指をちょんちょんと合わせる。片手は自分側、もう片手は僕側で。ということは、


『今の「同じ」って意味?』


 母さんの友達とご飯に行ったときなんかに、「僕も同じの食べたい!」とせびていたっけ。


『当たり。私は八月生まれだから十八だけど』


 僕より五ヶ月お姉さんであることがそんなに誇らしいのか、あかりはふふん、と見せつけるように胸を反らす。


『えー、年下だと思ってた』


 呆れた顔とともに反撃を書き返すと、あからさまにムッとされた。


『どうして?』

『ほら、髪飾りとか可愛いし』


 そう書いてから、例の『※なお、意見には個人差があります』のページを開いた。

 あかりは、込み上げる笑いを堪えるように肩を震わせながら、


『そういうのは、女の子らしいって言うの』


 わざと拗ねたように頬を膨らませる。そんな時、僕のズボンのポケットで携帯が震えた。

 件名に「西口に着いたよ」とだけ書かれた、母さんからの簡素なメールだった。


『ごめん、迎えが来たみたい』

『おお、VIPだね』

『あかりは? 良かったら送るけど』

『いいよ、私も迎えが来るから』


 自分も迎えが来るのに、人のことをからかったのか。でも不思議と、からかわれたことへの怒りだとか、心配して損したという気持ちは湧かなかった。

 この、ちょっと口の悪い女の子との話が、楽しかったからかもしれない。


 残ったコーヒーを飲み干して腰を上げると、ちょんちょん、とコートの裾を引っ張られた。

 振り返った僕は、あかりからメモ帳の切れ端を受け取る。『LINEのID♡』という文字に続いて、アルファベットの文字列が綴られていた。


『僕に?』


 もう立ってしまったので、人差し指で自分を指して首を傾げる。「いいの?」と聞ければいいんだろうけど、いい、悪い、の手話が如何せん分からなかった。

 あかりは頷いて、胸の前でピースサインを寝かせて見せた。


『またね』


 本来なら、両手の人差し指を寄り合わせ「会う」まで続けて意味を成す手話。

 それをあかりが簡略化したことに、なんとなく同じ気持ちを感じて嬉しくなった。


『またね』


 僕も胸の前で指を立てて返す。歩き出す足どりは軽かった。

 母さんの待つ車まで行く途中で、さっそく携帯を取り出してアプリを立ち上げると、もらったばかりの連絡先を打ち込んでいく。

 少し早い、クリスマスプレゼントをもらった気分だった。

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