科学は宗教より「正しい」か

なまにく

科学は宗教より「正しい」か

現代の、日本の教育を受けた人の多くは、宗教的な説明について懐疑的な態度を示す、あるいは受け入れた態度を取りながらも「本当」はそうではない、と考えることが多いということについては同意していただけると思います。


例えば、雷の発生原因について、「神の怒りである」といった類の説明には事実無根だとして納得しない人が多い一方で、「雲の水分子が作る静電気が放電されるのである」といった説明に納得する人はある程度の割合を見込めるでしょう。


そこでまず、「宗教的な説明」と「科学的な説明」の受け入れやすさについて、その背後にある理由を考えていきたいと思います。


まず前提として説明しておきたいのは、上記の雷の発生原因の説明は、どちらも根拠がないということです。雷は神の怒りである、という説明については、神の存在の根拠となるものを一切提示せずに説明しているし、静電気が放電されるという説明については、雲が水分子でできていることや、水分子のこすれあいによって静電気が発生するという現象の根拠を一切提示せずに話しています。(実際、後者の説明は私がうろ覚えの知識で適当に書いたものです。すみません。)


しかしながら例えば、同様に根拠のない説明として、雷の原因を「目に見えぬ精霊の仕業」と説明した場合と、「宇宙に存在する電磁波が地球の大気圏を抜けて地表に放射される」と説明した場合とではやはり後者の説明を信じる人の方が多いと思われます。


補足:私の「宗教的」な表現能力が「科学的」な表現能力と比べて著しく劣ることはここに説明しておかなくてはなりません。


原因はおそらく、学校教育であると思われます。日本の国民はほぼすべてが義務教育課程を修了しており、その教育課程において使用される教科書等の説明はすべて「科学的」、また「論理的」と呼ぶべきものです。


理科教育を例にとると次のような考え方が見て取れます。

私達が世界を見つめるとこのようなものが見える。このように分類できる。そしてこのような疑問を持つことができる。疑問はこのように実験によって確かめることができる。実験によって確かめられたものが事実である。


おおむね上記のような理解をしている人が多いのではないでしょうか?このような形式はより多くの疑問に答えることが可能であるため、より多くの人に信じられやすいのではないかと私は考えています。


次に、個人の考察であることを明確にするため、私の考えている「科学的営み」と言われるものの内容を記述します。

科学的営みとは、実験事実をもとに否定されにくいような仮説を組み立てることであり、仮説を反証する、または肯定するような実験結果を得ることにより仮説をより否定されにくいものに昇華させていくことである。


私は人生における多くの時間について宗教的営みを自覚的に行っていないために宗教について詳しく説明することはできません。ただ、「科学の方が現実に即している」という意見について反論することは可能であるかもしれない。そこで、宗教に対する科学的な批判というものについて考えてみたいと思います。


例えば、神の存在を説く人に対して行われる批判として「神が存在する証拠はあるのか?」というものがあります。

多くの場合、直接的に神が存在する証拠を提示することは難しいと思います。直接的な証拠がなければ間接的な証拠として、神が存在していなければ説明できないような事象を説明する、ということができるでしょう。しかし、それらは同様に科学的な仮定をいくつも置くことでも説明することが可能であるだろうとおもいます。


このように互いが発言していくと、結局は両者の主張を攻撃しあい、より弁の立つものがより正しそうだ、ということになりそうです。しかしこれは、より否定されにくい仮説を作成している、という点では科学的営みと言えるのではないでしょうか?宗教について話しているのに、科学的営みを行っているということは、決定的な矛盾を抱えているように思えます。


つまり、次のような疑問について答えを探さなくてはなりません。「なぜ、証拠が必要なのか?」

証拠がある方がより正しい当たり前だろう、という反論がすぐさま帰ってくると思います。では、なぜ証拠がある方が正しくなくてはならないのでしょうか?証拠をもとに仮説を組み立て、より自然をうまく説明しようとする科学的営みは私にとってはとても良いものに思えますが、それをなぜ当然のものとして受け入れなくてはならないのでしょうか?


私を含む多くの科学の信徒は、この世界が原子や素粒子が集まって構成され、様々な既知・未知の物理学の諸法則によって支配された世界だと考えています。それと同じくらい、この世が神によって作られたと考える人もいるはずです。多数派が常に正解ではない、ということは私達は経験によって知っていますから、この世界が科学によって説明されるべき形式でできているのか、それともむしろ神あるいはそれに準ずる存在によって支配されているものであると考えるべきなのか、どちらかが正しいということは不可能なのではないでしょうか。


つまりは、科学的営みを行っている時点で、すでに宗教的な立場を否定しているのです。その否定には、何の根拠も存在し得ません。ただ、始めに信じたものが、科学的な営みであったというだけのことです。


ここにおいて、科学的に宗教を批判することには何の意味も生じないということを認めるべきであると思います。生物学的には(もちろん生物学も科学的営みです)、科学的思考を用いた方が適応的であると言えるかもしれません。ただ、その結果我々は自らを滅ぼしうるような力を手に入れてしまいました。もちろん、宗教というものが多くの人を救ってきた一方で多くの不幸な事件を産んできたことも忘れてはならないでしょう。


科学と宗教は、どちらも人類の成熟とともに育まれてきた重要な財産であるように思います。その成長の過程で、互いに相容れない性質を一部に持つようになったのでしょう。どちらも考え方の根幹が異なり、現代に生きる人々はすべて科学あるいは宗教の考え方のどちらかを持っているでしょうから、原理的に優劣をつけることはできないのではないかとも思えます。


結局は、ひとりひとりが何らかの信仰を持つことで自分の世界から不合理を取り除けるだけ取り除き、それで何とか生きていくことができている。それだけのことのように思います。

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