袴田教授の依頼㉗
かなめはあたりを見回して息を呑んだ。
そこに先程までの荒れ果てた廃墟の姿はなく、あるのは戦時下特有のある種の活気に満ちた兵舎の姿だった。
土埃の臭いに混じり、兵隊たちの饐えた汗の臭いがかなめの鼻を付く。
男は右手にグラスを持ち、まっすぐこちらに歩いてきた。
かなめは咄嗟に体を強張らせて身構える。
かなめが硬直して逃げそびれていると、男の手がまっすぐこちらに伸ばされた。
「うっ……」
「ひっ……」
男の手は若い兵隊の袖を掴むと崩れた隊服を直していく。
「なんだ? 女みたいな声を出して。私が恐ろしいのか?」
「い、いえ!! 滅相もありません!! 少し驚いただけであります!!」
若い兵隊が答えた。
男はニヤリと笑ったが、相変わらずその眼はギラギラと鈍い光を放っていた。
「佐々木中将はおいでか!?」
入口の方から声が響いた。
かなめが振り向くと、そこには薄汚れた白い軍服を着たメガネの男が立っていた。
「おお!! これはこれは正木大佐ではありませんか。如何用でしょう?」
佐々木はグラスを机に置くと、かなめのすぐ横を通り抜けて正木のもとへ歩いていった。
正木は周囲を見渡してから小声で佐々木に囁いた。
「佐々木中将。丸太が足りん……また
佐々木は眉間に皺を寄せた。
「つい先日送ったばかりだが……?」
「何を仰いますか!! 実験もいよいよ最終段階……!! もうすぐ帝国陸軍、ひいては大日本帝国の悲願が達成される重要な局面ですぞ!?」
正木は鬼気迫る勢いで声を張り上げた。
その声で駐屯所に居合わせた兵隊達は一斉に二人の方に目をやる。
「……分かった。何とか都合しよう……」
佐々木が渋い顔でそう言うと正木は満面の笑みを浮かべて佐々木の手を握った。
「流石は佐々木中将!! そこらの俗物ではなし得ない英断に感謝致します!! では、私は研究がありますので失礼します」
足早に駐屯所を出ていく正木を見送ると、佐々木は険しい表情で戻ってきた。
「何をぼさっと突っ立てる!! さっさと仕事に戻らんか!!」
「はっ!! も、申し訳ありません……!!」
二人の青年は敬礼すると足早に仕事に取り掛かる。
その時青年の一人がかなめの立っている場所に真っ直ぐ向かってきた。
避けなきゃ……
かなめは反射的にそれを躱そうとのけぞった。
のけぞった拍子に腰が机にぶつかり、グラスがことりと音を立てて倒れた。
まずい……
そう思った時には遅かった。
ひとりでに倒れたグラスに兵隊達の視線が集まり、あたりは嫌な静けさに包まれていた。
「今、グラスが勝手に倒れた」
佐々木が低い声でつぶやく。
「ゆ、幽霊でありますか……?」
若い兵隊が恐々口に出した。
「それならいい。だが……」
そう言って佐々木は両手を前に突き出しながら何かを探すように歩き回る。
「私はさっき、女のような声を聞いた気がする」
「それは……自分の声であります……」
先程声を漏らした青年が申し訳無さそうに進言した。
「いや!! 確かに聞いた……!! このあたりだ……」
佐々木の手がまるで見えているかのようにかなめに迫ってきた。
心臓が早鐘を打つ。
冷や汗が吹き出し膝が震えた。
かなめは体を反らして迫ってくる手から逃れようとしたが、背後の机が邪魔をしてそれ以上は逃げられない。
捕まる……!!
かなめがそう覚悟した時だった。
ガッシャーン!!
凄い音がして窓が粉々に砕け散った。
「総員警戒態勢……!!」
佐々木は叫ぶと窓に駆け寄り外を睨みつけた。
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