雪山の教会所

頂上の宿

 ざくざくと踏みつける短い草には霜が降りているらしい。一足一足に小気味良い音と感触が伝わってくる。

 山麓の町で厚革の靴にしたらどうかと衣服店の店員に勧められたが、やはり履き慣れた草履の方がどこか落ち着くのが実際だった。それに、草履は案外に滑りにくく丈夫で歩きやすい。もっとも、おシノちゃんにはしっかりとした防寒機能がついた厚手の靴を買ったのだけれど。


「おシノちゃん、寒くはない?」

「ええ、大丈夫です。それより千影さんこそ寒いのでは? そのような服装に合う外套がなかったからと言ってあまり着込んでいないでしょう?」

「問題ないわ。この世界に来た時になにかあったんだと思う。寒さも暑さも元の世界にいた時より何倍も優しく思えるから」


 「はぁー」と長く息を吐き出すと、それは白く濁ってから宙に霧散した。

 大爆発が起こり、大騒ぎになったケルウィンの町を混乱に乗じて逃げ出してからかれこれひと月が経った。

 幸いなことに私たちに何らかの疑いの手が伸びてくることはなかった。ケルウィンを出て、行く先々でそれとなく事件の話を探ってみたけれど二人に結びつくような情報は流れていないようだ。

 と言うよりも実際はそれどころではなくなってしまった、と言った方が正しいかもしれない。

 ケルウィンを出て一、二週間はまだ町や村、教会所の多くが無事だったが、それを過ぎるとそれが当たり前ではなくなった。

 国兵や冒険者の類がいなかった、もしくは少なかった村や教会所の半分は魔族に襲われて見るも無残な状態になっており、まだ魔族の手が伸びていない村でもその土地を放棄して逃げるような動きが起きていた。

 村に着いてもほとんど村人が残っていなかったということも一度や二度ではない。無論、戦線維持のための教会所も後退を余儀なくされ、国兵や冒険者が多く集まるような大きな町の検問所は難民であふれかえった。疲れ切った人々が魔族に怯えずに済む場所を求めて彷徨い続けているような印象を受けた。


「それにしても、この山の連なりに入ってからぐっと気温が下がりましたね」

「そうね。この前はちらちらと雪が舞ってたし、この山を越えたら本格的に積もってくるかもしれないわ」

「あれは素敵でした。雪というものを見るのは初めてだったので」

「京の都でも雪は降ったけど、場所が違うと見える景色も違ってくるものね」


 そう言えば万葉集に雪と恋人を重ね得て謳ったものがあったように思う。


『わが背子と二人見ませば幾許かこの降る雪の嬉しからまし』


 確かそんな歌だったと思うが、争い事と違ってそちらの方に千影は造詣が深いわけでもない。

 しかし、なるほど、確かにこうしてシノと一緒に見る雪は幼い日を想い起させた。動乱の中でも、あの時は確かに幸福に包まれていたように思う。


「見えてきたようね」


 そんな言葉を交わしながら歩いていると、尖った屋根が視界に入った。

 この山はそこまで難所というわけでもなく結界が張ってあるわけでもないのに魔族が出ることは滅多にないらしい。そのおかげで何千年も前に山頂に教会所が作られ、この山岳地帯を越えるにはもってこいだと言われるようになったようだ。

 おそらくあれが教会所だろう。まだ今日は歩き始めて三、四時間しか経っていないけれど、せっかく教会所があるのなら利用させてもらうにこしたことはない。たまには身体をしっかりと休ませるのも必要だろう。

 教会所と聞いていたからそこまで大きなものは想像していなかったのだが、着いてみるとそこは教会所というよりちょっとした集落に近いものだった。大きな宿はもちろんのこと、教会や飯屋酒屋、雑貨屋のようなものもある。おまけに教会所に来たまま居着いたのかどうかは知れないけれど、ただの家屋に見えるものまである。

 行商人や旅人のためだろう。どこにも馬車を繋いでおく所が用意されていて、実際、今も何台もの馬車を見かけた。


「凄いわね。こんな立派な場所だとは思ってなかったわ」

「ええ。それだけ多くの人が利用しているということでしょう」


 宿屋に入ると、薪を燃やして使う長火鉢の暖かさにほぅっと息を吐いた。そこまで寒さを感じないと言ってもやはり人間は暖かい場所での生活に適応しているらしい。

 帳場にいる女性に声をかける。「いらっしゃい」と笑った恰幅の良い中年の女性は温和を姿形にしたような感じに見えた。


「これはまた若い旅人さんたちだこと」

「部屋を一つ頼めますか? ベッドは出来れば二つ。ですが、難しいようであれば一つでも構いません」

「ああ。お嬢ちゃんたちは運が良いよ。もうすぐで満室になるところだったんだけど、二つの部屋が一つ空いてるさね。とは言っても少しばかり値が張っちゃうが、その辺は大丈夫かい?」

「ええ、大丈夫です」


 革袋から金貨を一枚取り出して見せる。

 金の光は阿弥陀ほど、なんてことわざがあるけれど、魔族の侵攻が激しい場所ではそれも通じなくなりつつあった。魔族の危険にさらされ、命からがら逃げてきた人々が欲するのは食べることの出来ない金銭などではなくその場で腹を満たせるパンだった。貨幣経済が崩壊したというわけじゃないが、それでも自然と貨幣の価値は下がっているようだった。


「なるほど、良いところのお嬢さんたち……いや、そっちの子がお嬢さまで、貴女はそのおつきの護衛さんかな?」

「どうでしょう? その辺は想像にお任せいたします」

「おっといけないいけない。お客さんのプライベートに口出しは厳禁だね」


 ふふっ、と女性が小さく笑う。


「それで、何泊の予定かな?」

「そんなに長居するつもりはありません。この先のレシンキルを目指していて……」

「おや、王都に行く途中かい? でもお嬢ちゃんたち、それだとしたら少なくとも三泊はしていくことを勧めるよ。先を急ぎたいっていう気持ちはわかるけどさ」

「三泊? どうしてでしょう?」

「見たかどうかはわからないけれど、今ちょうど山の向こうに広く薄く雲が広がってるんだ。これは天気が荒れる前兆でね。この辺りでも大分吹雪くから」

「そうなんですか?」

「お嬢ちゃんたちは本当にツイてるさ。あと一日遅かったらここに来るのも大変だったろうよ。越えやすいとは言っても山は山だからね。甘く見ると命を取られるんだ」


 そういう彼女の言葉にウソは感じられなかった。おシノちゃんとこちょこちょ話すが、別にここで一日二日の時間を競っているわけじゃない。


「せっかくの王都までもうちょっとなんだ。こんなところで死んじゃ本末転倒だろう?」


 結局、私たちは女性の言う通り三泊の予定で部屋をとった。

 小間使いの女性が部屋まで案内して長火鉢に火を入れてくれる。

 最初は少し気温の低かった部屋だけれど、十分もすれば火の暖かさが部屋全体に広がっていった。

 小間使いの女性も下がり、二人はふっと小さく息を吐く。手袋をしていても少し寒かったのか、おシノちゃんは自分の手にはぁ、と息を吹きかけていた。


「おシノちゃん、こっちに来てみて」


 そうしている彼女を窓際から呼んだ。ハテ? といった様子で寄ってきたおシノちゃんに「ほら」と外を指し示す。

 その風景におシノちゃんは息を呑んだようだった。


「すごい……」


 この辺ではまだ雪が積もっていなかったが、少し行った山ではもう雪が積もっているところがあり、綺麗な雪化粧の模様を見せていた。雪ですら見たことのなかった彼女だ。この景色に感じるところは大いにあるようで、大きな目を一杯に広げてキラキラと輝かせていた。


「寒くなるのは少しこたえるかもしれないけど、こういう景色が見られるというのはとても素敵なことね」

「ええ、まったくです」


 窓際。私の手におシノちゃんはゆっくりと手を重ねた。



 ケルウィンを出た二人が目指すことにしたのは北だった。

 悪魔だというテーロ。そして、自爆する前にワガクスがうわごとのように繰り返していたボヤジャント。

 元より当てが多い旅ではなかったが、その二つの言葉が次の旅の道しるべだった。


「テーロにボヤジャント? んー……聞いたこたぁねぇなぁ……」


 ケルウィンから遠くない町の酒場でマスターに聞くと、彼はそう首をひねった。


「それが探し人の名前か? こう、なんか特徴はないのかい?」

「特徴は……外見的な特徴は何も。ただ、七百年前にあったという魔族の活発化と関係があったのかもしれません」

「カタストロフォ未遂事件、か……」


 マスターはそう呟いた。

 どうやら七百年前のことは巷では『カタストロフォ未遂事件』という名前で呼ばれているようだった。


「悪いな」


 少しの沈黙の後、マスターはそう申し訳なさそうに言った。


「残念だが、テーロにボヤジャントなんて言葉、俺は聞いたこともない。カタストロフォ未遂事件に関することとなると、ワガクスさまなら知っていたかもしんねぇが……」


 だが、そのワガクスはもういない。

 こんなことなら強引に、もしくはどういったか方便を使ってでも情報を得た方が良かったのかもしれないと思うが、あの曲解癖があった老人に何を言ってもあまり意味がなかったのではないか、とも思う。


「マスター! 酒だ、追加の酒をくれ!」


 と、話をしていた私を押しのけるようにして男がマスターに寄った。息はかなり酒臭く、足はもうおぼつかない。おシノちゃんを男から守るように少し動く。


「おい、飲みすぎだ。今日はもうやめておけ」

「はっ……今日はもうやめておけ、か」


 男は嘲るように言った。


「それじゃあ明日は飲めるのかい? 明日もこうして酒場に来られるって保証があるのかい? その前に魔族どもに殺されるかもしれねぇじゃねえか」

「誰もそんなこたぁ言ってないだろう。この町には立派な国兵もいれば冒険者たちもいる。魔族だってそう簡単に襲ってはこれねぇよ」

「どうだかな? 勇者は元より、三英雄のワガクスでさえ呆気なく死んだんだ。どれだけ国兵や冒険者がいようが、この町を潰すことくらい魔族にとっちゃ簡単なことに違ぇねよ」

「………………」


 立て続けに死んだ神族のシンボル。勇者とワガクス。彼らの死に、誰もが魔族の関わりを疑っていなかった。

 ワガクスが一体どういったことをこの世界でやっていたかはわからない。けれど、勇者のみならず三英雄であったワガクスまでが消えたのは大きなダメージだったらしい。実際、ワガクスが死んでしまい、勇者たちの死でただでさえ危うくなっていた結界がさらに脆弱なものになっているという。今、国の中でもこの辺一帯は混乱の真っ只中にあると言って良い状態なのだろう。


「もう俺たちゃ終わりだよ。なら、せめても今の時を楽しむべきじゃねぇか?」

「あまり自棄になるな。ワガクスさまが亡くなった今も、ワガクスさまの結界が維持されているところは多い。実際、王都の周辺の結界は何も変わらないって話だ。王だってバカじゃねぇ。このまま国が潰れるのを待つなんてことはないだろうよ」

「おめでてぇな、マスター。術師は結界の維持に右往左往、国兵は魔族の相手でどんどん消耗してるって話だ。そんなんがいつまでも持つわけねぇってのによ……楽観的にもほどがあるぜ」


 酒が出てこず諦めたのか、男は投げるように小銭をカウンターに置くと千鳥足で酒場から出ていった。それを私は見送った。


「千影さん……」


 おシノちゃんが心配するように私の顔をのぞきこむ。


「勇者は私が斬り伏せた。ワガクスだって私が殺したようなもの。この世界の人たちからしてみたら私は疫病神もいいところね」

「そんなこと言わないでください。どちらとも千影さんに落ち度があったわけじゃないんですから。不可抗力というものでしょう?」

「心配してくれるの?」

「それは……ええ……」

「大丈夫よ、こういうのもおかしな話だけど、別に自責の念を覚えてるわけじゃないのよ。私はただ邪魔だった方々を斬ったまで、で」


 小さく息を吐くと、おシノちゃんはそっと手を握ってきた。それでも私と一緒にいてくれる。そんな彼女の姿が今の何よりも大切なものだった。


「っと、悪かったな、嬢ちゃんたち。最近じゃああいう風に自棄になるやつも多くてな」

「いえ、このような事態になってしまったのですから、それもまた仕方のないことと言えると思います」

「あんたらはまだ若いってのに肝が据わってるな。大したもんだ」


 そう言うと、マスターが「そういや」と何かを思いつくように言った。


「嬢ちゃんたちの役に立つかどうかはわからないが、レシンキルに行ったら何かしらの情報が残ってるかもしれねぇな」

「レシンキル? それは都市の名前ですか?」


 首を傾げると、「嬢ちゃんたちはこの辺の人じゃなさそうだもんな。知らなくてもおかしくはないか」と合点がいったようだった。


「レシンキルはこの国の王都でな。カタストロフォ未遂事件の最終決戦の場になり、三英雄が集結して魔族を撃退したんだ。その頃はまだレーシキルと呼ばれていたんだが、それを機にこの国、ゼシサバル王国は王都を遷都、名前をレシンキルに変えたんだよ」


 酒場から宿に帰り、ケルウィンの町で買っていた地図を見ると、なるほど、確かにケルウィンから北に随分と行った場所に「レシンキル」という名前の町があった。今まであまり考えてはいなかったがこの国、ゼシサバル王国は南北に長い形をしており、私たちがいたケルウィンはその中でも南に位置する都市だった。

 どの程度魔族の侵攻がおこっているのかはわからないが、少なくともこの国の中一番栄えている都市は首都やその周辺だろう。

 もちろんそこに行ったって何かしらの情報があるという保証はない。

 それでも、そのレシンキルは首都というだけあって大きく、魔族の侵攻もない上に他の都市との交流拠点にもなっていて様々な情報を探るのに悪い場所のようには思わなかった。

 こうして、私たちは次の目的地をレシンキルへと決めた。

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