三色菫のスカートを。

嗤猫

ひらひら揺れる


 柔らかな若葉を透かす日の光は、すぐ隣に寄り添う夏を孕んでいた。


「早く!こっちまだ空いてるよ〜」


 呼ばれた少女がパタパタと校舎脇の花壇へ向かって走って行った。ゆらゆらとそよぐ腰丈のコスモスと紅紫のラベンダーの脇を通り、建物と建物の間へ消えてゆく。

 講堂にぐるりと配された掃出し窓のうち、北側の片隅に少女達が集まっていた。校舎の陰と掃出し窓の前に置かれたバレーボール部のボール籠のおかげで、覗いている様子がバレない公然の秘密の場所だ。小動物避けのネット越しに、彼女たちは館内に熱い視線を送っている。

 蒸し暑い空間に、甘酸っぱい桃色のラクトン香が濃密に漂っていた。


 キュキュッとワックスに擦れるウレタンフォームの靴底の悲鳴、ダ、ダンと打ち付けるボールを弾く床の弾性の軋み。額から髪を伝う汗を、練習用のビブの下のシャツの裾で拭う部員。ちらりと見える腹筋に息を呑む気配が拡がったのを感じながら、私は校門を抜けるフレアスカートを目で追っていた。


「あー!鳴神センパイ格好良いよね〜」

「いやいや笹塚センパイでしょー?あの手の血管クるじゃん」

「なんか佐藤クンってマネと付き合ってるらしいよ」


 一般生徒の下校を促すチャイムが本日の集いを解散させ、ぱらぱらと小さなグループがそれぞれの帰宅路を辿って流れて行く。

 乗換駅のファーストフード店内には、ポテトと氷少な目のドリンクを相棒にした少女達の他愛のない会話が転がっている。毎回同じ会話を新鮮に真剣に楽しんで、シュワシュワと弾ける炭酸の様に淡い日常を溶かして過ごす。


 不思議な人が居た。


 陽キャのグループに当たり前の様に居るのに独りだけの様にも見える。私達と同じ様に駄弁ってフザケて愚痴って笑っているのに、頬杖を付いて外を見る横顔は、この空間に染まらない透明なアクリル板で隔離されている美術品の様だった。


 彼女は表情が乏しい。

 彼女は唇を尖らす癖がある。

 彼女は睫毛が長い。

 彼女は低身長なのをちょっと気にしている。

 彼女は気まぐれにネイルをして登校する。

 彼女はその長い髪を

 彼女は靴先

 彼女は

 彼女は

 彼女は、


 彼女は私達に興味が無い。



「おはよう」

「…おはよう」


 入学して3ヶ月以上経った初めての会話は、課題より頑張って考えた末に挨拶する事で落ち着いた。

 彼女の顔には『ダレダオマエ』と書いてあったけれど、直ぐにクラスメイトと会話する表情に替えて返事を返してくれた。

 私は『おはようを言うヒト』になった。



 夏限定のジェラートを手に、シャッターを切る私達の会話は、アコガレのセンパイの出場する大会の応援に行くか行かないか、とか、日焼け止めのメーカーについて、とか、夏休みの予定と文化祭の準備についてだとか、季節イベントをなぞらえる。


「あ」


 店名のカリグラフィーシールが踊る硝子窓の向こう側を彼女が歩いている。

 部活動をしていない彼女は、私達より随分先に下校する。この時間帯に駅周辺で見掛けることは珍しい。


「見た?あれ噂の」

「見た見た!お姉さん、モデルみたいなプロポーションだったね」

「奥に居たジャケットの人、格好良くなかった?」


 彼女のお姉さん。


 スラリと背が高く、身体の半分以上が脚と称されるプロポーションと、生徒会に属することは無かったが各種の行事委員を務め、社交的で学年問わず人気があった、私達と入れ替わりに卒業したセンパイ。

 入学当初は、憧れのセンパイの妹を一目観ようと度々クラスに上の学年の人達が来ていた。

 ただ、あまりにもタイプが違うので、暫くすると潮が引く様に落ち着いたのだったっけ。


 新しい話題が提供されてキャーキャーと黄色い花を咲かせる友人達を尻目に、私は別の意味で興奮していた。


 水面を模して水泡を含んだ翡翠色の硝子ウィンドゥ越しに、ふとコチラを見た彼女は


 私に目礼をした。


 僅かに頷く様に、一重なのに棗型の大きな眼を伏せてコクリと。

 私はその晩、痺れを伴う喜びとともに眠りに落ちた。



 レモンとスペアミントとフローラルの制汗剤が粉を纏い香る教室で、彼女の手足が靱やかに舞う。


 肘を軽く曲げた右腕が、柔らかく水平に開くとそのままくるりと身体がまわる。


 くるり。くるり。


 紙人形がまわる様に、何処も捻じれず顔は正面に。菫色のスカートがふわり拡がってとろりと落ちる。


 とん。と踵が床に付いて、ゆるく延ばされた指先が誰かを追う様に2歩進むと、激しいステップと力強く握られた拳が胸を叩く。


 文化祭の出し物は、ダンス系の部活動をしている女子グループに男子が取り込まれる形でダンス有りの寸劇に決まった。

 私達のグループは授業程度の経験と熱意しかない素人の集まりで、衣装すら揃える気も無く。制服で踊るアイドルグループのコピーで良いだろうと気軽に選曲して始めたのだが。

 スローテンポで始まる冒頭と中間の見せ場にバレエの要素が含まれていて、メリハリどころか身体の動かし方ひとつ満足に覚えられず早々に行き詰まってしまったのだった。

 寸劇の一部なので今更変更となると前後の台本にも影響が出るし、同じ様な曲と入れ替えても結局ダンスが出来無い事に変わり無い。


 見かねたクラスの面倒見の良いギャルが、教室の隅から大道具の段ボールを抱えた彼女を引っ張り出して。調子良いお願いに僅かに思案を巡らせた後、コチラを見て動画を確認して。笑い頷いた。


 視線と好奇心の立てる波ががサワサワと教室に拡がってゆく。

 

 渦中の彼女は知らない振りをして、折り紙の折り方を教える様に尖端までぴっちりと、出来なくても形になる様にと、丁寧に教えてくれたのだった。


 幾許も無く夏休みに突入し、ダンスの練習は個別のグループ毎に行う事となり、彼女はまた、クラスの中に埋没する。


 筈だった。


「お願い!」


 食い下がっているのは、彼女のグループのギャルでも無く、私達のグループの友達でも無い。

 一番気合いの入っていたダンス部チームのリーダーの娘。

 ケガをしたメンバーの代わりに身内では無く彼女を入れたいらしい。文化祭は来週なのに。

 どう見ても嫌がらせだ。


 彼女は笑顔で了承していた。透明度の高い赤い紅茶色の瞳がとても冷たく澄んでいた。



 誰かの溜息が聴こえた。


 お揃いの白いスカートを翻し得意気に踊る5人へ舞台の反対側から数人が歩いて混じる、そんな振付け。


 彼女が、歩く。


 高い位置のポニーテールに白いカットソー、スキニー。誰かから急遽借りた有り合わせの衣装。ギャルが文句を言いながら気合いを入れて施したメイク。

 フォーメーションの端に加わり観客へ視線を向け手を振り抜く。


 添え物になったのは。



「良かったよ〜」


 舞台脇のドアから出て来た彼女に群がるクラスメイトの後方から、少し鼻に掛かった大人の女性の声が真っ直ぐ通る。

 バツの悪そうな彼女の瞳が5メートル後ろに焦点を合わす。


 彼女と家族とごく親しい者達で構成された華やかな輪に、憎悪の視線を向けるダンス部の彼女。

 きっと私も同じ表貌かお



 球技大会なんて、特定の部活動に属しているニンゲンの為のイベントだ。

 大多数の一般生徒は、単位の為に粛々と時間と体力を浪費する。


 死んだ魚の様な眼をしている集団の中に彼女を探すも見つからず。

 何の種目に参加していたっけ?


 午前中に終了した種目の講堂が騒がしい。

 そういえば、ぽつりぽつりと人が行き来していたけれど。

 笑顔の教師が入口で生徒と談話しているから、学校側も許可しているのだろう。

 訝しむ私の肩を、友人が押した。


「暇な人達がドッジやってるらしいよ!」

「ユウ先輩も居るんだって。行くよね?」


 中央をネットで区切った2面のコートそれぞれで行われている試合には、学年混在で観客が声援を贈る。

 きゃあと高い歓声と、おおぉと走る響動めきと。


「え?あれ、うちのクラスじゃない?」


 見物客に心持ち男子の多い奥のネットに眼を向けるも、人だかりが多過ぎて良く見えない。壁に張り付きながらゴソゴソと近寄ると上級生の混成チームに翻弄される下級生らしき女子チーム。


「あっぶな。男子は利き腕使用禁止だけど、運動部の奴は両方鍛えてるのも居るじゃん?」

「女子がんば〜」

「1年?カワイイ娘おるね」

「お前知らんの?学祭のダンスの娘だろ」

「ギャル子はテニス部の、ほら」

 

 囃子立てる声に導かれて目を向けると、しゅるりさらり流星の尾を引きながらボールを躱す彼女。

 にこやかに。にこやかに。上気した頬と唇。白い肌に赤く色付いている。


 楽しそうな、生きている眼を、していた。


 私の知らない彼女が大衆の前で暴かれてゆく。



 パキン。と背の高いグラスに入った氷が弾けて澄んだ音色を立てた。

 クッキーみたいな模様の焼印が捺されたコルクのコースターに水滴が落ちてゆく。

 飴色にくすんだ木製の椅子には、柔らかな革が張られている。席の間には適度なゆとり。

 客のざわめきよりピアノの奏でるジャズが会話の邪魔をしない程度に店内を巡る。

 ノートパソコンを弄るスーツ姿のサラリーマンも、パフェを食べながら談笑している女性客も、普段自分達が利用しているチェーン店の客とは違う世界の人の様だ。

 完全なアウェイのこの場所で、私は憤りと共に目の前の大人と対峙している。


「あ、の。私のな」

「ごめんね。名前は覚えられないから、友達か聞かせてくれればいいよ」

 

 こんな風に、といった態度のこの人は彼女の母親だ。

 二重にキツく引かれたアイラインや、粘膜より少し濃い色の口紅を刺してはいるものの、中性的な印象を強く残す。少し下がった目尻やほうれい線も確認できる顔は確かに年齢を感じさせるのだけれど、少なくとも私の親とは違う。これからもこのまま変わらず生きていそうな、人臭さを感じさせない怖さを持っている。

 それなのに、私の口は止まらない。


「彼女に、評価の場を与えないのは何故ですか?」

「ん?あぁ、バレエの事?」

「はい。公演でも発表会でも、彼女は相応のポジションに居るじゃないですか。お姉さんは全国大会にだって出て」


 目の前の人の、感情を乗せない少し灰色掛かったセピア色の瞳を見ていたら、涙が出た。

 私は昔から、彼女を知っていた。

 幼馴染みが始めたバレエの発表会。実力の程はお教室に見学に行って知っていた。ママゴトの様なお遊戯が2時間も続くのかとウンザリしていた一曲目。

 彼女達はヒラヒラのスカートも、何とか覚えたバタバタした振付けも、身内だからと贈られる拍手も、必要無かった。

 表現する為に伸ばされた手足に。舞台に位置取る正確なポジションに。リズムと観客を繋げる空気感の演出に。


 虜になった9歳の春。


 あとから聞けば、系列のスクールの中でも取分け上手な支部であるとか、そこから本部に所属しコンクールに出場するとか、そんな事を知った。

 私は只々同じ年の、彼女を観たいとの熱望はチケットの割当に苦労していた幼馴染みの家の利害と一致して、追いかけたのだ。


 そのうち本部に所属した彼女は、一年に熟す舞台数も増え。

 決して主役では無いけれど、常に中央に居た。


 それから少しして、彼女が本部を抜けたと聞いた。


 私は泣きながら、どんなに彼女を応援していたか、どんなに彼女は素晴らしいかを繰り返し、しゃくりあげ、つかえ、身振り手振りで伝えようと足掻いた。

 目の前の人はジッとソレを聞いていた。


 一息付くと、冷たいおしぼりを用意してくれていて、薄く笑顔を作りながら、優しく無い言葉を吐いた。


「キミ、あの子とちゃんと話した事無いでしょ?一度話してみなよ」

 

 私は逃げた。



 駅の裏手は少し大きな公園で、遊具の無い散策路は花見の時期以外に人気が無い。無様に腫れた目と、自分の行動に今更ながら羞恥心が湧いてとてもでは無いが人通りを歩ける状態でない私は、隠れるように木製のベンチの端で縮こまっていた。


 そもそも、改札から出て来た彼女のお母さんに声を掛けたのは自分だ。

 バレエだって、一方的にファンだっただけで、彼女は知らないのだ。

 一方的に自分の重い想いを何故、ぶちまけてしまったのだろうか。


 いや、だって、彼女が。


 同じクラスで、声の届くところに居て。


 だって。


「ねぇ、大丈夫?」


 ちょっと低い、透明感のある声が右耳に抜けた。

 水のペットボトルをそっと私の手に乗せて、でも近付き過ぎない距離で佇んでいる。


「どうして居るのよ」

「母が、ここに居るだろうから話しした方が良いと訳わからない事を言ったので」

「自分の親なのにわからないの?」

「うん。変な人だからね」

「確かにね」


 くくくっと、悪戯っ子の笑みをする彼女は、生身の女子高生だった。

 私が創り上げたフィルターを外しても、彼女は変わらなかった。

 触れれば、体温と血液の巡る音を感じる事ができる、ニンゲンだった。



 思い出した様にやりとりするSNSのアドレスが新規通知を知らせている。

 出不精の彼女を連れ出すのには骨が折れるけれども、それもプロセスの一部だと思うと苦ではない。

 結局、私は彼女が好きなのだ。


 それでも、人より少し速い歩幅で菫色のスカートを翻しながら歩く後姿に、私は追い付け無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三色菫のスカートを。 嗤猫 @hahaneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ