チルド・チルドレン

小狸

短編

「早く大人になりなさい」


 そんなことを言う、母親だった。


 片親だったから、何としても僕に幸せな人生を歩ませようとした、母の献身的な言葉なのだと理解できる。ただ、その言葉は、僕の心の薄い皮の、それでいて神経の集中している部分を剥いた。内側からは、僕の心の内、赤い肉のような部分が覗いて見えて、気持ちが悪かった。 


 大人になるとはどういうことなのか。


 小学生の頃の僕には、はなはだ疑問であった。


 具体的にどうしろ、という指示はなく、ただ、「大人になりなさい」と言われた。

 

 そう急かす母を喜ばせたいという気持ちが、一番にあった。


 だから僕は、我慢した。


 いじめも、意地悪も、暴力も。


 僕は学校でいじめの対象になっていた。


 

 具体的には、殴る、蹴る、である。


 まあ、同級生の彼らには、僕が「少し頭が良いだけで、先生から褒めそやされている気に食わない輩」に見えたのだろう。


 その気持ちは、分からなくもなかった。


 僕でもそういう奴がいたら「調子に乗っている」「あいつ後で殴ろう」となる。そうして自分の優位性を無意識に主張するために、いじめると思う。


 だから――我慢せねばならないと思っていた。


 その時の担任は、新任の先生であったから、学級運営に必死で、いじめに気付くことがなかった。というか、学級はもういじめどころではなく、崩壊寸前であった。


 いや――被害を主張しろよ、という話ではある。


 僕は絶対に、「いじめを受けている」は言わなかった。


「苦しい」とは言わなかった。


「辛い」、とも言わなかった。


 なぜなら、それが、「大人」であると思ったから。


 辛いことがあっても、苦しいことがあっても、それを無視するか内包したまま、それでも生きねばならないから、仕方ないから。


 だから僕は、我慢して生きた。


 それが、最も「大人」に近付くことのできる唯一の方法だと思ったから。


 過激化したいじめは、僕にかなりの被害を与えた。


 そして中学校に入学してすぐの頃。


 具体的というか最終的には。


 僕は片目を失明した。


 そしてその結果、他の学校に転校することになった。


 僕をいじめた連中は、そのまま学校に留まり、悠々自適に過ごしているのだろう。


 そう思うと腹立たしい気持ちがないでもなかったけれど、しかしそんな気持ちも――仕方ない、無視されてしかるべきものなのだろう。それがきっと「大人になる」ということなのだ、と、思いこんだ。


「大人になるのよ」


 母親は、自分に言い聞かせるようにそう言っていた。 


 それは、いじめが発覚した後でも変わらなかった。


 今考えると、「大人になれ」という言葉によって、母は、己にとって都合の悪い問題から目を逸らしていたのだろう。そしてその癖は、僕にも見事に継承されてしまった。


 自由でいるように思えて、僕は電子レンジの中で、見事に熱されていたのだ。


 そして熱し終えた冷凍食品は、もう不可逆である。


「大人にならなきゃ」


 次の学校へと赴いた。片目に眼帯をしていたからか、周りのクラスメイトからは気味悪がられた。それでも僕は「大人」であろうとした。


 半年が経過した頃のことである。


 クラスメイトの女子を一人、妊娠させた。


 それが「大人になる」ということだと、僕は思っていたからだった。


 僕は心底「暖かい家庭を築くこと」ばかりを考えていた。


 相手方のご両親から平手打ちを食らうまでは、そう信じて疑わなかった。


 これは、僕の目指す「大人」ではなかったのか。


 また僕は、転校することになった。


 母はこの頃には、何も言わなくなっていった。


 逆に僕の方が、母に尋ねるようになっていた。


 自分は今「大人」であるよね、と。


 言われた通り「大人になって」いるよね、と。


 しかし母は、何も答えなかった。


 少しずつ僕を忌避するようになっていった。


 会話の数も、少しずつ減っていった。


 どうしてだろう。


 どうして――逃げるのだろう。


 辛いことや苦しいことにも、逃げずに無理して無茶して向き合うのが「大人になる」ということではないのか。

 

 母は「大人ではない」のではないか。

 

 その疑念は確信に変わった。

 

 ある日の夕方。

 

 キッチンで夕食を作る母を、僕は後ろから、金属バットで殴った。

 

 自分が殴られたように――母にもそういう体験が必要だと思ったからである。

 

 そうすればきっと、僕の気持ちも母に分かってもらえると思ったからだ。

 

 しかし、共感してくれるどころか、母は蛙の鳴き声のような声を上げて、僕の方を向いた。その顔面を、僕は再び、三度、四度、五度、六度、七度、八度、九度、十度、なるべく重複することがないように――満遍なく殴った。

 

 母は動かなくなった。


「やっと大人になれたね」


 僕は母にそう言った。


 母は、答えなかった。


 大人なら返事をするべきだと思い、もう一度、僕は母を殴った。


 母は、それっきり動かなくなった。



 相生あいおい尊彦たかひこが、母親である相生沙子さこを殺害し、血塗れの状態で発見されたのは、令和五年六月八日木曜日のことである。



(了)

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チルド・チルドレン 小狸 @segen_gen

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