貧困猫の鍋
彼方のカナタ
貧困猫の鍋
「産業革命」
そう呼ばれる出来事が世界で初めて起きた。この事により、この国の工業は大いに発展し、多くの人々が労働者として、職を得た。
しかし、同時に問題も多く起こった。急激な人口増加、それによるスラム街の形成と拡大。また工場からの排出物による環境汚染…。排気ガスで街には黒ずんだ霧がかかり、テムズ川には汚水が流れている。
上流階級の者や資本家等が、優雅な暮らしを送る中、私達スラムに生きる最低階級のニンゲン達は今を生きる為に必死になっている。
身を売る者、盗みをする者、暴力を振るう者…。ここスラムでは多くの犯罪が日々行われ、またそれを咎める者は居ない。勿論、皆が皆それを良しとしている訳ではなく、胸中では、罪悪感を抱く者も多い。私もその一人である。いや、どちらかと言うと、その一人で有りたいと願うのである。
私はいつも通り、薄汚れた身のまま、バディと共に仕事場へと向かう。私のバディはオリヴァーという名の青年である。彼と私は三年前に出会ってから、毎日一緒に過ごしている。彼は私の大切な友人であり、相棒だ。私は、彼も私の事をそう思っていると信じている。
彼にはもう一人、バディが居るらしい。しかし、仕事場が私と出会う少し前に変わってしまい、今では仕事から帰った後、同じ宿で泊まるときくらいしか、会うことは出来ないのだと言う。私とオリヴァーの宿は違うから、その人については名前くらいしか知らない。ただ、オリヴァーが前に「あぁ、彼は俗に言う天然というやつだ。確かに俺らと同じ様に生きるのには必死だし、生きるためなら何だってするだろう。だがな、よく騙されるし、やるべきことでは無い事をやってしまう。まぁ、純粋無垢過ぎるのと、天然過ぎるからなぁ。」といって苦笑いをしていた。その人の事を話すオリヴァーはとても楽しそうである。よっぽどオリヴァーから好印象を受けているレオに嫉妬してしまいそうである。
「あぁ…、今日も生きるために頑張りますかぁ…。」
オリヴァーはそう言いながら、とても一日では終わりそうにない量の仕事を始める。私はその手伝いだ。オリヴァーが薄汚れた服を身に纏い、淡々と仕事をこなしていく姿を見ていると、自分が手伝う事しか出来ない事がとても恥ずかしく思う。そんな私の気持ちを察したのか、オリヴァーは「お前くらい小さいやつが、普通働いているわけ無いだろ。手伝ってくれるだけでも十分だ」と言ってくれた。スラムでは子供も働くのが当たり前である。しかし、小動物レベルの私が働くなど、聞いたことも無いそうだ。しかし、私はオリヴァーに何か親近感を覚えているし、彼が親切だから、私は少しでも彼の役に立ちたいのだ。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
しかし、元々物騒だったスラムが、最近更に物騒になっている。この頃、スラム街の娼婦を狙う残虐な連続殺人事件が起きているのだ。これまで起きているのは既に4件。私の知り合いに娼婦は居ないが、それでも恐ろしく感じ、最近では殆どずっと周囲を警戒している。関係無い筈の私でも恐怖を感じているのだ、きっと娼婦達はもっと大きな恐怖を感じているだろう。私ならば、怖くて怖くて、何処か知らない場所に行ってしまいたいと思うだろう。この事件には、警察やお偉いさん方も黙っては居られないそうで、毎日のように警察や捜査官、私立探偵がこのスラム街を巡回している。だが、犯人の特徴はなかなか判明せず、人によって証言の内容がズレていたりもするのだ。これでは彼らも犯人を特定するのは難しいだろう。その上、新聞社や個人が多くのデマや偽証を流してしまう現実。誤情報を正確に見極めることすら難しく、こうなってしまったら犯人を見つけ出すのは不可能に近い。
私達はこの恐怖の中、生きなければならないのだろうか。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
あれから、もう一件、事件が起きた。また、噂の殺人である。今回は、二十代の女性が被害に合った。高身長で瞳はブルー、髪はレッド、ゴールド、ブルネット…のうちどれかだったと噂されていた。彼女の事についてはあまり知らないが、これまでの殺人事件のうち同一犯と見られる事件の中では、最も酷い様子だったと分かっている。
警察はこれら五つの事件を同一犯の仕業として捜査している。
こんな残酷な事件がこうも立て続けに起きるのは恐怖しか感じない。もう二度と起きてほしくないと願うばかりである。
事件から数ヶ月……。あの事件以降、同一犯と見られる事件は発生していない。警察などは、犯人が何か別の犯罪で逮捕されたか、死亡したか、移住したか、という理由で犯行に及べなくなったと見ている。しかし、事件は未解決で犯人すら未確定。これでは、真の安全が来たとも言えない。(最も、元々危険が多いスラム街では真の安全が来る日など来ないかもしれないが。)しかし、私は一つの危険は去ったと思う。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
スラムには、日常が戻りつつあった。
今日もいつも通り、オリヴァーと仕事場へ向かう。そして、彼の手伝いをした。彼はまた、仕事の合間に私に色々な話を聞かせた。レオの話だったり、何か冗談だったり、苦しい生活だけれども今日も楽しい日を過ごせた。
仕事も終わり、帰路につく。
「じゃあ、また明日な。Sleep tight」
そう言ってオリヴァーは宿の中へと入っていった。では、私も家に帰ろう。私はそう思い、小さな手足を動かして、再び歩き出す。
なんだか、顔が痒くなってきたので、私は手で顔を擦る。本来、痒くても擦ったら皮膚が傷付いたりするのであろう。が、そんな事は今更である。
どんどん空が暗くなってゆく。元々霧のせいで暗く、日も暮れそうなのも合わさっているが、普段と違い闇に呑まれる様な感覚を覚えた。何か不安に駆られて私は駆け出す。
雨が降り出した。濡れるわけにはいかない、そう思い私は更に走る速さを上げる。私は、全速力でスラム街の路地裏を駆けている。
いつの間にか、私の背後には黒い影が走っていた。空が闇に呑まれたように、私はこの影に飲まれる気がして、恐ろしいほどの寒気を感じた。
そして私は、この影に、深い深い闇に、呑まれた。
空という、丸い丸い大きな大きな器から、水が雨となって流れ出すように、私の身体からこの器から、私の命が流れ出す気がした。
目覚めるとそこは、誰かの腕の中だった。
記憶と意識は曖昧で、大切な人の事も少ししか思い出せない。私はどうして此処にいるのだろう。
私を呑み込んだ闇はいつの間にか晴れていて、霧も少し薄くなっている様に見える。私は、人間の赤子として、再び生を受けたと理解した。何かが欠けている。私には何かが…。
私は、両親に名付けられた。計らずも、大切な人と同じ名を得た。私……いや、僕の名前はオリヴァーだ。今日からオリヴァーという一人の男性として生きるのだ。
僕はあのオリヴァーと同じ様な立ち振る舞いをし、成長していった。少年と呼ばれる程に成長した頃、僕はスラム街で暮らすようになった。そして、ある一人の少年と出逢った。彼は名を、レオといった。奇しくも、かのオリヴァーのバディと同じ名である。俺とレオは八年間、全ての行動を共にした。俺が運動神経が悪くて、そしてあまり体力もないから、力仕事につけない。だから俺は毎日皿洗いをし続けた。そんな俺にレオは付き合ってくれていたのだ。
ある日、レオは「僕達二人はもう人生の相棒だね。そうだなぁ、僕達は『バディ』だね」と言った。俺はその呼び名を気に入った。これからも二人でずっと、一緒だと思っていた。
しかし、そのうちにレオは新しい仕事を見つけた。俺は、バディ解散かと思ってとても悲しくなった。だがレオは「働く場所が違っても、僕らはバディだよ」と言った。その言葉は本当だった。仕事が違っただけで、他の生活は何一つ変わることは無かった。とても安心した。しかし、仕事場に一人で向かうのは初めてで、とても不安になったのもまた、事実としてあるのだ。
そして俺は仕事場でのバディを見つけた。そいつは、とても小さく可愛いやつだ。俺はそいつにとても優しくしたし、そいつも俺の事を信用してくれていると思う。そいつは俺の大切な友人であり、相棒だ。俺は、そいつも俺の事をそう思っていると信じている。
俺はそいつの名前を知らない。一度聞いてみたことがあるが、返事は無かった。多分、名前は無いんだと思う。俺が勝手に名前をつけるわけにはいかないので、それ以降、そいつのことは、「お前」とか「そいつ」と呼んでいる。態度が悪いやつと思われていないだろうか…。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
最近、殺人事件が多いらしい。新聞社だの悪戯好きなやつだのが、デマを流すせいで、どれが正しい情報なのか分からないが、とても残酷な事件であるとは聞いている。ここはこんなにも危険な場所だっただろうか…。以前よりも、どんどん危険になってゆく。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
今日もまた、黒ずんだ霧は濃くなるばかりである。
五件目の殺人事件が起きてから数ヶ月が経った。ここまで期間が開けば、もう事件は起きないだろう。俺はそう思うし、スラム街の皆の雰囲気もそのように感じる。
今日もいつも通り、仕事をし、宿へ向かう。
仕事場の大切なバディに向けて「じゃあ、また明日な。Sleep tight」と言い、宿屋へ入る。
少しして、雨が降り出した。あいつは濡れずに帰れただろうか…。確か、あいつと出逢った日も、雨だったか。あいつは濡れて凍えていたな、偶々俺が通りかかったから良かったが、結構危険な状態だったなぁ。そんな事を考えていたら、すっかり日も暮れていた。俺はレオの帰りを待っていた。そして数十分して、レオが帰ってきた。そしてら突然レオは
「僕、色々な食材を手に入れたから、今日は僕特製の肉と野菜煮込みを作るよ」
と言って、レオは鍋を取り出し、料理を始めた。レオによると、ベーコンに猫肉、ニンジンに玉ねぎそしてクレソンを手に入れそうだ。少しの間待っていると、レオは「出来たよ!」と言った。
そして、二人は今日、食事が出来ることを感謝し、食べ始めた。
俺は鍋を食べながら、泣いていた。レオはそんな俺を心配していたが、俺も何故泣いているのか分からなかった。それをレオに伝えると、レオは困惑し余計に心配した顔をした。
だが、俺の中にオリヴァーとして生を受けた時から欠けていた『何か』が戻り、満たされる感覚がする。何か大切なものの、そして、元々自分の中にあり、しかし零れ落ちてしまったものが還ってきた様な気がして…、涙が止まらなかった。
その夜俺はとてもぐっすり、眠る事が出来た。
翌日から、バディは姿を現さなくなった。でも、それを当然の結果だと感じで、なんだかとても恐ろしくなった。周辺の住人に聞いても、俺のバディの事は雨の日以来見ていないと言う。
恐らく、あいつはあの後、雨に振られたのだろう。濡れたかは分からないが、もう、此処には居ないのだと俺には理解できる。
あいつの─あの猫の心身は、もう寒くないだろうか。
俺は、大切なバディを失った。だが、それでも本当の自分を取り戻した感覚がある。自分の信念が、二十数年生きてきて、ようやく一つに定まった。
そんな気がした。
貧困猫の鍋 彼方のカナタ @VERE
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