第4話

8、

 翌日の日曜日、わたしは午前中から不動産屋回りをした。十軒目の不動産屋〈萬来ワンライ地産ディーチァン公司ゴォンスゥ〉に向かいながら、不動産屋さんは一階に店舗を構えているところ多いなあ、と妙なことに感心していた。應龍であっても、路面店は家賃が割高だろう。それでも、ふらりと立ち寄れる集客力には代えられないのだ、とは父の弁だ。

 その父に教わったのだが、應龍にある不動産屋には、彼らなりの縄張り意識というか、バッティングしないように、受け持ちエリアの棲み分けがあるらしい。無数の不動産屋全てに当たるのは不可能だと頭を悩ませていたわたしは、それを思い出してとっかかりにした。

 わたしはひとまず、ヱミ夫人の運転手がホアンを見かけたという夜市に注目した。應龍で、しかも単身者で自炊する人間は滅多にいない。部屋にガスが通っているとは限らないし、電化でさえ怪しい物件も多い。第一、外で食べたほうが安上がりだ。夜市で目撃されたということは、その場所で夕食を調達していた可能性がある。

 そこでわたしは、問題の夜市があるエリアを取り扱う不動産屋を、訪ねることにした。

 いびつな平行四辺形をなす應龍の東側は海に行き当たる。北側の街衢には手近な公共交通機関がない。よって應龍にやって来る人間は、自動車でなければだいたい、西側か南側にある地下鉄を利用する。

 さて問題の夜市は、應龍の東南部にあった。そこで、南の地下鉄駅周辺にある不動産屋から聞き込みをスタートさせたのだった。

 手作り肉饅頭を連呼して呼び込みをするご店主のダミ声や、声高におしゃべりをし合うおかみさん連中をかわしながらわたしは、不動産屋に訊く内容を、頭の中で反芻した。

 目当ての物件の条件は三つだった。一つめは、【幻生動物】がいても目立たない場所であること。もう一つは、〈有翼飛天〉の習性上、風通しがよく、かつ日当たりがよい場所であること。そして三つ目は、むやみに【架空通路】でつながっていないーーできれば単体スタンドアローンであること。

 この三つの条件を満たすのは、鉛筆のように細長いビルヂングの最上階の部屋であることは、最初の不動産屋さんに教えてもらっていた。そして次に訪れた不動産屋からは、近々で最上階の部屋を借りた東南アジア系の男性がいないか、質問して回っていた。

 〈萬来地産公司〉は、役所通りと市場通りが交差する角の雑居ビルにあった。間口の狭い建物に、埃にまみれた磨りガラスの扉があって、ガラスには「貸室・売買・査定」の金文字が箔押しされていた。

「いらっしゃいませ。どんな物件をお探しで?」 

 ドアを開けると、いきなりカウンターがあった。手前に椅子が一脚置いてあり、奧に派手なアロハシャツの男性が腰かけていた。五十がらみだが頭部はきれいに髪がなく、見事な口ひげを生やし、眠たげな厚ぼったい目蓋をしている。男の背後にはパーティションがあるので、たぶん一部屋を応接スペースとオフィス部分に分けているのだろうと思った。

「ああ。確か三日前に、ここに入った奴がいたよ」

 わたしが質問すると不動産屋さんは、とある物件を示してくれた。本来は個人情報に当たるのだろうけど、あまり気にした風はない。それにわたしも、調べるために小細工をしていた。

「ちょっとお伺いしたいことがあります。わたくし、ヴィクトリア市認可私立捜査会社〈フタムラ・インベスティゲーション〉の者です……」

 この口上とともに、立て板に水のような早口で名乗り、とりわけ、"認可私立"のところは相手が聞き取りづらいようにしゃべるのだ。学生証を、それっぽい黒革のケースに入れてかざすことも忘れない。相手が〈なにやら市から公認されている調査機関〉と思ってくれれば、いろいろ教えてもらいやすい。あとで追及された場合は、“私立”とだけ名乗ったと誤魔化すのだ。

 これは父譲りのテクニックだった。実際にはヴィクトリア市の探偵は認可制ではない。どころか年々、当局の規制対象となっている。まあ仮に認可制だとしても、高校生が持っているわけはないのだが。

 契約者の名前はホアンではなかった。だが教えてもらった見た目の特徴は、ヱミ夫人から聞いたとおりに近い。偽名を使っているのだろう。二十代前半で、中肉中背、浅黒い肌に黒髪。これだけだと決定打にとぼしいが、右腕の目立つ箇所に、下手くそな縫合の傷痕があったというので、間違いないと思われた。

 その物件は、夜市から数本の路地を入ったところのビルヂングだった。ひょろひょろと伸びた十二階建ての建物のうえの二つ、つまり十一階と十二階が住居スペースに当てられている。

「その入居者の方は、何か動物を飼っていますか?」

「知らんね。どう使おうとそいつの勝手だよ」

 わたしが客ではないと知って、店主は愛想笑いを引っ込めていた。それに、この不動産屋さんには、〈ペット可/不可〉という区分はないらしい。しかし店主のいうとおりで、たとえ禁止したところで、店子が鶏や犬を持ち込むのはーー主に食料としてだがーー止めようがないのだった。應龍ではペットと食材の境界は曖昧だ。わたしのアパルトマンの下の階に住んでいる年配女性は、赤犬を可愛がっているが、いざとなったら美味しくいただくことをためらわないと云っていた。

「あんた、あのビルヂングに行くのかい?」

「何か問題があるんでしょうか?」

「お気に入りの服はやめておきな。ーーすごく汚れるから」

 案外と親切な忠告をしてくれた店主は、このアロハじゃ絶対に行かないよ、とつけ加えた。

 お気に入りだったようだ。

 

9、

 けっして〈有翼飛天〉を自分の手で取り戻そうなんて、思ってはいなかった。そこまで無謀のつもりはない。しかし突き止めた相手が探している人物なのか、あるいは求める〈有翼飛天〉がそこにいるのかは、最低限、確認せねばならないだろう。

 かねての腹案の通りわたしは、近所の二十四時間営業の店で、魯肉飯ルーローハンをテイクアウトした。それの入ったビニル袋を握って、くだんのビルヂングに侵入する。

 近隣住民向けのサービスで、周辺の店がビルの上階まで出前をする場合がたまにある。わたしは、アルバイトの女学生に見えるのを願って、伝票を片手に階段を上り始めた。コンクリートの階段は一部が割れて欠けており、危なっかしい。

 半分、上がったところで、親切な不動産屋さんの忠告の意味がわかった。七階の廊下は、びしょびしょに濡れていた。排水管が壊れて水漏れしているのだ。辺りには鼻が曲がりそうな汚水の臭いが立ちこめていて、壁も足下もヌルヌルとぬめっている。

 わたしはあらかじめ用意しておいたビニル傘をさして、汚水の雨を何とかやり過ごす。八階以上は濡れてこそいなかったが、壁や天井など建物のあちこちに亀裂が走っていて、やはり長居したい場所には思えない。

 さらに上って、十階に差しかかったときだった。

「わっ!!」

 突然の事態にわたしは転びそうになって、踊り場でたたらをふむ羽目になった。上の階から、物凄い勢いで駆け下りてくる男とすれ違ったのだ。不安定な体勢に傾いだので、ビニル傘は手から飛び、魯肉飯はこぼれる寸前だ。かなり慌てた様子の男は、鉢合わせたわたしを、壁に押しやるように乱暴にどけた。そして一目散に、ほとんど転げ落ちるように下っていった。

 一瞬の邂逅だったがわたしは、男に何となく見覚えがある気がして、反射的にあとを追いそうになる。誰だか、もっとよく確かめたい気がしたのだ。

 だが、すんでで思い直した。

 まずは、目の前の仕事を一つずつ片付けなければならない。ビニル傘を拾っただけで踵を返して、再び階級を上り始めた。

 十二階にある部屋は全部で四つだった。ペンキで塗られた合板の安っぽい扉が、左右に二つずつ並んでいる。扉に手書きで、部屋番号が殴り書きされていた。

 〈壱號室〉は左手の一番奥の部屋だった。前に立っただけでわたしは、押さえきれないほどの動悸を覚えた。この中にホアンさんが、ガビがいるのだろうか。

 深呼吸をひとつ。

 できるだけ、ゆっくりと息を吐き出す。

 覚悟を決めて、ノックをする。

「すみません。出前をお持ちしましたーー」

 ちょっと声が上ずった。その場でじっと待った。

 反応はなかった。

 耳をすますが、物音は聞こえてこない。室内からも、それ以外からも。

 表通りの喧騒が、控え目なBGMのように、ささやかに感じられる。

 もう一度ノックしたが、やはり何も起らない。わたしは緊張で汗ばんだ手で、ノブを握る。思いきって回してみた。抵抗なく回る。

 鍵はかかっていなかった。

 わたしの動悸は、さらに速く速くなる。

 そこから先は、夢の中の出来事のようだった。心が麻痺して、後から思い出しても現実感にとぼしい。

 蝶番が、軋るような叫びをあげる。ドアが開いた。

 中には短い廊下があって、右にトイレと台所が並んでいる。廊下の先は小さな部屋に続いている。

「すみません。いらっしゃいませんかーー」

 部屋には物が少なかった。衣装箪笥に姿見、四角いテーブルが一つずつ。テーブルの上に、空の鳥籠がぽつねんと置かれている。

 突き当たりの壁際に、剥き出しの骨組みにマットレスが乗っただけのベッドがあった。

 ベッドの上で、わだかまり、蠢いている物体がある。何かの塊が、ウヨウヨとさざ波のごとく動揺している。そこから、欠片が一つ分離した。分離した欠片は、重力を無視して部屋の真ん中へ飛び上がっていった。

 蝶々だった。

 パンケーキほどのおおきさもあるはねを羽ばたかせて、蝶がヒラヒラと天井に向けて浮遊していった。濡羽ぬればのような黒と、金青こんじょうとも深碧しんぺきとも云える金属的な光沢のはねに、目が吸い寄せられる。むかし図鑑で見た、世界最大の蝶アレクサンドラトリバネアゲハにちょっと似ている、と頭の一部が奇妙に冷静に判断していた。

 蝶は優雅に羽ばたき続け、天井に達すると、そのまま吸い込まれるように通り抜けていった。

 【幻生動物】だ。

 そう独りごちた瞬間、目にも鮮やかな、緑玉髄エメラルド蒼玉サファイアを取り混ぜたような色彩が、パッとわたしの視界を覆った。ベッドのうえにかたまっていた残りが、ぜたように一斉に吹き上がったのだった。

 おびただしい数でできた蝶の群れが、花嵐のように部屋中をぐるぐると渦巻く。盛大なショウを披露したそれは、拡散し、やがて天井や壁や床から飛び出して、消えていった。

 ほんの一瞬でそこは、何の変哲もない小部屋に戻った。

 魔法が解けたみたいに。

 そしてーー。

 蝶が去った場所、ベッドのうえに。

 冷たく動かない、男が横たわっていた。

 紫がかった顔面は醜く引き歪み、苦悶の形に開かれた口から、舌が垂れている。

 わたしは、魯肉飯のビニル袋を取り落とした。

 

10、

 通報してから約十五分後、第二十七分署のキム刑事とマクレイン警部補が、鑑識課員や写真班を率いてやってきた。キム刑事は二十代の小柄な東洋人青年で、マクレイン警部補は四十代くらいの白人男性。細いが釘を思わせる頑強そうな体つきをしている。

 二人は名前と階級を名乗ると、十二階の小狭いフロアに男たちがつめかけるなか、発見時の状況を聴取するため、わたしを分署に連れ出した。

 分署で通されたのは、取調室ではなく刑事部屋の応接スペースだった。

「では、あなたがあれを見つけたときの様子を、もう一度、詳しく教えてください」

 キム刑事は、記録用の動画撮影機材がきちんと動いているのを確認してから、尋ねた。

 わたしが口を開こうとしたタイミングで、警部補が入ってきた。その後ろに、のっそりとついているのは、コーリャ小父さんだ。

「おい、彼女は未成年だぞ。弁護人の立会いはどうした?」

 小父さんが、穏やかだがはっきりと難じるニュアンスをにじませ、詰め寄る。そしてわたしの脇に、主人を守る番犬みたく控えた。

「いや、あの、まだ事情を聞くだけの段階で……」

 若いキム刑事は、困ったような表情で口ごもった。マクレイン警部補が割って入った。

「おい、バクーニン所長どの。あんたのところは、未成年を調査に使っているのか?」

 警部補の気安い口調で、彼と小父さんが顔見知りなのがわかった。

「バカを云うな。彼女は友人の娘さんだ。ちょっと届け物を頼んだだけだよ」

「届け物ぉ? 本当だろうな?」

 警部補は疑わしそうな目で、わたしと小父さんを見比べた。

「何の届け物だ?」

「それはーー死体には関係ないから云う必要はない」

「何だと……」

 警部補が目をむく。

 わたしは内心、ヒヤヒヤしていた。実は警察に通報するより前に、コーリャ小父さんに電話をしていたのだ。そして小父さんに頼んで、あらかじめ口裏合わせしておいたのだった。

 小父さんに身元を保証してもらいつつ、あのビルに入り込んだ理由付けとして、「お使いで届け物をした」という作り話カバーストーリーをこしらえた。

 思いがけず亡骸を見つけて動転してしまい、とっさに連絡を取った結果だが、自分なりの姑息な計算もそこにはあった。

 わたしはまだ、仕事をあきらめられなかったのだ。庭師は見つけたものの、部屋に〈有翼飛天〉はいなかった。もちろん、とっくに逃げ出してしまったのかもしれないし、すでに売り払ってしまったあとなのかもしれない。だがいずれにしても、わたしは何一つ依頼をまっとうしていなかった。

 心の中で、もう一人の自分がしきりとわたしを嘲弄する。そらみろ、はじめから出来っこなんてなかったじゃないか、結局大人を頼っているじゃないか、と。でも強情で子どもっぽいわたしは、敗けを認めたくなかった。

「で、どんな風に見つけたんだい?」

 キム刑事が、わたしの横に立つコーリャ小父さんに、おっかなびっくり目をやりながら尋ねた。

 わたしは〈有翼飛天〉探しを省いて、建物に入ったときの様子を、思い出せる限りで詳しく話した。

「ふむ。その怪しい男について、もう少し思い出せるかね?」

 警部補は、わたしが階段ですれ違った男に、興味を引かれたようだった。確かにタイミングを考えれば、犯人である可能性は高い。

 ビルの店子で、あの時間に在宅していた人間はいないようだった。つまりすれ違った男は、庭師を訪ねてきた可能性が高い。わたしは、目をつむって何とか記憶を掘り起こした。

「濃いグレーのスラックスにサスペンダー、白い開襟シャツで帽子を被っていました。髪は黒でアジア系だったと思いますけど、顔の特徴までは思い出せません。身長は、その刑事さんくらいだと思います」

 わたしはキム刑事を指した。

「それだけ覚えていれば、大したもんだが……」

 マクレイン警部補は、うろんな視線をわたしに向けた。世の中には写真のような記憶力をほこる人がいるのは知っている。もちろんわたしに、そんな特別な能力があるわけではない。だがこの場合は別だった。やはりわたしは以前、男を見かけたことがあったのだ。

「被害者についての情報ならば提供できるぞ」

 小父さんが、刑事たちにホアンさんの身元を話しているあいだ、わたしは脳裏で自分の記憶を吟味していた。

 間違いない、と思う。

 すれ違った男は、依頼人のヱミ夫人を尾行していた男によく似ていた。

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