夜霧の森

雨月 史

森をぬけると

この世に終わりがあるとしたら、

それは彼という存在を失った時だろう。


あの日の続きは…

この一つの可能性の想像の下に

託されたのだ。



過信とは愚かな思い込みだ。

私は彼の事をいつも近くで見守り、

彼が失敗しそうな時はいつでも手を差し伸べきた。


会社で嫌な事があれば愚痴を聞き、

彼が、弱気な時は精一杯激励してきた。

出会った時から自尊心の弱かった彼。

いつも自信なさそうに背中を丸めて歩く彼、

それでも私はその彼の優しさに惹かれて一緒になったのだ。

なのに……。



「ちょっと会社から呼び出されて……明日仕事になってしまったんだ。なんかごめん。」


なんて事ない会話。でもその日の彼の態度はあきらかに違和感しか感じなかった。何が?と言われるとなんとなくだけど……なんというか…無駄に優しい。

問い詰めるつもりも、

カマをかけたつもりも無かった。

けれど……、



「本当に明日仕事なの?」



と聞くと諦めた顔で、



「違う。本当は元彼女もとかのに会う約束してた。」


と言った。

絶望の一句だ。


「そっか……。それは仕方がないよね。なんか混み合った相談でもあるのかな?あなたは優しい人だからね。それに嘘はつかない人だもんね。そうそう私、今から用事あるから……。あっ浮気は駄目だぞ!!それじゃー行くね。」



今から用事ってなんだ?もう21時を回っていた。こんな時間に用事なんてね。

目に一杯の涙をためて彼の顔をまともに見ずに家を飛び出した。

だから彼がその時どんな顔をしていたのか、

どんなリアクションだったのか、まるで覚えていない。とにかくこの場を離れて自分という存在を消してしまいたかった。



近くのコンビニでお酒を買うとあてもなく夜の街を彷徨った。

なるべく人気を避けて、人の温もりを感じる明かりのあるところを遠ざけた。

今いるところから少しでも遠くへ行こうと、無心で歩みを進めた。

少しだけ彼が追いかけて来てくれるかな?

という期待はあったけれど、

スマホすら鳴らない……、

というかスマホ忘れた。

あげくそのうち雨が降り出す始末。

何もかもどうでも良くなっているはずなのに、どうにか雨風を防げる場所を探した。


「あれ?こんなところに公園あったっけ?」


などと無駄な独り言を呟きながら、

その公園の東屋をみつけて一人座る。

片手にはさっきコンビニで買ったお酒。

飲めもしないくせにヤケになって

アルコールの高いハイボールを手にした。


「プシュ」


とプルトップを開くと歩く過程で程よく振られた発泡成分が顔に直撃して思わず苦笑する。



「お酒飲んだら勢いでこの池に飛び込んでやろうかしら?ふふふふ……ふぇーん……」



とようやく苦しみを声にだして

静かな公園の雨の月夜の中私は一人泣き叫んだのだ。


 

月夜の雨の音はシトシトと木々を濡らして降りしきる。それがむしろ辺りの静寂を強調するようでとても孤独を感じた。

ひとりだ。私はひとりぼっちだ。

こんな事……一応仲良し夫婦で通っていたのだから、友達はおろか、親にだって言えるはずがなかった。


その時何かが目の前を通った気がして顔を上げた。


?なにも無い……けれど昼間の熱気のあとの雨のせいかこんなに霧がかかってる……。

いや待てよ?ここは?

ここはいったいどこだ?

そして今はいったい何時なんだ?

スマホを置いて家を出るという失態をおかした為に全く時間の感覚も掴めない。

近く公園に逃げ込んだつもりが、

まるで深い森の奥に迷い込んだようだった。


その深い森の静寂は冷静さを取り戻すには

とても適した場所だった。けれど……

その深い森の静寂は心の不安をあおぐには十分すぎる場所だった。


細かい粒子状の雨が降り霧はまた深くなる。

そのまま何も出来ずに夜霧を見入って、

今までの彼と歩んできた軌跡を振り返り、

ますますと心の中の霧が深まる。


視界が2メートルに満たなくなった頃。

コツンコツンと誰かが近づく音がした。

一定の間隔で同じリズムでコツンコツンと

皮の靴の踵を落とす音が静かな森に鳴り響く。



「お嬢さんどうしたんだい?」



と男は突然目の前に現れて、

落ち着いた声でそう言った。

暗闇に映える真っ白なスーツでこんな雨の中傘もささずに紳士は私の前に佇んでいた。

あんなに静寂を恐怖と感じていたのに、

その紳士の優しく安心できる声にすっかり心を落ち着かせた。



「はい。少し道に迷ってしまって……。」



道に迷ったのはあながち嘘では無い。

この場所も心の拠り所にも迷い込んでいた。

とはいえ見知らぬ男に安心するなんて……。



「あなたはここがどういうところか知っているのかい?」


と、さも当然のように紳士は言った。



「どういうところ?」


まーわかってはいたけれどもね…というような表情で私に微笑みかけながら、

「おや…その様子ではやはり知らずに迷い込んだんだね。」



「どういう事ですか?」



紳士はそのまま私のところまであの一定のリズムを保ちながら歩いて来て、東屋のベンチに私とは少し距離を置いて腰をかけた。

そのまま二人で目を合わさずに同じ方向にし視線をやりながら紳士は言った。


「ここはね、といってね…迷い人が絶えない場所なんだ。」



「夜霧……森、へーだからこんなに霧深いのね。でも…迷い人?が絶えない?……。」



そのまま抑揚のない淡々とした、それでいて警戒させないような口調で続けた。

「そう。いま君の前には私しかいない。けれども君はここに来ていくつかの気配を感じたはずだよ。」



「気配?あっ?!」


そういえばさっき何かが通った気がした。

そのことだろうか?



「あー。確かにこの森は霧深い。けれどもそれはではなく、というものなんだ。」



「よぎり?」



「『不安が過ぎる』の過ぎりだよ。つまり君は今、何かに不安を感じ案じるが故に、

良からぬ考えが頭を過ぎったのではないのかい?」



「不安……そうね。全てを投げ出したくなる様な不安から逃げ出してきたわ。」



「うん。その不安が頭を過ぎる時、みんなこの森に迷い込むわけだ。それで君にはどんな不安が頭を過ぎったんだい?」



「どんな?うーん。そうね。信頼している者に裏切られて……。その理由を考えてた。

そしたらいろんな思いが頭の中を行き来したわ。それが過ぎりなのかしら?

①もしかして彼は私では満足してなかったのではないだろうか?②いやもしかして彼は私がとても鬱陶しくなったのかもしれない。

③いつも相談に乗ってるつもりが余計な事を言って傷つけていたかもしれない。

④激励のつもりが彼を追い詰めていたのかもしれない。∞私……わたしは彼に嫌われて……愛想尽かされて捨てられるのかもしれない……。」



それだけ言うと目から涙が大量に溢れ出してきた。



すると紳士は先程までの抑揚のない声から感情のこもった声で人生を語る様に話し始めた。


「お嬢さん。感情というものは溜め込むとよくないんだよ。それが心の中で黒い雨雲のように溜まっていく。それは人によってはシトシトと降る雨になりそれは人によっては雷を伴う嵐になるわけだ。今の様にね。夜霧というものはね、君が今流している涙と一緒でね、視界を奪うだろう?それはね一見、遠い未来を生き抜く為の広い価値観を閉ざされたような、そんな憂鬱な気持ちにさせるけれども、それは考え方によっては目の前の事に一生懸命になれるそういう目線で物を見られるようになると思わないかい?そうすれば自分の足元を見つめ直す事ができる。何と無く人生という道を歩いているのではなくて、どの様に生きていくか考える機会になる。つまり未来を見据える力は必要かもしれないけれど、足元を見直す時も必要だということなんだ。」



それでまたこの見知らぬ紳士の前でワンワン声をあげて泣いた。泣いて泣いて声が枯れるくらい泣いてそれで少しなんだかスッキリとした。



「よっぽど辛かったんだね。でもその涙忘れてはいけないよ。お嬢さんにはこの夜霧の森が必要だったのさ。人はみんな迷いながら生きているんだろう。迷えば迷うほど夜の闇を彷徨い、霧の中を手探りで歩こうとする。けれどもね君はまだ諦めてはいなあはずだ。

救いを求めている。だから今夜の雨雲は月を消さない。光を避けて霧にまみれても、その一筋ののぞみは忘れていないようだね。」



理屈的で頭に入って来にくいけれど、

言っている事が私を救う言葉だと感じられた。きっと私はそう言って欲しかったのだと思う。


「ところで君はその相手に真意を確認したのかい?」


「真意?」


「そうだよ。その君を追い詰めたは彼の本当の心の内なのかい?」



「そんなの聞き出す勇気ないわ。もし本当に彼が私を嫌っていたらどうして立ち直ればよいかわからないわ。」



「そう。君もわかってるじゃないか。その、可能性はなのだよ。だからそうじゃないかもしれない。」



「でも……。」



「真実は聞いてみないとわからないんだよ。このまま何も聞かなくても、昨日までの日常には戻れないんだよ。毎日、疑心暗鬼しながら、私は彼に嫌われないだろうか?私の何がいけなかったのだろうか?と自分を責めながら生きながらばならなくなる。ならばいっそな事……お嬢さん、君の心に立ち込めたわだかまりという視界を奪う夜霧を祓ってみたらどうだろうか?」




もっともな話だった。

もし私が彼との幸福な未来を求めるならば、

きっと現実を受け止めなければならない。

それがいかに残酷な現実でもだ。

それを受け入れなけれ未来なんてない。

絶望に打ちひしがれるか?

もしくは彼の気持ちを受け入れて

共に歩む人生の再構築を考えるか?

それ以外に私という存在を否定せずに生きられるすべなどないのだろう。

けれども少しだけ納得がいかない。

この紳士は先程、夜霧は自分の足元を見直す機会だと言っていた。それと今の言葉はどうしても一つの物として繋がらなかった。



「言っている事は納得できるけれども、あなたはさっき夜霧は足元を見直す良いチャンスだと言っていたわ。」



とたまらずに質問してみた。



「そうだね。まー人生なんてものは矛盾ばかりなものだよ。ある一方では良いと感じた事も、ある一方では悪意を感じる。それは聞き取り手の感じ方次第でしょう?さて、」



と紳士が口にした時、あんなに細かい粒子を撒き散らしていた雨はいつのまにか止んでいた。生温い風はやみ月の光が煌々と東屋を照らしていた。



「すっかり雨もやんでしまって、霧もいつの間にか、はれてしまったようだね。私にはこの光は眩しすぎるのでね。そろそろおいとまさせていただくよ。」



先程まで無表情にちっとも目も合わせずに物語を語る様に話していた紳士は、私の方をしっかり見つめてそして微笑みかけた。



「あなたはいったいどういう人なの?」



「人?人ではないかな。ただの通りすがりのちょっとお節介な男だよ。人は迷うとね、誰かに話したくなるんだ。わかってほしい、わかってもらいたい。自分の存在を認めてほしいとね。けれども忘れてはいけない。

自分という存在を決めるのはいつも自分であるということをね……さーお嬢さん君のお迎えが来たみたいだよ。そろそろこの森を出なくちゃね。」



「お迎え?」


「さー新しい君の為に私は行くよ。」


そう言って紳士は立ち上がった。

それからまたカツンカツンと音を立てて森の奥へ消えていった。私はそれを追いかける事もできず、ただ呆然と見送っていた。

そして……






「違う。本当は元彼女もとかのに会う約束してた。」


!!!!


いったいどういう事?

たった今ボーと紳士を見送ったはずだったのに、私の目の前には彼がいた。



「え?」


慌てて反射的に後退りした。

なんだか良くわからないけど、

おそらくこれはあの時だ。

彼は私と目を合わせない。



……そうか。

いま私は夜霧の森を抜けたのだ。

広大に広がるネガティブな過ぎりの中の、

雨夜を照らす一縷の光に照らされて

今足元を見直す機会を与えられたのだろう。


彼の顔を…表情を見つめた。

不安にかられた、何かに怯えた、

そして深く理解を求める。

そんな表情に感じられた。

なんだかゆっくりと顔を見るのは

久しぶりに思えた。



「どうしたの?ひどい顔してる。なんでも一人で抱えて……あっいやまた私わかった気でいるのかもね……。」



「え?いや……あの…。」



「あなたの話を聞かせて……。私たまには黙ってあなたの話を聞くわ。」



私の過ぎりは……。

いやそもそもとは、

何か不安が生じると起きるのかもしれない。



「俺……君とどう向き合っていいのかわからなくなって……それで。」



私は彼の本音を聞くのが怖くて、

それでいつも彼とは向き合わずに過ごしてきたのかもしれない。


夜霧の森の紳士は言った。



『つまり未来を見据える力は必要かもしれないけれど、足元を見直す時も必要だということなんだ。』



私は今……いや……。

私たちは今、未来を見据える為に、

足元を見直す時なのかもしれない。



夜霧の森をぬけるとその先はいったい何があるのだろうか?


それはハッピーエンドとはかぎらない。

本当の事を知る事は

全ての終わりじゃないから。




夜霧の森をぬけるとその先はいったいなにがあるのだろうか?


それは……

その先は……彼を受け入れて……。

それからこの一つの可能性の想像の下に

託されたのだ。





          end

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夜霧の森 雨月 史 @9490002

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