第二章 自衛のための下準備(1)

 翌朝、俺はセシルを伴って、朝食の場に顔を出した。

 父であるヘルマンは、公爵というだけあって忙しい人間で、こういう食事の場くらいしか顔を合わせることができない。

 もちろんその場には家族全員揃うので、調査の進捗を尋ねるにはちょうどいい場であった。

 食堂に顔を出した俺を見て、セラの母親であるノーラは一瞬で硬直した。

「セラ、その、か、かか、か――」

「髪ですか? 邪魔になるので切りました」

 俺に実感はないが、一応彼女はセラの母親だという知識はあるので、できるだけ丁寧な口調を心掛けた。

 他にも所作に関しても注意していたので、特に失礼に当たる要素はないはずだ。

「髪、そんな簡単に――女の命なのに……ふぅ」

 まるで溜め息のような声を漏らし、糸が切れた操り人形のように横倒しに倒れる。

「お母様⁉」

「母上⁉」

「ノーラ!」

 急に倒れた母親を、長男のリチャードがとっさに滑り込んで支えた。

 ノーラというのが母親の名前らしい。これは俺の脳内にあるセラの知識とも合致した。

 その母親が急に倒れたのだから、日頃冷静なリチャードが慌てふためいてスライディングキャッチを試みたのも、理解できる。

「よく間に合いましたね」

「セラ、お前は……いや、いい」

 感心した俺の声に、誰のせいだと言わんばかりの視線をこちらに向けてくるリチャード。

 タイミング的に明らかに俺のせいだというのは分かるが、本当にここまでショックを受けるとは思わなかった。

 男の俺には理解できない価値観が、ここにはあるらしい。

「とにかく医者を早くここへ。頭は打っていないはずだからおそらくショックによるものだと思うが」

「承知いたしました」

 リチャードの指示に、てきぱきと対応する使用人たち。

 そこに怪しげな態度を取る者はいない。しかし念には念を入れておく必要がある。

 セラを殺し損ねたと知った敵が、次はノーラを狙わないとも限らない。

「セシル、あなたも一緒に行って様子を見てあげて」

「はい、お嬢様」

 現状、セシル以上に信頼できる人間は、他にいない。

 彼女がそばで監視してくれていれば、敵も無茶な行動はしない……と思いたい。同じ状況で毒殺されかけたセラという例もあるので、完全には安心はできないが。

 駆け付けた医師がざっと様子を見て、問題ないと診断したので、改めて俺たちは食卓に着く。

 パンに卵にサラダというオーソドックスなメニュー。それぞれの品質は高いが、公爵という地位の朝食としてみれば、質素かもしれない。

「それでセラ。なぜ髪を切ったのだ? それでは、その……」

「そうだぞ、せっかく綺麗な髪だったのに」

 口籠もるヘルマンを見て、俺は即座に言いたいことを理解した。ちなみにヘルマンの後に次いで非難の声を上げたのは、アントニオだ。

 彼もどうやら、セラの髪を気に入っていたらしい。

 そしてヘルマンは、第三王子との婚約について危惧しているらしかった。

 この世界で、髪が女性の美しさの基準の一つだとすれば、確かにその危惧は理解できる。

 しかし今は、それよりも生き延びることが先決だ。

「お父様、髪はいずれ伸びます。今はそれよりも、己の身を守ることが大事と思い、髪を切りました」

「髪を切ることと身を守ることがどう繋がるのだ?」

 ヘルマンの疑問ももっともだと思い、俺は詳しく説明することにした。

「私もいつまでも部屋に籠もっているわけにもいきません。ましてや、このまま籠もっていれば毒殺の噂が自然と広まってしまいます」

「確かにな。外で倒れたおかげで目撃者も多い。使用人たちには口外しないように命じておいたが、それとて万全とは言えぬ」

「たとえ死を免れたとしても、その後部屋に籠りっきりとあっては、公爵家の名に傷が付きましょう」

「む……」

 暗殺者に怯え、部屋に籠もってしまったというのは、公爵としてはいささか外聞が悪い。

 下手をすれば、暗殺者に屈したと取られてもおかしくはなかった。

 そういった思惑があるからこそ、俺がこうして部屋から出てくることができたわけである。

「こうして人前に出る以上、また狙ってくるかもしれません。その時、美しくはあれど長い髪はむしろ邪魔になります」

「確かに髪を掴まれたりすれば、それだけで動きを阻害されかねないな」

「アントニオ兄さんはさすがに分かってますね」

「騎士たちの中にも、それが理由で髪を短くしている者たちはいるからな。でも、もったいない」

 いかにも惜しいと言わんばかりの視線を俺に向けてくる。

 とはいえ、アントニオの理解を得られたのは大きい。彼はこの家で随一の武闘派だ。

 こと武力面に関してならば、彼の言葉はヘルマンにも影響を及ぼす。

「分かった。そういう理由なら納得もしよう」

「それといくつかお願いがあるのですが?」

「お願い? お前のお願いというのは珍しいな。言ってみなさい」

 日頃厳しく自分を律しているセラは、我がままというのをほとんど言わない。

 それだけに親バカな面があるヘルマンは、少し物寂しい気分を味わっていたようだった。

「はい。寝込んでいた間に身体が弱ってしまったこともありますし、自衛のために護身の武術を学びとうございます」

「護身術を?」

「はい。騎士たちに指南していただければと。アントニオ兄さんでは、甘さが出てしまうと思いますので」

 自他共に認める脳筋のアントニオが先に名乗り出ないよう、ちらりと視線を向けて牽制する。

 それを察して、彼は『してやられた』という顔で頭を掻いていた。

「し、しかし……騎士たちに交じって訓練となると、セラにはあまりに過酷なのでは?」

「むしろアントニオ兄さんでは加減が分からず、俺――ゴホン、私の方が壊れてしまいます」

「うむ、納得。許可しよう」

「ちょっと、父上⁉」

 自他共に脳筋を認める兄の猛特訓を想像して、あっさりと手の平を返すヘルマン。

 武人ではあるがお調子者で、やや軽薄な面もあるアントニオに、女性を鍛えるという重責を負わせるのはさすがに怖かったのだろう。

「そういうわけで兄さん、基本的な訓練だけでも構いませんから、騎士たちに話を通していただけませんか?」

「まぁ、セラがどうしてもと言うならかまわないけど、無茶はするなよ?」

「もちろんです。自分が病み上がりであることを忘れたりしません」

 神妙な顔でそう告げて、俺は食事を進めることにした。

 ノーラがいなくなってしまったとはいえ、その容態は一過性のもので心配には及ばない。

 それぞれが安心して食事することになったのだが、俺の会話は弾まなかった。

 なにせセラの知識はあれど、それが身になっていない状態である。

 髪のこともあるが、変な行動を取ってボロが出ないかと冷や冷やしていたからである。


 再び自室に戻った俺は、セシルを呼び出していくつかの品物や情報を集めるように指示した。

 どうやらノーラに毒を盛ろうとした者もいなかったようで、屋敷の中は平穏そのものである。

「お呼びですか、リンドーさん」

「うん、服の方は準備できた?」

「はい、動きやすい服ですね。すでに用意しております」

「それと、街に出た時に錬金術師の情報を集めて欲しい」

「錬金術師、ですか?」

「そう」

 この世界には魔術というものが存在し、非常に便利に使われているらしい。

 その影響か、科学的な道具に関しては非常に進歩が遅れており、刑事時代に使っていた道具類が存在していない。

 護身ということになれば、拳銃の一つも身に着けておきたかった。

 そこでこの世界の科学者ともいうべき錬金術師に、銃を作ってもらおうと考えていたのである。

「けんじゅー?」

「それに関しては、錬金術師に直接話すから、その時にでも。他にも相手を拘束する手錠や望遠鏡、会話を録音するレコーダーやカメラなんかも欲しい」

「すみません、聞いたことない道具ばかりなんですけど……」

「ま、そうだろうね。全部俺の故郷の道具だから」

 それぞれの仕組みに知悉しているわけではないので、ごまかすように大雑把に伝えた。

 セシルに訝しまれるのは重々承知の上だが、少なくとも手錠――拘束道具は必要になるだろう。

 セラの知識では、この世界の命は軽い。犯人を見付けたとしても、開き直られて襲い掛かられる可能性は非常に高い。

 見付けたら、その場で相手を制圧し、身柄を拘束する必要があるはずだ。

 そのために手錠と、身を守るための武器――相手にとって未知の武器である拳銃は必要になるだろう。

「まぁそんなわけで、いくつかの道具を作ってもらいたいから、腕のいい錬金術師と繋ぎを取りたい」

「つなぎ……?」

「えっと、面識を持ちたい?」

「ああ、そういう意味ですか」

 納得したという顔で、セシルは手帳を取り出してメモを取る。

 さらに酒場など情報を聞き出せそうな場所も聞き出しておく。

「それで、どんな服を用意したのかな?」

「あ、はい。こちらに」

 セシルは侍女服の懐から一着の服を取り出す。懐にはどう考えても入らない容量に、俺は思わずぽかんと口を開く。

「それ、どうなってるの?」

「え? ああ。これは庶民がよく着ている貫頭衣で、腰の横で紐を結んで固定する服です。これに半ズボンを合わせれば、動きやすくて風通しのいい服になりますよ」

「いや、聞きたいのはそっちじゃ……まあいいか。なるほどね、ちょっと横が気になるけど、動きやすそう。これなら騎士たちの訓練でも問題ないかな」

「はい、訓練ですね。じゃあ早速着替えてきます!」

「うん……ん?」

 セシルは取り出した服を置いて、部屋を飛び出していった。

 というか、何でセシルが飛び出していくんだと疑問に思いながらも、残された服に着替える。

 そして騎士たちが訓練している屋敷の外庭に向かっていった。

 俺から一歩遅れて、セシルも追い付いてきた。

 どうやら、俺と同じ服に着替えていたらしく、貫頭衣に半ズボンというスタイルだ。

「あれ、セシルも訓練を受けるの?」

「はい……え、お嬢様⁉」

 セシルは俺の格好に驚きの声を上げる。

「なんでリンドーさんがそんな恰好を⁉」

「いや、騎士の訓練を受けるためだけど?」

「それは私の役目なんじゃ?」

「なんで?」

「だって、お嬢様を守るために、騎士の訓練を受けろって意味だったのでは?」

 どうやらセシルは自分が護身術を学ぶため、俺が運動服を用意させたと思っていたようだ。

 ならなぜセラの部屋に運動服を置いていったのかと聞きたいが、彼女のことだからきっと慌てていたんだろう。

 それくらい彼女はこの訓練に興奮していた。

「まぁ、騎士と訓練と聞いたら喜ぶかな?」

「そ、そんなことありませんよ! 私はお嬢様を守るための訓練を受けられることが嬉しかっただけで……」

「はいはい」

 この世界で、騎士といえば花形職業だ。もちろん侍女だって、悪い職業ではないが、セシルくらいの年頃の少女なら、騎士に憧れはあるはず。

 カッコいい騎士様とお近付きになれるチャンスとか、考えているのかもしれない。

 セシルは必死に言い訳しているが、先ほどの勢いをごまかせるはずもなかった。

 そんな子供っぽい慌て方に苦笑を漏らしながら、俺は騎士たちが訓練している場所を目指す。

 セシルもそんな俺の後ろについて歩くが、どうもその足取りが少しおかしい。

「あの、リンドーさん。その服装はやめません?」

「なんで? セシルが用意してくれた服だろう?」

「私が着ると思っていたから、それを用意したわけで……」

 そういえば、今朝騎士の訓練に参加する許可を貰った時、セシルは席を外していたっけ。俺本人が参加するとは思っていなかったらしい。

「別に同じでも問題ないだろ」

「大ありですよ⁉」

 悲鳴のような声を上げるセシルに、進行方向で準備運動をしていた騎士たちがこちらに気付く。

 話を通してもらっていたからか、最初はやっと来たかという顔でこちらを見るが、俺を見てギョッとした顔をする。

「セ、セラ様、その服……いえ、髪が……⁉」

「動きやすそうでしょ。セシルが整えてくれたんだ。服もね。ところで話は聞いてるかな?」

「は、はい」

 騎士隊長らしき男は、こちらに恐る恐るといった風情で話しかけてくる。

 その視線は俺の胸元や腰の辺りに向かっていた。

 なるほど、確かにこの世界の女性としては、かなり露出の多い格好だからな。

 とはいえ、ドレスを着たまま訓練なんてできるはずがない。

「まぁ、そこはそのうち慣れるでしょ」

「な、慣れるでしょうかね?」

「ともかく、最初は何をすればいいのかな?」

「あ、はい。激しい運動をすることになるので、まずは身体を解してください」

「ふむ、準備運動ね」

 俺の言葉にセシルはまた首を傾げていたが、俺が準備運動の重要性を詳しく教えてやる。

 それを聞いて感心するような視線を向けてくるが、この子のこの視線は、少し癖になる。

 なんだか自分が凄く頭のいい人間になった気分になって、非常に危ない。

 あと純粋な尊敬の視線に、少しばかり心が痛かった。

「じゃ、セシル。お願い」

「はい」

 セシルに柔軟の補助を頼み、俺は準備運動を開始した。

 地面に直接座って前屈を始め、その背中をセシルが押してくれる。彼女も二度目なので、今回は戸惑いは見られない。

 加減してこちらに合わせてくれるセシルの補助を受けて身体を起こした時、なぜか騎士が数名姿を消していることに気付いた。

「あれ、他の者は?」

「セラ様、それを聞くのは酷でございます」

 隊長らしき騎士が恭しくも若干迷惑そうにそう告げてきた。

 年配の彼は平然と対応していたが、他の若手たちはどこか前のめりな姿勢だ。

「ひょっとして、他の騎士たちは体調が悪いのですか?」

「リン……お嬢様、その辺で。騎士様、私たちは少し離れたところに移動しますね」

「そうしてくれるとありがたい」

 背後に視線を向けると、セシルは胸元を押さえるようなポーズで身をよじっていた。

 そのポーズを見て、俺は事態を悟る。

 確かにこの服装では、脇が無防備だ。前屈などで身体を前に倒すと、特に危険な場所がよく見えるだろう。

 体格が小さく、服の隙間が多いセシルは特に丸見えになっていたかもしれない。

「なるほど。これは迂闊だった」

「お嬢様はそういう面で無防備ですから」

 というか、男だった俺にそういう羞恥心はない。急に女性らしく振る舞えと言われても、戸惑うのは理解して欲しい。

 もっともセラを信奉するセシルにとっては、現状自体が納得できないものだと思うと、気持ちも理解できなくはない。

 しかし騎士たちはセシルの言葉に納得したのか、大きく頷いていた。

 公爵令嬢のセラの羞恥心の薄さは納得できるものなのかもしれない。

 少し離れた場所で柔軟を終え、次に背筋を伸ばす運動に入る。

 セシルと背中合わせで腕を組み、互いの背に乗るようにして背中を伸ばす。

 しかしこれは予想以上に恥ずかしかった。

 背中を伸ばすことで胸が異常に強調されてしまう。しかも俺は下着らしき物は着けていなかったので、その形が露骨に浮き出てしまっていた。

「セ、セシル。これはさすがに!」

「え?」

 慌ててセシルの背から飛び降り、逆にセシルを背中に乗せるように、身体を前に倒す。

 すると今度はセシルが俺の背に乗る形になり、彼女の胸が強調される。

 小柄で幼い彼女は胸の膨らみもそれほどではないが、それでもしっかりと存在している。

 俺よりはマシとはいえ、服を引っ張られることでその形が浮き出て……そして服が横にずれた。

「ひゃわあぁぁぁぁぁっ⁉」

 しかし背中のことなど、俺には分かるはずもない。暴れているのは先ほどの俺と同じ状況だと思い込み、暴れる手をしっかりと押さえ込む。

「さっきの俺の恥ずかしさが分かったか」

「ち、違います、違いますからぁ!」

「反省の言葉がないようだな」

「やめてぇぇぇぇ!」

 あまりに悲痛な声に、俺はセシルを解放してやる。

 コロンと背中から転がり落ち、ずれた服を両腕で隠すセシルを見て、俺はようやく事態を把握した。

「……あ」

「ふえぇぇぇぇん」

 見ると騎士たちも動きを止め、こちらをしっかりと凝視していた。

 そして再び、数名がトイレと言って離脱していく。

 うん、幼いとはいえ、セシルも美少女だから仕方ないよな。距離が離れていたことがせめてもの救いか?

「あー、その、ごめん?」

「リンドーさんのバカァ!」

「いや、ここで俺の名前を呼ばないで⁉」

 距離が離れているので、何のことか分からないとは思うが、それでも名前を出すのは慎重を期して欲しい。

 しかたないので彼女の頭を抱き寄せ、撫でて落ち着かせる。

「ごめんごめん、俺が悪かったよ。よしよし」

「子供扱いしないでください」

 泣きながらも俺に抱き着き、グリグリと顔を押し付けてくる。

 そのたびに今度は俺の服がずれそうになるので、さすがに騎士たちに背中を向けて隠しておいた。

「うぅ、すみません、取り乱してしまいました」

 しばらくして泣き止んだセシルは、俺に向けて頭を下げてきた。

 さすがにこれは俺の方が悪いと思ったので、謝罪は拒否しておく。

「いや、俺の方が悪かったから」

「仮にもリンドーさんはお嬢様の身代わりなのに、失礼な態度を取ってしまいました」

「身代わりというところに、ちょっと不本意な気持ちになるが……」

 ともあれ、このままではせっかく解した身体が固まってしまう。

 俺はごまかすように隊長に声をかけて指示を乞う。

「次は何をすればいいかな?」

「あ、はい。次は基礎体力を付けるためにランニングですね。この敷地の外を三周です」

「三周……」

 ウィマー公爵家の屋敷の土地はその名にふさわしい広さがある。

 その周囲を三周となれば、距離は軽く二十キロを超えてくる。

 運動前のランニングにそれだけ体力を使うとは、この世界の人間を異常だと感じてしまう。

 聞いたところによると、この基礎体力作りだけで二時間近く使うらしい。

 マラソン選手よりスピードは断然遅いのだが、それを毎日となるとこれはとんでもない。

 この世界の人間の体力を甘く見ていたかもしれない。

「リンド――お嬢様、大丈夫です?」

「自分で言い出したことだからね。頑張ってみるよ」

 そう言って走り出した騎士たちの後ろについて、俺たちも走り出す。

 最初は軽快に、そして次第にヘロヘロに。

 俺はどうやら、セラの体力のなさを甘く見ていたらしい。

 瞬く間に体力を失い、ぐらぐら揺れながら走る羽目になった。

「ひゅー、ひゅーっ……」

「リンドーさん、少しお休みになられては?」

「いや、も少し頑張るから」

「見るからに限界なんですけど」

「ごめん、実はもう無理」

 意地を張ったのも一瞬だけで、すぐにその場にへたり込んでしまった。

 考えてみればセラは深窓のご令嬢。ランニングなんて、したこともないに違いない。

 そんな身体で、いきなり騎士たちについていこうなんて、土台無理な話だった。

「セシルも先に行っていいよ」

「いや、リンドーさんをこんな場所に放置できるはずないじゃないですか。御自分の立場をお忘れですか?」

「そうだった」

 今俺……というかセラは、命を狙われている立場にある。

 こんな場所でへたり込んでいたら、狙ってくれと言わんばかりだ。

「屋敷に戻るけど、一人じゃちょっと」

「分かってますよ。肩をお貸ししますから、掴まってください」

 セシルの身長はセラよりも低く、肩の位置が体重をかけるのにちょうどいい高さにあった。

 それを良いことに、俺はかなり彼女に寄りかかっていたのだが、セシルは全く意に介さず、ぐいぐい進んでいく。

「セシルって意外と体力あるな」

「そりゃ、侍女ですから。この仕事は体力勝負な面もありますし」

「その歳でこれだけ動けるのだから、尊敬するよ」

「何言ってるんですか」

 屋敷に戻る俺たちとすれ違うように、騎士たちがやってきた。

 もう一周回ってきたのかと思うと、驚愕する。

「早過ぎないか?」

「多分、身体強化の魔術を使ってるんですよ」

「身体強化?」

 セシルの説明によると、魔術の一種で身体能力を大きく引き上げるものらしい。

 この世界の魔術は主にエネルギーの操作によるものが主流らしく、身体強化は騎士ならばほぼ習得している魔術だとか。

 セシルも仕事柄、この魔術は習得しているらしく、常に軽くこの魔術を発動させて働くこともできるという話だった。

「いや、凄いな、魔法」

「魔法は違いますよ。あれは物理法則を無視したトンデモ現象のことを指します」

「トンデモ現象?」

「瞬間移動とか空間転移とか、物質生成とか変身とか?」

「物質生成って……セシルたちも水を作る魔術が使えるじゃない?」

 夜中にトイレに行った時に、手を洗うために魔術で水を作ってもらったことがあった。

 その時は暗くてそれほど不思議に思わなかったが、今考えると水瓶もないのに水があったのは、きっと魔術で作ったに違いない。

「あれは空気中の水分を掻き集めてるんですよ。無制限に出せるわけじゃないです」

「そうなんだ?」

「街中だと頻繁に使われますから、空気が乾燥してるんですよね。だから水を作る魔術も効果が薄くなります」

「へぇ……」

「なので井戸や水源の存在は、結局必要になるんですよ」

「なるほどなぁ」

 魔術と言っても、万能ではないらしい。

 とはいえ簡単な魔術なら一般市民でも使えるらしいので、この世界で科学が進化していないのは魔術の影響もあるのだろう。

 どうも火薬や燃料の代わりに魔術による熱量操作が一般化しているため、その辺りが特に遅れているっぽい。

「それで銃がないのか。剣が主流になっているわけだ」

「ジュウっていうのがよく分からないですけど、弓や魔術による砲撃もありますよ」

「セシルも使える?」

 あわよくば、セシルから魔術を学ぼうと考えて問うてみたのだが、彼女は残念そうに首を振った。

「残念ながら、私は身体強化に特化してるみたいなんです」

「そうなのか」

「でもすごい騎士さまとか、魔術師さまなんかは、大きな岩を吹き飛ばすくらいの魔術が使えるそうですよ」

「なるほどね。そういった人材が大砲の代わりになるのか」

 世界が変われば戦争の様相も変わってくる。この世界では魔術師の砲撃、矢、そして騎兵という順番で接敵し戦うらしい。

 もしそんな相手に命を狙われたらと思うと、ぞっとする。

「砲撃とかどうやって防げばいいんだか……」

「防御用の魔術もありますけど、効率が良くないっぽいですね」

 魔術による火の玉や石礫などが飛んでくる場合、魔術でそのエネルギーを霧散させるフィールドを張ることで、防御することができるらしい。

 しかしそれを展開する場合は、常時展開する必要があるため、魔力の消耗が激しい。

 結局のところ、盾などで防ぐ場面が多くなるようだった。

「まぁ、身体強化だけでも充分強力な魔術だよな。それ教えてくれないか?」

「いいですけど、専門の人に聞いた方がいいんじゃないですかね?」

「なんで? セシルが教えてくれるなら、そっちの方が楽だろう?」

 分からない時はすぐに聞くことができる。その手軽さは非常にありがたいはずだ。

 しかしセシルは難しい顔をしたまま、俺に答える。

「どうも私は、感覚的に魔術を使っているらしくて、教えるのに向いていないそうなんですよ」

「そうなのか?」

「身体強化魔術のレベル自体は天才的、だそうなんですけど」

「あー、あるなぁ、そういうこと」

 スポーツ選手などでも、優れた選手が優れた指導者になれないことは多い。

 そういった人材は感覚的に最適な行動を取れてしまうため、言葉で説明できないことが多いのだそうだ。

 きっとセシルも、そういった類の人物なのだろう。

「それにセラ様は魔術があまり得意ではないようでしたし」

「ふーん、意外と苦手なことが多かったんだな」

「それ以上に優れたところも多かった方ですから!」

 俺がセラのポンコツぶりを指摘すると、セシルが目を吊り上げて反論してきた。

 まぁ、彼女のセラへの心酔ぶりを見るに、この反応は想定内だ。

「それはそれとして、次は何するんだろうな?」

「まだ続けるつもりですか、準備運動の段階でリタイアしたのに」

「やかましい。やると言ったらやるんだよ」

 体力は無理でも、せめて技だけでも習得したいと考えていた。

 この世界の技は実践によって磨かれたもののはずだ。スポーツ化しつつある日本の武道とは一線を画すものがあるはずだった。

 俺も警察に入ってから剣道や逮捕術を学んでいただけに、そういった面では期待していた。

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