幕末陰陽傳 マヨイガ

猛士

第1話 忘蕩香


 最初に鼻をくすぐったのは、甘い花の香りだった。


 濃密で絡みつくような、どろりとしたその匂いは、蠱惑的でありどこか懐かしかった。

 はて――と、まだ醒めぬ頭を働かせる。


 思い出せぬ。だが、とても馴染みがある芳香だった。

 自分はこの匂いを日常的に嗅いでいた――はずだ。

 思い出そうとして、無意識に顔をしかめた時だった。肉がつられたのだろう。首筋から肩口の辺りに、鋭い痛みが走った。

 それで、眼が覚めた。


 最初に飛び込んできたのは、苦痛に顔を歪める人の顔だった。

 一瞬――息を詰まらせるが、すぐに違うことに気が付いた。

 それは薄暗い部屋の天井に出来た染みだった。

 古びた木目の天井が薄汚れ、染みができたところが人の顔に見えたのだ。

 ほっ――と、安堵に息を吐くと、今度は頭が痛んだ。きりきりと、金輪で締め付けられるような痛みは、酒を呑みすぎた翌朝のあれに似ていた。


 ――どこだ、ここは。

 思い出せない。


 そもそも、自分は何者だ?

 まるで頭の中に霧がかかったように、なにも思い出せなかった。


 ――と、何かを叩くような小気味の良い音が聞こえた。

 そして、花の香とは違う芳しい匂い――味噌の煮える匂いだ。

 痛みを堪えながら身体を起こす。


 布団が落ちると、埃の臭いがした。

 薄暗い部屋だった。

 障子の向こうが、微かに明るい。

 外が曇っているのか。あるいは明け方近くなのだろうか。

 部屋を見渡せば、自分が寝ていた布団以外なにもない。

 ただ、かび臭いような部屋の中に、旨そうな味噌の香りが混じっている。

 ずきり――と痛みをおぼえる肩口には、さらしが巻かれている。

 誰かが手当てをしてくれたのだろう。

 怪我――だとすれば何故、自分は怪我などしているのだろうか。

 

 分からない。

 が、考えようとすると、頭が痛む。

 泥に浸かったように重い身体を支え、立ち上がろうとした時だった。


 音も無く、障子が開いた。

 どきり――と、心臓が高鳴る。

 気配も無く、床を踏む音もしなかった。


 否――気が付かなかっただけか。


「起こしてしまいましたか」


 しっとりとした声が、優しく言った。

 細面の、肌の色の白い女が、畏まっていた。


「お食事のご用意が出来ました」


 旦那様――と、紅を引いた唇が微笑んだ。

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