2章 存在の気持ち悪さ 久我山眉山
vs 名護崎勝也
「久我山さんじゃないですか」
「……ご無沙汰しております、
そう答えはしつつも、酷く不釣り合いな場所だなと思う。そもそも俺はこの場所が嫌いだ。忌々しい強風がせっかく整えた髪をバサバサと乱す。一日が無駄になる気分だ。こういう時は、青嵐の素で程よくくるくると巻いた毛が羨ましい。
嗚呼、駄目だ。嫌な気持ちになると心が不健康だ。よくないな。早く終わらせよう。目の前のこいつは俺を殺せるのか。きちんと。綺麗に。無理だな。
ぼうと突然現れた光の玉が照らしたのは、意外にも顔見知りだった。
俺はたまに異常死体の検死を頼まれる。たいていの若い医者は先輩に押し付けられて嫌々やるものだが、俺はそうでもない。体内の組織を研究するにはもってこいだ。どんな死に方をした場合、どんな体になるのか。それはとても大切なことだ。
そういった死体の解剖所見は往々にして裁判に用いられ、それに疑義がある場合は法廷に尋問に呼ばれるのだ。時折、この名護崎
名護崎は50代ほどの小太りの男で、キンキンと高い声でくだらない質問ばかりする。だいたいが、俺が出した結果が絶対か、それ以外に可能性がないかというものだ。心底下らない繰り返しだと思うが、それは名護崎の仕事だ。だから特に思うことはない。俺は唯、宣誓したとおり俺の良心に従い、真実を述べるだけだ。間違いなどない、と。
間違いなどあるはずがないだろ。俺が診たんだ。
他の医者は『絶対かどうか』を尋問された時、責任を回避するためにどんどん尻すぼみに意見を縮小していくそうだが、俺にとって俺の所見は絶対だ。それにこれまで間違えたこともない。全ての死体をキッチリと観察している。俺は誰に恥じることもない。けれどもこいつは自分が決めた結論に俺が意見を寄せないと不機嫌になる。そんなことがままあった。
だから……名護崎は俺が好きではないのだろうなとは思っていた。こうして対面していても、なんだか嫌な気分になる。
きっちりと背広を身にまとった名護崎を視線の端に収めながら気晴らしに周りを見渡した。あいも変わらず真っ暗闇だ。青嵐はここが八天閣だと言っていたが、俺にはわからない。山の稜線で判断できるほど、俺は自然に興味があるわけじゃない。
自然といえばまだ昼間は暑いのに、妙に身震いして落ち着かない。夜だから寒いのか。高所だから寒いのか。
……俺は結局、俺の使徒とやらの使い方はわからなかった。
あの忌々しい黒い丸は、うんともすんとも言わなかった。青嵐は折に触れて自らの使徒についてべらべらと話す。物体を作り上げる力。それはそれで神っぽいなと思うし、あの馬鹿によく似合う力なんだろうなとも思う。あいつは心底、自分がオンリィワンだと思っているから。
正直な所、興味ない。俺は俺の暮らしにそれなりに満足している。
だから元の暮らしに戻ればそれでいい。
……今はそんなことはどうでもいいか。無理らしいから。
どうでもいい。俺はこんなわけのわからないことに巻き込まれる前の平穏を取り戻したい。また、風が吹いた。不愉快な風だ。
「あの、久我山さん……?」
そういえばこいつと殺し合いをするんだったっけ。何故青嵐じゃなかったんだ。あいつならギリギリ信頼できたのに。
「はい」
「私もあなたも、戦うべきではありません。そうは思いませんか?」
「まあ、そうですね。けれども戦うらしいですよ」
「そう……ですね? けれども私もあなたも戦いだなんてそんな野蛮なことをしたくはないでしょう?」
野蛮……野蛮なのかな。俺は俺が傷つくのが嫌だ。けれども戦うとなれば、おそらく避けては通れまい。これが青嵐であれば……。
「久我山さん?」
「俺は……」
名護崎は一瞬、不満そうな顔をした。法廷でよく見た顔だ。
俺が名護崎の思う反応をしないからだろう。……反応?
けれども先程からのこの無駄な時間の経過が気に食わない。手首に触れれば、心なしか脈拍が上がっていた。落ち着け。深呼吸しよう。
「名護崎さんは何を仰りたいんですか」
名護崎はほっと溜息をついた、ように見えた。
「つまり、私たちが争わなければいけないのはこの不可解な事象からどうしょうもないとしても、いわゆる殴り合いなどによって勝敗をつけるのは避けたいのです。優れた我々が下民のような行いをするのはふさわしく有りません」
名護崎は誇るように述べる。
下民。最近大学で運動している奴らがよく言い合っている言葉だ。上級国民ではなく全ての階級が……何だっけな。どうでもいい。
そう。どうでもいい。俺にとって全ての人間は肉袋だ。同じような構造をしている。それは上級でも下級でもかわらない。
「久我山さん……?」
ああ、そうだ。名護崎と話をしているんだった。なんだか頭がうまく働かない。現実逃避でもしているんだろうか。
俺が?
……俺が?
「殴り合いは御免被ります」
殴っても殴られても、俺が痛むじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
「そうでしょう。そうでしょう。ですからちょっとしたゲームで勝敗を決めませんか。例えばトランプなどはいかがでしょう。平和裏に」
ゲーム? それであれば確かに体が傷つくことはない。
トランプは何が得意だっけ。ブラックジャックなら。
……いや、そもそも俺はこいつを信用できない。負ければ俺は死ぬ。俺がここで死んだら俺の死はどうなる。こいつが俺の体を適切に保管するか? そんな馬鹿な。
何か、おかしい。何故俺はここでこんなことをしている。不愉快だ。
俺はどうするかは決めていたじゃないか。青嵐以外に出会った場合、どうするか。
なぜだかその判断がすっかり抜け落ちていた。何故俺は悠長にこいつと話をしている。
顔を上げれば、名護崎がこちらの様子を伺っていた。呼吸が浅い。その表面に汗をかいている。そして……その表情は、尋問の時の俺を見るように苛立っていた。こいつは尋問が勧めばいつも俺にこんな視線を向ける。何故自分の言う通りに証言しないのか。そんな空気を漂わせながら、つまらないことを何度も尋ねる。
……何故だ?
今、俺と名護崎は客観的には比較友好的に会話をしている。緊張すべき場であるとしても、苛立つ必要はない。俺は名護崎の意見に反対していない。それを記憶の中で確認する。
そうするとやはりおかしい。全てにムカつく。
轟轟と俺を苛立たせる不愉快な風も、俺の体を冷やすこの冷気も。ああ何もかもが腹立たしい。いい加減、この不愉快な状況が許せなくなってきた。俺は快適でいなければならないんだ。
だから。だから俺は自分を信じる。もとより俺が信じるのは俺だ。糞。
「いいですね、トランプ。私はブラック・ジャックなら得意なんです」
「そうですか。ではそうしましょうか」
足を一歩踏み出す。小柄な男を見下ろす。名護崎が懐からおそらくトランプを出そうと俯いた隙を見計らい、ガスマスクを身に着け、懐から陸軍が開発途中のみどり筒を取り出して振って使用すれば、たちまちあたりは煙で包まれ、強風があっという間に煙を吹き飛ばしていった。直下の名護崎は床に倒れ、激しい嗚咽とともにうずくまり、痙攣を始めた。
「へえ。結構な効力だ」
先の大戦では多様な種の毒ガスが開発され、用いられた。ヴェルダン攻防戦ではフランス軍は
これらの華々しい効果に鑑み、本邦でも大戦後、遅ればせながら毒ガスの研究が開始された。このみどり筒は陸軍医の友人から暴徒鎮圧用のもので意見が聞きたいと言われてこっそりと譲り受けたもののうちの1つだ。クロロアセトフェノンを用いた催涙剤だ。その効果はなかなかのものだろう。
そして急に、霧が晴れるように頭の中が明瞭になった。苛つき任せてみどり剤を使って申し訳なかったかとわずかに思った。そしてこの急落の原因は、おそらく名護崎のせいだろうとあたりはついた。おそらく何かしていたのだろう。ひょっとしたら使徒のちからで俺に何かの働きかけをしていたのかもしれない。俺の意識に。
そう考えるとまたわずかに苛つく。
「あんた、俺に何をした」
そう問いかけても、名護崎は息も絶え絶えにうずくまり、痙攣するばかりだ。おそらく、応答する余裕もないのだろう。失敗したかもしれない。
記憶の中の友人は、水で洗い流せば症状はある程度は引くはずで、そして死に至ることはないと言っていた。
とすれば時間の無駄なのだ。死に至らしめる必要がある。どうせ殺さないとここから出られない。その意味でも、勢いに任せた選択だったと少し反省した。
「仕方がない。じゃあ、名護崎さん、さようなら」
俺の声も既にちっとも聞こえていなさそうだ。だからナイフを取り出し、名護崎を蹴飛ばして上を向かせて心臓を刺す。びくりびくりと名護崎は痙攣し、そしてやがて静かになった。
「……生きてる人間を死なせるのは初めてだな。どうも気分が悪い」
まるで失敗したみたいじゃないか。
先程ほどではなくとも、やはりこの風は好きになれない。
『久我山眉山さん、おめでとうございます』
唐突に玉から声がした。
「ありがとう。俺が嫌な気分になったのは、こいつの使徒のちからのせい?」
『そうです』
「使徒のちからってのは人によって違うもんなの?」
青嵐のちからとは随分毛色が違うように思う。
『はい。では次の新月にお会いしましょう』
急にクラリと目眩がして、次に目を開けた時、青嵐が俺をじっと見つめていた。少し顔色が悪い。
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