第二話
カウンターのみで、座席も多いとは言えないが、入店した客に安らぎを与えるアットホームで温かな雰囲気が、千里は幼い頃から好きだった。
「何だか寂しくなるわね………」
雅やかな花模様の着物を着た女将の
三十代後半には到底見えない若々しい美貌も兼ね備えた絹代の美しさは、外見だけでなく慎ましやかな内面にも上品に光り輝いている。若くして夫を亡くしてから女将一人で店を切り盛りしており、物心ついた頃から家族ぐるみの付き合いの千里にとっては、母親的存在だ。父が残業の時や、突然熱を出した時も、手厚く面倒を見てもらった優しい思い出に溢れている。
「すぐに会える距離ですよ」
千里は苦笑を浮かべて、だし巻き卵を一口かじった。この口に広がる出汁の優しい甘さが、病みつきなるのだ。思わず二口、三口と箸が進む。
豪快な食べっぷりに、絹代は満足気に微笑んだ。
「千里ちゃんも、寂しくなったらいつでも戻ってらっしゃい」
「ありがとうございます。絹代さんには胃袋も掴まれちゃってるので、たぶん飢えたらすぐにここに来てるかも」
絹代はくすくすと笑った。
「ここでゆっくりするのもいいけどね、お父さんも心配でたまらないはずよ。千里ちゃんから顔見せないと、たぶん千尋さん、新居に突撃しかねないわ」
「うわっ、それは嫌」
口の中は甘いのに、苦々しい表情になる。
「絹代さんもうちのモンスターの恐ろしさ、知ってるでしょっ! あんなのとずっと一緒にいたら婚期逃しておばあちゃんになっちゃう!」
まあ! と絹代は目を丸くさせた。
そろそろと近づき、少し小さな声で、
「千里ちゃん、好きな子でもできたの?」
と、大和撫子を絵に描いたような絹代から真顔で恋バナを囁かれ、千里はうぅ、と赤くなった。
「まだ、いないけど………」
うつむく眼差しでぶつぶつと呟く。
「お父さんと離れたら、絶対恋人ゲットしてやるし……」
まあまあ、としとやかに一驚された千里は、何だかむず痒そうに頬をかいた。
だけど絹代は、それ以上問い詰めることはなく、穏やかな笑みを見せる。
「そうね………千里ちゃんもお年頃だもの………」
「そうですよ、もう十八歳っ」
「何だかねぇ、娘が巣立つ親ってこんな気持ちなのかしら………私までしんみりしちゃう……」
「え………」
千里は目を瞠って、涙ぐんだ絹代をまじまじと見た。
「ほん、と?」
「え?」
「本当に………娘みたいって、思ってる、の?」
十八歳。数秒前にそう断言していた千里の今の顔は、まるで大人に問いかける幼子のようだった。
混じり気のない、無垢な眼差し。
そんな物珍しそうな視線をまっすぐと向けられ、絹代は満悦そうに微笑みながら、鷹揚と頷いた。
「もちろん。出会った時からずっと、千里ちゃんは、私にとって家族同然よ」
「か、ぞく……」
千里は頬を赤く染めて、意味深に呟く。
「千里ちゃん?」
絹代は不思議そうに首を傾げる。
千里は視線を曖昧に彷徨わせながら、弱々しく噛み締めた唇を、おそるおそる開いた。
「絹代さん………あのね」
「千里おおおおおおおおおおっ!!」
僅かな声を遮ったのは、乱暴に戸を開け猪突猛進した、父、千尋の雄叫びだった。
他の客はいないものの、カウンター
「お父さん!? 今日残業じゃなかったの!?」
「あと一週間で千里と離れちゃうんだぞぉぉぁ〜〜〜!! 仕事なんてやってられっかぁ〜〜〜!! もう飲みまくってやる〜〜〜!!」
いい年をこいて、ボロボロの作業着姿で駄々っ子みたいに号泣する父に、千里は最近で癖になったくらいのため息を吐いた。
絹代も苦々しい笑みをこぼしている。
「お
「はいはい、とにかく落ち着いて、座ってくださいね」
絹代に宥められるように、千尋はひっくひっくと咽び泣きながら、千里の隣の席に腰をかけた。
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