BOTTLE -存在証明-

BOTTLE-存在証明-

 今日も鏡子は7センチのピンヒールを履いて灰色のタイルの上を歩いていた。あの当時は少し奮発して買ったはずのピンヒールであるはずなのに、こんな味気ない場所ばかり歩かせてしまっている点、鏡子は少し申し訳なく思った。否、鏡子自身、ちゃんといっぱしの大人としてその贖罪は果たしたつもりであった。先日、すり切れて割れてしまったゴム底を、わざわざ靴屋にいって直してもらったのである。しかも、安いスタンダードのゴムではなく、割れにくく丈夫なものに。その結果、どんなに坂を駆け下りようが、地下鉄の駅の構内を早歩きで歩こうが、その衝撃を感じさせない、大人な、低く鈍い音を響かせることとなった。まるで7センチもあるピンヒールなんて履いてないような、そんな音であると鏡子は思った。

 東京メトロの駅構内は、他の駅構内よりも無駄に音が響く。微かに感じるアルコールとメントールは気のせいとは言わせない。音や香りというものはなんとも素直なやつで、これほどまでに何かが存在しているということを容易く証明してしまうものはないように鏡子は思った。人間が情報を得るときに一番使用しているのは眼だというが、光の差しようや脳の悪戯によって実際どうにでもなってしまうものだったりするのである。要するに、眼は正確な情報を得るために機能しているのではなく、今自分が見たい世界や取り巻いている状況をいち早く脳に伝えるために仕事をしているということだ。逆に言えば、双眼は存在をいちいち証明するために機能しているのではない。

 だから、証明という厳かな三角形においてはあまり当てにしてはならないのである。

 一方耳や鼻はどうだろうか。音は?香りは?

 それらは決して存在の有無を歪めたりしない。何かあるから音になり、香りとなって身体に入り込む。実際に、立て付けの悪い窓の隙間から吹く秋風の存在を知らしめるのは、その煩わしくも憎めないあの音であるし、先日生まれた姪っ子の生存の根拠は、その小さな胸に耳を当て、ミルクくさい息の音に耳をすませた先にあった。また、昨年祖父が亡くなった際にも、葬式場にひたすらお経が響くまでは死んでいるなんて信じられなかった。いつか、自身の部屋から消え失せた煙草の香りが、愛した人の不存在を証明したのである。



 仄暗い箱に、わたしの存在が無機質に響き渡る。

 ほんと、こんな音で響くくらいならいっそ私なんて消えてなくなって仕舞えばいいと思う。だらしない腹を突き出しながらふてぶてしく駅構内を歩く男が履く革靴の足音と対して変わらないなんて、少し空しいような気がした。

 しかし鏡子はその肉の塊のような男に対して決して睨みを効かせることもなく、ノイズキャンセリング機能の搭載されたイヤホンを装着した。つけた途端に、騒音が消滅する。鏡子は、その瞬間深く息を吐いた。パラパラと落ちた横髪から少しだけ苦い、乾いた香りがする。

 今日も疲れた。よくやった。やっと帰ってこられた。

 自分はまだ生きている。そう思える唯一の瞬間であった。


 ・・・・・


 鏡子自身、まさか、二十四歳で子を孕むとは思っていなかった。

 もちろん、少なからず動揺していな鏡子に対して、社内の人たちは眼を三日月型にして妊娠を喜んでくれたものの、新卒二年目での妊娠に対して賛否両論渦巻いていることを鏡子自身が最もよく承知していた。毎日一緒に昼食をとっていた紗子が、昼過ぎの給湯室私に対して放った言葉には明らかな悪意があった。紗子の言い方には確かにいつも少しだけ毒のようなものがあったのだが、紗子はその毒の使いかたをよく理解していた。耐毒性のない相手には使わず、その加減も絶妙であった。だからこそ、紗子の言葉はすべて故意なのだと信じざるを得なかった。紗子の唇は綺麗に塗られたグロスによってヌラヌラと光っていた。給湯室のポットからはけたたましい高音が鳴り響いていた。


 鏡子はその日を境に、紗子とランチをともにすることはなくなった。ここで補足しておくが、ランチを一緒に食べなくなったのは単に二人の仲違いのためだけではなかった。実際、妊娠発覚後1週間後には悪阻がひどくなり、大部分をテレワークに切り替えたためであることのほうが大きい。

 また、腹の子の父親である尚人が鏡子によく付き添うようになった。鏡子の二つ上で、大学時代から交際している尚人は、鏡子の妊娠の事実に当初は戸惑っていたようだが、一週間も経った頃には週の半分を鏡子の家で過ごすようになっていた。夜、未だ肌に昼の暑さが染みてきそうな中、尚人はボストンバッグに三日分の荷物を詰めて鏡子の家に訪ねてきたのである。鏡子は、実際は聞こえないはずなのであるが___我が子の、心音のようなものを感じられたような気がしたのであった。


 気づけば、妊娠発覚から二ヶ月が経った。新緑の爽やかな初夏の風などとうに過ぎ去り、じりじりと焦げ付くように太陽の光が部屋の中へ差し込む。足下の陽炎はなにもかも溶かして、混ざって、わたしたち生けるものすべて混ぜたスープのようにするつもりなのではないかと鏡子は本気で思った。

 本格的にテレワークに切り替えた今は月曜と水曜のみ出勤すればよく、定時にも帰れている。ただ、その分運動不足を医者から注意されるようになり、体調がいいときには買い物ついでに十分だけでも散歩するようにしていた。週五で通勤していた時には考えられない日常であった。鏡子は、仕事がひと段落して陽が傾き始めた頃、いつものように背筋を伸ばし徐々に歩きなれてきた街を散策することにした。群青色のロングワンピースに、ヒールの低いミュールをつっかけた鏡子の姿は、この時間においてよく見られるようになっていた。

 濃緑の、葉の擦れる音、何時だってせわしないスーパーのレジ、日々「死」というものに迫られながら生を謳う蝉たち。リネンの、薄手のワンピースの裾がふわりと揺れた。すべてを溶かしてしまう陽炎とイタチごっこしているみたいだわ。鏡子は夏野菜が入ったエコバックを眺めながらそう思った。

 スーパーから自宅に戻る最後の角を曲がるとき、鏡子はふと太ももに伝う液体に気づいた。あつく流れるそれは陽炎にとかされてマーブルに見えた。ぽた、ぽた、つーっと生臭いそれが伝ってゆく。

 足下に滴るそれをしばらく鏡子はじっと眺めていた。ああ、自分の足って白いんだなあ、とか、私ってあんまり赤色は似合わないんだなあ、とか。そんなことを思っていた。

 ……どれくらい立ち尽くしていたのだろうか。

 しばらくして、近所のおばあさんや若い女性が鏡子の元へ駆け寄り、鏡子の両肩はすぐに支えられた。平和な住宅地でおきた事件に、瞬く間に様々な女性が集まってきて、周囲は人工的な熱気に包まれた。どくん、どくんと体中に何かがこだまする。きーんと耳鳴りがした。そこで、鏡子ははたとその赤が証明されてしまったことに気づいた。

 自分の首筋まですっと伸びていた姿勢は途端に崩れ、徐々に感じ始めた確かな痛みに鏡子の表情は歪んだ。あつい、いたい、やめて、あつい。鏡子の脳内に響いていたのは己の声であったのか、それとも腹の子の声であったのか、鏡子はどっちでも同じような気がした。ただ、もしそれが腹の子の声であったのならば、せめて最初は臆することなく泣いてほしかったと、遠のく意識の中で思った。


 一つの生命が無事鏡子の胎内から排出されたあと、鏡子はしばらく病室のベッドの上でぼうっと白い天井を眺めていた。生ぬるい空間にはただ果てしない静寂が横たわっており、まるで静止画のように無機質であった。尚人は、しばらくうつむいて居たが、いよいよ静寂に耐えられなくなったのか、病室の窓を開けた。すると、窓からはさっきまで身体を包み込んでいた熱気ではなく、冷気さえ帯びた湿った風がぶわっと吹き込んできたのである。

 先ほどまであれだけ血を流したのに、私は生きている。カーテンの、ぼわあっと靡く音が聴こえる。窓の外からは忙しなく車両が通り過ぎてゆく。ツンと鼻の奥を刺激する冷たさ。尚人の、少し決まりの悪そうな、苦しげな声が途切れ途切れに聴こえる。尚人の声は確かに、腹の奥からの鼓動だけが聴こえない。なぜ?

 ベッドのそばのミニテーブルには、未だ青臭ささえ感じる夏野菜たちが、雑然と転がっていた。



 退院後、鏡子はすぐに職場へ復帰した。

 上司のご厚意で事業所も部署も変わったため、鏡子は何も気にすることなく働くことができた。新しい事業所へも単なる異動として通知がされたらしく、本当に、何事もなかったかのように日常が戻ってきた。

 なにかに必死に捕まっていなくては、私はきっとあの陽炎に飲み込まれてしまって、ゴミ収集車に取り込まれていくようにどろどろのスープになってしまう。それは、きっと赦されないような気がした。


 ・・・・・


 白と紺のストライプシャツと紺色のスラックスに身を包んだ鏡子は、今日も朝九時には出社し、己の気が済むまで仕事をした。帰りがけに買ったお惣菜が手に持つバッグの中で歩くたびにカサカサと音を立てる。

 ____あっという間に茹だるような暑さは消え、かさついた、確かな冷気を帯びた風が鏡子の青白い頬を撫でた。イヤホンをつけていても感じるその存在に、鏡子は秋の深まりを感じた。

 さっきまで通勤ラッシュに揉まれていたというのに、今自分は帰路についているのは何故だろう。時間の過ぎ去るスピードに、鏡子は年々ついて行けていないような気がした。まるで、あの日から身体の中の大事な部分がすっかり抜け落ちて、ラップの芯のように筒抜けになってしまっているような、はたまた自身がラップの芯であることを望んでいるような……。鏡子からすればどっちでもいいように思えた。

 とどのつまり、鏡子にとって秋はすべての終着地であった。芽吹いたものの分かれ道であったのだ。さすが、自身が生命の楽園を追放された二人の子孫だけあると鏡子は思った。

 自宅へ向かう道のりの、最後の曲がり角にさしかかった。未だ煌煌と華やぐスナックの前を素通りし、その角を曲がり終えた途端、鏡子はふと足を止めた。


 それは、あの日のように己の血液が股から滴っていたからではない。突如鏡子の鼻腔が甘い芳香に満たされたからである。強張った、梁の無い身体に、黄金色の星々がちらちらと光って、染みついて、答案用紙を埋めてゆく。そんな感じがした。

 鏡子はおもむろにイヤホンを外した。

 しかし、鏡子は孤独ではなかった。

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