続・白くてきれいな迷いびと(2)

 はじめは馬のいななきだった。次いで、大きく右に舵を切った馬車の車輪がとすべった。


 わたしとエルトダウンのお尻が座席から離れ、ふわりと浮かぶ。

 どしんという衝突音と、ばきばきと馬車の木枠がへし折れる音が同時に響いて、天地がぐるりと回った。

 咄嗟のこと、わたしは自分の身を守ることで精一杯だった。

 首を縮こめて、両手で頭をかばう。


 一瞬の後の衝撃。

 浮かんだ体が車体に打ちつけられてバウンドする。戻った重力に引き戻され、叩きつけられる。

 粉々になった窓のガラスと黒く塗られた木枠の破片が花びらのように舞い踊り、もんどり打って倒れた馬車の横っ腹が耳障りな音を立てて地面を削る。

 馬車はたっぷりと時間をかけて地面を滑り、そしてようやくのことで止まった。


 わたしは身体を起こして頭を振る。くせっ毛の隙間から、ガラス片と木くずがぱらぱらと落ちた。

 見上げると、横倒しの車体のすき間からゆっくりからからと回る車輪が見える。澄み渡った濃紺色の空にはもう月が出ていて、かみそりの刃のように薄く白く光っていた。

 まるで天井から糸で吊り下げられているような、白々しくよく出来た三日月だった。


 しばらくの間、わたしは言葉も出せずにその月を眺めていた。それから、ようやくエルトダウンのことを思い出す。


「エルト、大丈夫?」


 わたしは慌てて彼女の名前を呼ぶ。

 返答はすぐにあった。


「ええ、まあ、なんとか。けれど……これ、たんこぶになっちゃうかも」


 エルトダウンはおっとりとした口調で答えて頭をさする。どこかに頭をぶつけたらしかったけれど、見たところ目立った怪我もなさそうで、わたしはほっと胸をなで下ろす。


「良かった……」


「……でも、一体何が?」


 乱れた銀髪を手ぐしで直しながら、エルトダウンが言った。

 わたしは可能な限り冷静に、彼女の質問に答える。わたしにだって皆目見当がつかなかったけれど、それはそれとしてわたしは彼女の先輩なのだ。しっかりしなければならないと思った。

 たとえ彼女がわたしよりも何倍も優秀な魔女のたまごだったとしても、わたしは彼女の先輩なのだ。


「わからない。鹿でも避けたのかな……とりあえず、外に出てみよう」


 わたしたちは歪んでしまったドア枠を蹴破り、どうにか人ひとりが通れるすき間を作って馬車から順番にはい出る。


 外に出てみると、辺りは惨憺たるありさまだった。

 倒れた馬車は、内側から見るよりもずっとひどく損傷していた。

 壊れた天井がばっくりと大口を開けているように見える。鉄で出来た車軸はひん曲がってしまっていて、もう元通りには戻らないであろうことが伺えた。

 馬たちは軒並み興奮していて、轡を引きちぎらんばかりに暴れている。一頭は足を怪我したのか、うずくまって哀れな鳴き声を上げていた。

 少し遠くには、投げ出されたであろう御者の姿が見えた。年若い、色黒でがっちりとした体格の男の人だった。


 わたしは慌てて駆け寄り、声を掛ける。意識はなかったけれど、呼吸はしている。首を折ったりもしていないようだった。

 安堵のため息を漏らしていると、今度は馬車道の反対側に白いぼろきれのようなものが見えた。もぞもぞと動き、うめき声のようなものを上げている。それが魔女のローブだということに気づくには、何秒かの時間が必要だった。


「……白い、魔女?」


 わたしはつぶやきながら、おそらく彼女がぶつかったことが馬車が横転した原因だと気づく。

 箒での飛行中、何らかの理由で墜落した彼女が、運悪く走行中の馬車にぶつかったのだろうと。


 もし彼女が空から降ってきて馬車に激突したのであれば、大けがをしているかもしれない。そう思って駆け出そうとするわたしの肩を、エルトダウンが掴んで制止する。


「先輩、は大丈夫です」


 エルトダウンは鷹揚に首を振って言った。


「腐っても代表箒手、それなりに頑丈ですから」


 エルトダウンのそれは、場違いに落ち着いた所作だった。彼女は目を細めて倒れ伏した魔女を眺めていた。野ねずみを飲み込む大蛇をただじっと見ているような、そんな目つきだった。

 それからエルトダウンはわたしの頭越しに空を見上げて、「それよりも」と言った。


「ねえ、先輩。それよりも、……来ます」


エルトダウンが言い終わるかどうかの間に、まず巨大な理力放射マナ・ラジエーション光が空を覆った。

 間を置かず、大気を揺らす盛大な衝撃音が鳴り響く。白い飛行用ローブを着込んだ魔女が、もうひとり空から降ってくる。


 魔女は地面に叩きつけられ、一度浮かび、土ぼこりをあたりにまき散らして転がって、動かなくなる。白いぼろきれが、二つに増えた。


 わたしは魔女が落ちてきた方向を見上げる。


 遙か高みに、一条の航跡が見えた。つばめのように優美に、空に紫色の幾何学模様を描いている。

 その段になって、わたしはようやく事態の全貌を把握することが出来た。


 ――事故ではなく、撃墜。


 彼女たち白い魔女はただ落ちてきたわけではなく、墜落させられたのだ。

 そして、それが誰によって成されたかということも、わたしの目にははっきりと見えていた。


 夜のとばりそのもののような、黒くて長いまっすぐな髪の毛。

 たったいま咲いた百合のように白くなめらかな肌。

 宵闇の中でぼんやりと光って見える万華鏡の瞳。

 他ならぬわたしが、彼女の姿を見間違えるわけがない。


 ――鉄棺の魔女、《柩》のナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。


 黒檀の箒に横乗りレディ・スタイルで腰掛けた彼女は、そのまますごいスピードで降下してくる。地面すれすれで急減速。横乗りのまま器用に空中で一回転して、ナコト先輩は地上に降り立つ。

 着陸の風圧で巻き上がった土ぼこりは、けれど彼女の肌を汚したりは決してしなかった。うやうやしく鉄棺の魔女を避けて、宵闇の森道の空気に消える。


「奇遇ね、ニナ」


 ナコト先輩は言う。聞き慣れた声はガラスのように涼やかで、けれど普段よりもいくぶんか冷たい響きを持っていた。


「……なんだかを拾ってきてしまったようだけど」


 奇妙につるりとした無表情で、ナコト先輩はわたしに声を掛ける。初めて見る表情だった。彼女の瞳はいつもの通り宝石のようにきらびやかで、けれど、黒色の絵の具を幾重にも幾重にも塗り重ねたような、深い暗黒がそこにあった。


 怒っている。

 彼女は、怒っている。わたしには理解できない何かの理由で、とても怒っている。

 それが頭よりも先に、身体で理解できた。

 空気がわたしの身体を締め付け、鼓膜を圧迫していた。まるで深海の底に押し込まれたような気分だった。

 何か答えようにも、身体は麻痺したように本来の感覚を失っている。

 地を這う蛇のように、音もなくするすると彼女の怒りがわたしに忍び寄ってくる。


 ナコト先輩、と彼女の名前を声に出そうにも、喉からはなんの音も出てくれなかった。

 ひどく息苦しかった。

 わたしがそうやって必死で口をぱくぱくさせていると、エルトダウンが先に口を開いた。


「――ナコト姉さま、わざわざわたしを迎えに来てくれたの?」


 エルトダウンは上機嫌に目を細め、ナコト先輩の名前を愛おしそうに呼ぶ。


〝姉さま〟?


 呼びかけられたナコト先輩はエルトダウンを一瞥して、それから何事もなかったかのようにわたしに声を掛けた。


「それで、買い物は楽しかったかしら。《鴉羽》のおばさまは元気にしていた?」


 相変わらず声を出せないわたしの代わりに、エルトダウンが答える。


「姉さま、お変わりなさそうで本当に何より。会えてうれしいわ。だってわたし、姉さまに会うために王立学院ミスカトニック筆頭箒手ヘッド・ライナーになったのよ」


 ちぐはぐな会話だった。ナコト先輩はエルトダウンを居ないものとして喋っているように見えたし、当のエルトダウンはそんなこと気にもせずナコト先輩に喋りかけ続けている。


「本当に大変だったの、みんなすごく意地悪なのよ。前例がないとか、身の丈を知らないとか、訳のわからないことばかり言うの。でも、姉さまに会いたかったからわたし――」


 わたしは喉から声を振り絞って、エルトダウンの話の腰を折る。

 彼女には悪いと思ったけれど、わたしはわたしの頭の中を整理する必要があった。いいかげん混乱が最高潮に達していたのだ。


「……エルト、ごめん、ちょっといい?」


「はい?」


 気を悪くした様子もなく、エルトダウンはわたしを振り返る。


「地べたに転がっている白い魔女が誰なのか」、とか、「一年生の筆頭箒手ってどういうこと?」だとか、聞きたいことはいくつかあったけれど、上手く言葉にならなかった。

 わたしは眉間のしわを指で伸ばして、ナコト先輩を指さし、エルトダウンを指さす。それからもう一度ナコト先輩を指さす。


「……〝姉さま〟?」


 わたしがしたことは、結局ただの確認だ。エルトダウンに初めて出会ったときの既視感に対する、ただの答え合わせ。


 要するにわたしは自分でも気付かない意識の奥底で、エルトダウンにナコト先輩の面影を見ていたわけだ。

 顔立ちだけの話ではない。上手く形容しがたいけれど、それぞれ黒と白に彩られた彼女たちは、その実並べてみるとずいぶんと似た空気を持っていた。


 彼女たちは与えられる側の人間だった。彼女たちは彼女たちがただそこに存在するだけで、周りの人びとの人生からちょっとずつ何かを奪っていくのだ。それは心だったり、時間だったり、多少の親切だったりする。

 わたしたちのような人間は、彼女たちがこちらを見てと微笑むだけで何かを差し出さずにはいられなくなるし、彼女たちはそれを当然の権利だと思っている。こちらを見下してすらいない。ただそうあるべきだ、としか思っていないのだ。

 高貴な傲慢さとでも言うのか、そういった気配がふたりには確かにあった。

 案の定、何のこともないようにエルトダウンは聞き返す。


「ええ。それが、何か――」


 それから、しまった、というようにはにかんで、「――そういえばわたし、家名を名乗っていませんでした。つい、うっかり……」と言った。

 精緻な人形のような美貌が年相応の少女の微笑みを浮かべるさまは、ひどく不自然で、魅力的で、矛盾したもののように見えた。


 エルトダウンは改めてわたしのほうに向き直る。


「無礼をお許しくださいね、ニナ先輩」


 スカートのすそをつまみ、たおやかに頭を下げる。古式ゆかしい魔女のお辞儀。


「改めまして自己紹介を。我が身、我が思慕、我が忌み名は荼毘だび。《灰火かいか》のエルトダウン。……エルトダウン・アレクシア・フォン・ユンツトと申します」


 エルトダウンは顔を上げ、屈託無く微笑む。


「――ク・リトル・リトル魔導まどう箒士きし七十二花紋かもん、が一、ユンツト侯爵家の末席を汚すもの。どうか、お見知り置きくださいね」


 姉そっくりの笑顔で、荼毘の魔女は小首をかしげた。

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