2-2:白くてきれいな迷いびと -Snow white,why strayed?
白くてきれいな迷いびと
競技滑翔の代表選手になったからといって、何かが大きく変わったというようなことはあまりなかった。
多少の改善は見られたとはいえ
ろばを旅に出したって
その一方で、まあ、多少なりとも変わったことはいくつかあった。
アリソンとの待ち合わせ場所へ行くために、駅馬車に乗って街に向かっていた時のことだ。
七月のオーゼイユの空には雲ひとつなく、雨の予感もなかった。日差しはまぶしく照りつけて、四頭立ての馬車の幌を焼いていた。
帽子でもかぶってくれば良かったかなと思ったけれど、後の祭りだ。路面からの照り返しに目を細めていると、不意に御者のおじいさんから声をかけられた。
「あんた、ニナ・ヒールドだろ? 競技滑翔の。今日は学校、お休みかい?」
赤毛で、よく日焼けし、立派な髭を蓄えた(あるいは剃り忘れた)老人だった。
わたしはちょっと驚きつつ、頷きを返す。
「ええ、まあ」
「やっぱりな。俺、けっこう詳しいんだよ。孫が競技滑翔やっててさ。まあ、あんたみたいに代表とかじゃあないけどね」
おじいさんは深い皺が刻まれた赤ら顔を歪めて、人懐っこそうにわははと笑う。
こういう風に、知らない誰かから声を掛けられる機会はいくらか増えていた。
全体からすればそれはささいな変化だったけれど、しばらくの間はずいぶんと落ち着かなかったものだ。誇らしさとむず痒さが同居するその真新しい違和感は、ちょうど切りたての爪に似ていた。
それからわたしとおじいさんは、学院からオーゼイユ
オーゼイユの馬車停に着き、わたしは運賃を支払う。
おじいさんは運賃を受け取ると、銀貨に描かれた女王陛下の横顔をちょっとのあいだ見つめ、それから逆の手をポケットに突っ込んで、二枚の銅貨をわたしに差し出しウィンクした。
「おまけしとくよ、なんたってあんたは街の英雄なんだから」とおじいさんは笑う。
それから彼はわたしの頭からつま先を見て、「ところで、今どきの子たちの間じゃ、そういう掃除夫みたいな格好が流行ってるのかい?」と怪訝な表情で言った。
十三の頃から履き慣れたオーバーオールに、頑丈な革で作られた飛行用ブーツ。袖まくりしたおさがりのシャツはわたしの身体には少しだけ大きかったけれど、丈夫な木綿でできていた。
わたしが身につけるそれらの衣類はどれもきちんとした実用的な品物で、けれど、オーゼイユの街並みを歩く年頃の女の子としてはいささかざっくりとしすぎていた。
そのうえ《ヘルター・スケルター》を担いでいるとなると、確かに見ようによってはえんとつの掃除人か何かに見えなくもなかった。
けれど、それは別にわたしのせいではない。
オーゼイユの年若い女の子はそういった格好を好まなかったけれど、わたしはそうでないというだけの話だ。単純に生き方や価値観の違いでしかない。
わたしはわたしのような田舎者が頑張っておめかしをしても何だかずれたことになるのを学習していたし、そうであればえんとつ掃除のほうが実用的なだけいくぶんましなのだ。
わたしは少しだけ考え込んで、やはり恥ずべきことは何もないと結論づける。
クリス先輩との決闘以降、わたしはそういったある種の精神的図太さを獲得していた。成長したとか、進歩したとか、そういった表現はあまり正確ではないと思う。
ろばがろばのまま、その旅路の中でちょっとだけタフになった、というだけの話だ。
わたしは曖昧に笑い、彼に「ありがとう」とだけ返してお釣りの銅貨を受け取り、待ち合わせの時計台広場へと足を向ける。
大通りから路地に入り、川沿いの道へ。
川沿いの道は少しだけ遠回りではあったけれど、大通りよりは人の往来が少なく、いくぶんか涼しかった。川べりに秩序だって植えられたしだれ柳の匂いと、流れから立ちのぼるみずごけの匂いが心地良い。
日差しは相変わらず強く、わたしはシャツの袖で額の汗を拭う。
背中のほうから声が聞こえてきたのは、「やっぱり帽子をかぶってくれば良かったな」と思った時だった。
「困ったわ、困ったわ」
後ろを振り返ると、わたしと同じくらいかそれより年下の女の子が、日傘を差してくるくると回っていた。
歌うように「困ったわ」を繰り返して、往来に円を描くようにうろうろと歩き、思い出したように立ち止まって地図を眺めると、また「困ったわ」を繰り返す。
彼女の後ろには車輪付きの大きな旅行用トランクがあって、競技用の箒がくくりつけられていた。
トランクには何かの魔法でも掛けられているのか、彼女の動きに追従して動き、ころころと石畳を鳴らしていた。一見して、彼女はきっと魔女なのだろうと思った。
きれいな女の子だった。
お葬式か結婚式に着ていくような上品なドレスを着ていて、両手にはしっとりと柔軟そうな黒い羊皮の手袋が嵌められていた。どれも高価そうな品物で、わたしとは逆の意味で街並みから浮いていた。
髪の毛は遺骨のように白く、後ろ頭の上のほうでひとつにまとめられ、清潔で手入れが行き届いていた。深く、それでいて鮮やかな赤色の瞳は、じっと覗き込んでいると向こう側が透けて見えそうなくらいに美しく澄んでいた。
彼女はひと通り回ったあとわたしの存在に気付くと、わたしのほうをじっと見てもう一度「困ったわ」と言った。
「すごく困っているの」
気まずい沈黙が流れた。
彼女の「困ったわ」は明確に指向性を持ってわたしに向けられていた。
わたしは息を止め、「どうかわたしの手に負えない大きな困りごとではありませんように」と祈ってから、おずおずと彼女に声をかける。
「……何か、お困りですか?」
はじけるような笑顔だった。白い女の子は小走りでこちらに駆け寄り、わたしの両手を包むように握る。
彼女の動きを追って、トランクも石畳の上を跳ねるように走る。
「そうなの。わたし、エルダー・シングス魔術学院に行きたいんだけれど、道に迷ってしまって。どう行けばいいか、ご存じ?」
不思議なことに、ずいぶんと暑そうな格好のわりに彼女は汗の一滴もかいていなかった。革手袋に包まれた両手も、どこかひんやりとしている。
それとは別に、わたしは彼女に対して奇妙な感覚を覚えていた。
彼女と会ったのはそのときが初めてだと断言できるけれど、どこか既視感というか、前にもこんなことがあったような気がしてならなかったのだ。
もしかしたら、彼女と似た人物に会った事があるのかもしれない。
そうも思ったけれど、控えめに言って彼女の容姿は飛び抜けてきれいで特徴的だった。もし彼女と見間違うような人物と過去に出会っていたとしたら、それこそ忘れているはずがない。
わたしは首をひねり、考え、それからこの既視感はきっと気のせいなのだと結論づけた。
そんなわたしの様子を見て、白い女の子は不安そうに眉根を寄せる。陶器人形のような見た目とは裏腹に、彼女の表情はとても豊かだった。
「あの……もしかして、ご存じないかしら?」
わたしは我に返って、あわてて取りなした。
「いや、大丈夫。わかりますよ」
わたしは自分が来た道を振り返って言う。
「あの路地を抜けて、それから右に曲がればすぐに停留所があるので、学院前行きの駅馬車に乗れば三十分くらいで着きますよ」
「なるほど……地図とは反対に行けばいいのね。道理で迷うわけだわ」
白い女の子は額に手を当てかぶりを振る。わたしの目が正しければ、彼女が手にした地図は上下逆さまになっていた。
「……ともあれ、ありがとう。すごく助かりました。もしよかったら、お名前と、連絡先を教えてくださる? 是非お礼がしたいの」
彼女はたおやかに微笑んで、鈴を転がすような声で言う。
まるで「高貴さ」と書かれたインクつぼに一晩漬けてから引っ張り上げたみたいに、爪と皮膚の間にまで洗練と栄光の匂いが染みついていた。
「いや、大したことはしていないから……お礼をもらうなんて」とわたしは答える。
自分が来た道をただ教えただけで、本当に大したことなんてしていない。道を教えるたびにお礼をもらっていたら、わたしはきっと億万長者だ。
「そんな、施された親切にお礼もしないなんて。当家の恥だわ」
「大丈夫、親切なんてほどのことでもないし、先を急いでるから」
食い下がる彼女に、わたしはできるだけ愛想よく微笑んできびすを返す。実際のところ、アリソンとの待ち合わせの時間はけっこう近くまで迫っていたのだ。
アリソンは基本的に誰に対しても温厚で優しい女の子だったけれど、こと約束という物事に関してはとても厳しかった。それは時間の約束に対しても同様で、遅れてしまったら何を言われるかわかったものじゃないし、何より、大事な友人にはいつも笑っていてほしいのは当たり前のことだ。
わたしは肩越しに白い女の子を振り返って声をかける。
「それじゃ、気をつけて。馬車停は大通りに出てすぐだから、もう迷うことはないと思うけど」
「……ええ、本当にありがとう。あの、せめて、お名前だけでも」
「ニナ・ヒールド、ただのニナ」
それだけ答えて、わたしは待ち合わせ場所に向かって足を進める。
小走りで時計塔広場に向かいながら、わたしは消えない既視感に再び首をひねった。
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