NiNa2 ~ニナ・ヒールドとミスカトニックの白い魔女~
逢坂 新
2:ニナ・ヒールドとミスカトニックの白い魔女
2-1:《翅翼》のエリス - Elis the "Swallowtail"
《翅翼》のエリス(1)
ク・リトル・リトル王国は、プロキシマ大陸の北東岸に位置する島嶼からなる人類を中心とした単一民族国家である。
立憲君主制に基づき統治されており、君主は第三紀百五十六年六月六日よりル・フェイ十六世である。
君主ル・フェイ十六世は同時に国家元首ではあるが、憲法を構成する慣習法の一つに「女王は君臨すれども統治せず」とあり、その存在は極めて儀礼的である。
国土は豊富な地下資源を持ち、
ク・リトル・リトル式飛行箒を用いて行う競技、通称「スカイ・クラッド」は同国の国民的スポーツとして広く知られ、特に年一度行われる競技滑翔学生大会「カルドロン・ダービー」は、諸外国にも多数のファンが存在する[要出典]。
――
◆
昔々、といっても、せいぜい十年くらい前の話だ。
エリス・アンドレア・ブロッグスはグレイ・ウィーバーズ魔術学園の四年生で、
ありていに言って、エリスは優秀な魔女だった。古くから続く氏族の後裔である彼女は、入学してからの四年間、学年主席の座を一度たりとも譲らなかった。教師からの信頼は篤く、生徒からの人望も厚かった。
二年次――弱冠十五歳にして忌み名を拝領していた彼女は、もちろん箒に乗ることだってずば抜けて上手かったから、彼女が今年の筆頭箒手として同校の代表チームに選抜されることに、誰からも異論は出なかった。
《
けちのつき始めは、二年生のときに初めて出場した《
地区予選の決勝戦、何をされたかもわからないうちに撃墜された彼女が敗因を知ったのは、次の日の朝刊の三面記事を見たときだ。
――エルダー・シングス魔術学院、期待の新星。鉄棺の魔女。ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。
それがエリスの上に燦然と輝く凶星の名前だった。
王都の魔術学校からエルダー・シングスに編入してきた鉄棺の魔女、《
《柩》のナコトは各校の箒乗りを撃ち落として撃ち落として撃ち落としまくり、賭けのオッズを取り仕切る
次の年の《大釜》でも、結果は同じか、もっとひどいものだった。鉄棺の魔女は三年生にして筆頭箒手になっていて、その傍らにはもう一人の忌み名持ちまで立っていた。
《
エリスはやはり予選で《柩》と《剱》にこてんぱんにやられ、本選に出ることはかなわなかった。実力は十二分にあったにも関わらず。
ろくでもない話だ。
重ねて言うけれど、エリス・アンドレア・ブロッグスに落ち度はない。
ひどく運が悪いだけだ。
「皆さま、準備できていて?」とエリスは言った。
彼女のまなざしの先には、地区予選の会場となる〝グラーキ塩湖〟があった。
グラーキ塩湖はオーゼイユ
古い言い伝えに曰く、グラーキの湖の底には山よりも大きな青銅のなめくじの神さまが眠っているそうで、理由は判然としないけれど、どうやら彼はおそろしく疲れているということだった。湖の美しい緑青は、銅で出来た身体を持つ、微睡む神さまから染み出した錆の色なのだそうだ。
七月の空に大きく浮かんだ金床みたいな入道雲は、反射した湖の色で渋くくすんだ薄緑色に見えた。
「万事怠りなく、〝
「いつでも行けます」
チームメイトのステイシー・ヒギンズとアメリア・ウィリアムズは言う。
二人の返答には、気負いも焦りもなく、ただ闘志だけがあった。彼女たちもエリスと同じ四年生で、練習の苦楽をともにしてきた仲間たちだ。
通常、《大釜》の代表選手は二年生から四年生の生徒から選出されるのが慣わしで、つまりこれは彼女たちにとって、今回の地区予選が最後のチャンスということを意味する。
湖の畔に据え付けられた
「いいでしょう。今日はナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツトにとって、最悪の日になることでしょうね」
闘志と決意を背中に感じながら、エリスは満足げにうなずく。
振り返るまでもなかった。
今年こそエルダー・シングスを打倒する――その目的を一意にし、一年間をともにしてきた仲間たちだ。もはやエリスにとっては身体の一部のようなもの。
だからエリスは、ただ向こう岸を睨みつける。
大きすぎる湖のせいであちら側の様子はうかがい知れなかったけれど、向こう岸では《柩》のナコト率いるエルダー・シングスの代表選手たちが、自分たちと同じように滑翔の準備に入っていることだろう。
その証拠に、エリスは対岸からの身を突き刺すような視線を感じていた。
「……さしもの《柩》も気合い十分と言ったところですわね。まさか彼女たちと初戦でやり合うことになるとは思わなかったけれど、エルダー・シングスは決して避けては通れない相手……それが早いか遅いか、それだけのことですわ」
魔女の三角帽子を目深にかぶりなおして、エリスはにやりと笑う。
エリスの美点は、前向きなことだ。
鉄棺の魔女という強大な敵を前にして、彼女はただの一度も腐ることはなかった。ただ《柩》を乗り越えるべき障壁として認識し、策を練り、研鑽を重ね、仲間たちを束ね、最後のチャンスに賭けた。
個々の実力で敵わないのであれば、統率力で。それが《翅翼》のエリスが導き出した解答だった。
「各員、信煙弾のチェックを。もっとも……わたくしたちには必要のないものですが」
エリスの指示に従って、ステイシーとアメリアは一切の無駄のない動きで発射筒を点検する。
ラッチを外し、中折れ式の銃身に弾が詰まっているかを確認し、
不退転の覚悟で試合に臨む彼女たちにとって、確かにそれは必要のないものといえるだろう。
「信煙弾、異常なし。いつでもいけます」
ステイシーの返答を聞くや、エリスは
「では
ステイシーとアメリアがその後に続く。決意に満ちた力強い足取りだった。
彼女たち三人は射出機にひらりと飛び乗り、つがえられた箒に跨がり、ゴーグルをかけ、箒の柄を握りしめる。
「回せ、回せ、回せ!」
介添えの魔女たちが気勢とともに数人がかりで射出機のクランクを回し、きりきりと弦を引き絞る。終端まで引かれた巨人のクロスボウが、がぎん、と金属音を立てた。
魔女のひとりがエリスを見上げて言う。
「滑翔、いつでもどうぞ! ご随意に!」
エリスは息を吸い、そして止める。それから目を閉じ、これまでの苦難の道のりを想う。
自分ひとりでは、立ちゆかなかった。仲間が居たから、ここまで来ることが出来た。
目を開き、大空を見上げる。今年こそ、本選の晴れ舞台へ。
「飛ばせ!」
エリスの一声とともに、射出機が三人の乗った箒を次々と空に撃ち出す。
背骨を引っこ抜かれるような衝撃。
箒の刷毛に埋め込まれた反射鉱石が、空を
紫色に燃える航跡の尾を曳いて、彼女たちは七月の空を裂く。
「
エリスの呪文に呼応して、
魔女の飛行は、アップス・アンド・ダウンスの繰り返し。大気中に偏在する
粒子の濃い場所は、不可視の悪魔が焚き火をしているかのように揺らめいて見えるから、うまくそれを見つけて勢いよく飛び乗れば、更なる上昇力を得ることができる。
わたしたち魔女は、その繰り返しで高みを目指す。
風の力を借り、弾丸のごとく打ち出された箒体を安定させ、エリスは胸元の
「風よし、波よし、帆を畳め。……迎え角三度で上昇。進路そのまま、西北西」
間髪を入れず返ってきたのは、ステイシーとアメリアの返答だ。エリスの
『ヒギンズ了解。方位西北西。迎角三、そちらの右側を並進中』
『ウィリアムズ、了解。左側並進』
魔女たちは寸分の狂いもなく、ぴったりと同期して、
高度に統率された一糸乱れぬ飛行。エリスが群狼戦術と名付けたそれが、グレイ・ウィーバーズ校の持ち味だ。
灰色の織り師たちはまるで魂を固く結んだ姉妹のようにそっくりの箒動を取る。
帆を開き、畳み、〝悪魔の焚き火〟を乗り継ぐ。あっという間に高高度に達した彼女たちは、一斉に金床雲に飛び込んでゆく。
「積乱雲の中を抜けますわよ。気流と波の乱れに注意なさって」
『了解。留意します』
『了解』
真っ白な雲が魔女たちの視界を埋め尽くし、頬を叩く湿った気流は彼女たちのゴーグルに水滴を作ってゆく。乱気流が無軌道に暴れ狂い、雷が縦横に走る。
尋常の魔女であればなす術もなく墜落するであろうその中を、グレイ・ウィーバーズの精鋭たちは整然と飛翔する。
「各箒、
視界を埋め尽くす白雲の中、エリスは
『ヒギンズ了解。雲を抜けたら連携して各個撃破。優先順位は《柩》、次に《劔》』
「ええステイシー、その通りですわ」
雲の中からの、奇襲。
敵の懐に忽然と姿を現し、敵が動揺から立ち直る前に持ち前の連携で打ち砕く。それがエリスの立てた必勝の策。《翅翼》のエリスと、女王の織り師たち。彼女たちの技量があってこそ、お互いを心から信頼できてこその秘策だった。
『……ウィリアムズ了解。残りの一人は?』
「残りの? ああ……」
アメリアの返答で、エリスは思い出す。
その年のエルダー・シングスには、忌み名はおろか、何の実績、何の事前情報もない新人がひとりいた。
もちろんそれはエリスたちの調査不足というわけではない。
ほんとうに、なにもないのだ。
魔女――
例えば、物心ついたときからしるしが顕れていた、とか。
小さな頃から上手く箒に乗れて、将来を嘱望されていた、とか。
そういった大なり小なりの鳴り物がついているのが当たり前のことで、だから、なにもないというのは有り体に言って不可解な事だった。
選手名鑑の一ページに記載されたその選手の顔写真から見て取れる、異様な緊張感の無さも、謎に拍車をかけた。
まるでついさっき拾ってきた犬のような茶色の巻き毛に、真っ黒な瞳。なんだか曖昧な笑顔を浮かべて、こともあろうか半分目をつぶっているのだ。
クラブ・ハウスの談話室、爪の先ほども覇気が感じられない面構えを穴が開くほど三人は見つめて、結局ひとつの合意に至った。
「こいつは、数あわせだ」と。
そもそもエルダー・シングスは弱小校、《柩》と《劔》の実力だけが異常に突出しているのだ。高慢ちきな鉄棺の魔女のこと、誰でもいいからと代表選手に仕立て上げて、忌み名持ちの二人だけで優勝を狙ったとしてもおかしくはない。
「二年生の新人? ……なんて名前だったかしら」とエリスはつぶやく。
ステイシーとアメリアからは失笑が漏れた。
実際のところ、エリスはその時点で本当に〝茶色の半笑い〟の名前を忘れてしまっていたのだけれど、どうやら皮肉か何かだと思われたらしい。
くすくすと笑いながら、アメリアが言う。
『えっとですね、その子の名前は、確か――』
けれど、エリスにはその名前を聞くことは出来なかった。
続いて聞こえてきた耳をつんざく雷鳴と、ぎゃっという悲鳴にかき消されてしまったからだ。
「えっ」
エリスが状況を把握するには、一拍ほどの時間が必要だった。
だって、聞こえてきた悲鳴は紛れもなくステイシーの声で。すぐ隣に居たはずの彼女の姿が、見当たらない。 ほとんど視界の利かない雲海の中、チームメイトのひとりの姿が忽然と消えてしまっていた。
「――敵襲!」
エリスは叫ぶ。
彼女の判断は、限りなく迅速だった。
混乱する思考を一瞬で立て直し、指揮を執る。
「アメリア、急降下しますわよ! 雲の層から抜ける!」
『ですが、高度優勢を失うのでは――』
山びこ石を震わせるアメリアの返答には、焦りの色。
その声を上書きするように、エリスは言う。歯噛みする暇も惜しかった。
「やむを得ませんわ、このまま戦うには視界が悪すぎる! 敵より先に雲を抜け、下で迎え撃つ! さっさと切り替えて!」
長い時をかけて練り上げた策を、必要とあらば即座に切り捨てる。戦いの潮目を――千変万化の戦局を瞬時に読み取り、判断を即座に更新する。
エリスの指揮官としての才能は本物だ。
エリスの一喝で我に返ったアメリアは、眼下に向けて深く柄を押し込む。
『――了解! 急降下します!』
完全に裏を掻かれた。
あっという間に一箒を失ってしまった。
状況は極めて不利。
けれど、それはエリスの考えることであって、アメリアの仕事ではない。アメリアがすべきことは、女王が導き出す最適解を、最大限の精度で再現することだ。
グレイ・ウィーバーズの二箒は、垂直に雲海を裂いてゆく。乱気流を抑えつけ、一直線に低空へ。自分たちを追ってくるはずの敵箒を、万全の体勢で迎え撃つために。
二人は雲を抜け、空を見上げる。雲の底に穴が開くほどに見つめる。
「積乱雲を抜けてきたところを叩きますわ。《柩》が出るか《劔》が出るか。それとも両方かしら」
十分に高度を下げ、上方に回頭する。
二人は杖を構えて息を呑み、巨大な金床の底を睨みつける。奇襲を仕掛けてきた敵を、即座に撃墜するために。
敵箒が雲から出てくるまでの刹那の時間、けれど、彼女たちにとっては、とてつもなく長い時間に感じられたことだろう。
だって、わたしもそうだったから。
『――敵箒襲来、西方上空200ヨルド先! 一箒です!』
アメリアが、叫ぶ。
雲を割り、敵箒が顔を出す。
「《柩》? それとも《劔》?」
『この距離ではわかりませんが……なに、これ。なんていうか、妙な箒動です。酔っぱらい運転みたいな……でも、やけに……速い……』
エリスは目を細める。アメリアの言うとおり、確かに妙な動きだった。
まっすぐ飛ぶことにすら苦労しているような――なんというか、自らの箒に振り回されているように見えた。雲を割り、紫電の尾を引いて、
百枚のすりガラスを一斉に引っ掻くような、千の雷を束ねたような、異質な滑翔音。
『雷鳴……』
腹ぺこのけだものみたいに、
エリスの脳裏に、今年の選手名鑑の一ページがよぎる。
栗色の巻き毛、ローブにはアネモネの紋様。今は目を皿のように開いて、真っ黒な瞳で彼女をらんと見つめている。
たしか。
「……ニナ……ヒールド……」
エリスは、つぶやく。
たしか、あいつの名前は――
『――ただのニナ。エルダー・シングス魔術学院、薬学部二年生! ニナ・ヒールドだっ!』
わたしは、叫ぶ。
混線する山びこ石に向かって。
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