第8話 弟?

 豊さんと母の昭恵さんとともに、私たちは客間に戻った。

「皆さん驚いてましたが、ヤジロウさんというのは?」

「はい、僕はそんな人、知りませんでした。母さんは?」

「私は亡くなった兄弟がいたと聞いたことがありましたが……」

「そうですか。亡くなった兄弟……」

 係長は電気ケトルに水を入れながら話をした。そこへ、猿渡さんがやってきた。

「あ、先輩」

「ああ、えーと、昭恵さんと豊さん、少しよろしいですか。お伝えすることがあります」

「はい。ここでもいいですか。村田さんたちにも聞いてもらいたいので」

「ええ、かまいませんよ」

 猿渡さんはカバンから書類を取り出した。

「一族の方に伝えなければなりません。ヤジロウさんのことです。我々弁護士は、法定相続人全てに連絡を取らなければなりません。今回、ヤジロウさんには数年前から、郵便で連絡をしてきましたが、返信がありませんでしたので、我々はヤジロウさんが相続する権利を放棄したと判断しました。しかし、今日突然、ヤジロウさんが現れましたので、我々も正直驚いていました。こちらが、我々が作成した相続に関する家系図になります。ヤジロウさんの名前が入ってなかったのですが、手書きで付け足しました。どうぞ、お納め下さい」

「先輩、私ももらえますか?」

「ああ、全員に配るから、たくさん作成してある。ほら」

 猿渡さんは係長にも家系図を渡した。

「あの、ヤジロウさんはどんな方なんでしょうか? 今までどこで何を?」

 昭恵さんは受け取った紙を広げながら尋ねた。私たちも覗き込んで見た。“弥二郎” と書かれてあった。

「弥二郎さんはずっとブラジルで過ごしてきたそうです。それくらいしか我々もわかりません。ここを管轄する村役場が60年ほど前に火事になって、戸籍の文書が全て灰になってるんです。だから、不確かなことがあって……」

「そりゃ、確かなことはわかりませんね」

 係長はマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れながら言った。

「ブラジル……」

「母さん、何か知ってる?」

「いえ、全く……」

「では、私はこれで」

 猿渡さんは退室していった。


「弥二郎さんですか……弥太郎さんの弟さんでしょうね」

「おう、名前から判断するとそうなるな」

「遺言では、年長者に全て譲るってことだったから、せっかくブラジルから来られたけど、弥二郎さんは何ももらえないんですね」

「おう、残念だよな。そもそも、ブラジルから来たってことは、弥二郎さんの国籍はブラジルなのかな。日本国籍持ってることも相続の条件だったからな。あ、豊さん、大次郎さん夫妻の息子さんの小次郎さんと奥さんのフネさんは、今日は来てませんでしたが」

 係長はコーヒーを飲みながら言った。

「はい、仕事が忙しいから来ることができなかったそうです」

「なるほど。あ、豊さん、何とか祭りっていうのは?」

「はい、“猫猫丸びょびょまる祭り” のことですね。里見村で毎年十月に行われるお祭りです。今年は、明後日に行われます」

「その祭りの翌日に、遺言の通りに相続が行われるということですよね」

「はい、そうだと思います」

「もし、もしですが、その祭りまでに弥太郎さんの身に万が一のことがあれば、相続するのは、弥二郎さんになるかもしれないですよね」

「はい、そうだと思います。日本国籍があれば」

「いや、これは、何かあるんじゃないか、おう、香崎」

「はい、祭りの次の日から遺言の効力があることになっていて、誰も知らない弥二郎さんという人物が突然現れた」

「おう、普通じゃないな。磯田、どう思う?」

 コーヒーを飲みながら係長は京子に質問した。しかし、京子はしし丸をかまうことに夢中になっていた。

「あ、え、あの、失礼なんですが、昭恵さんと豊さん、弥二郎さんに財産を全て持っていかれる可能性がありますが、そのわりには、危機感がないというか、その……」

 係長は訊きにくそうに訊いた。

「あ、はい、僕は財産なんかどうでもいいんです、そんなことで身内で争うなんて……」

「私もそんなことよりも、主人の弥太郎のほうが心配です。本人なのかどうか……」

 私も係長も難しそうな問題に苦い顔をしていた。

 部屋の戸がコンコンとノックされる音が聞こえてきた。

「お飲み物をお持ちしました」

 使用人と思われる女性が三人、ワゴンを押しながら入ってきた。

「コーヒーと紅茶、どちらになさいますか?」

 エプロンを身につけた女性たちがカップやスプーンを机に置き始めた。係長は自分が飲んでるインスタントコーヒーを流しに捨てて、女性達をガン見していた。

「美しい……」

「係長ー、ナンパしないで下さいよー」

 しし丸と戯れていたはずの京子がいつの間にか係長の側で警告した。

「あ、こちらの方々は、メイドさんですか?」

 係長が嬉しそうに尋ねた。

「はい、うちの使用人として働いてもらってる、竹葉さん、青田さん、赤羽さんです」

 豊さんが紹介すると、女性たちは上品に頭を下げた。彼女らは、20代くらいでしっかり者の今風の女性に見えた。

「美しい……」

「係長ー」

 京子は係長の耳たぶを引っ張った。

「あ、こちらの竹葉さん、豊の婚約者なんですよ」

 正代さんは嬉しそうに言った。

「母さん、そんなこと別に言わなくても」

「あ、竹葉恵子です」

 竹葉さんは丁寧にお辞儀した。

「これでー、係長からー、ナンパされなくなりましたー」

 京子が言うと、青田さんと赤羽さんは係長のことを見て若干嫌そうな表情をした。

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