第5話 夢の世界

 幸運なことにこの流れは、どうも死亡ルートではなく、生存ルートのようだ。であれば、全力で生存ルートをまい進しなければ、詰む。


「えっと、自宅にコピー本がありますけど……」


 コピー本とは、同人誌の中で一番手軽に作れる本のことである。液タブで描いた原稿をコンビニでコピーして、ホッチキスでとめてつくったものだ。


 そのコピー本は数冊存在する。漫研や同級生から帰ってきたコピー本を、自宅の屋根裏に保管していた。


「ほんと? すごいね。自分で漫画描いて、本にするなんて」


 先生に手放しで褒められると、だんだん高揚してきて明るい声が出る。


「明日、持って来ますね」


「ありがとう。朝練の時間でもいいかな? 明日は放課後研修があるんだよね。って、雪でどうなるかわからないけど」


 明日の天気は雪の予報だった。この地方で少しでも雪が積もると、交通機関は麻痺する。降雪のタイミングで、明日の予定は大幅に狂いそうだ。


 わたしに朝練なんかなく、いつも始業時間ギリギリに登校する。しかし、朝早いのは嫌だから放課後にしてください。なんて選択肢は、はなからない。


 先生の望み通り、朝イチでコピー本を届けるという一択のみだ。


「あのお、こういうの描いてるって内密にしてもらえませんか」


 交渉は大事である。コピー本を見せる交換条件を、それとなく提示してみた。


「もちろん、もちろん! 僕の趣味も内緒にしてね」


 それぐらい、お安い御用です……。とは言わず、ちょっとだけ共犯の絆を深めようと試みる。


「先生が、こういうの興味あるって意外でした」


 先生は着ていたジャージの裾を、もじもじと引っ張り出した。


「まあ、普通そうだよね。でも僕、スポーツは好きだけど体育会系のノリって合わなくて。メンタル鋼な人が多いんだよね。それも、全然悪くないんだけど、繊細な世界にあこがれもあって。姉が持ってる少女漫画が大好きだったんだ。勝ち負けで解決できない世界もあるんだなって」


「なんとなく、わかります。私も少女漫画大好きだったから。いろんな夢を見ていてもいいんだよって、言ってもらってる気がします」


 わたしは友達に借りた、キラキラした少女漫画に夢中になった。それと同時に、こっそり読むという行為に、背徳感をおぼえていたのかもしれない。


 ページをめくってのぞき見する、あこがれの世界。それは、次第にBLの世界へ移行していった。先生も、そうなんだろうか。


「少女漫画の延長で、BLも好きになったんですか?」


「そうそう、あれはすごい発明だよね。女性視点で書く男性同士のエロって、ひたすら美しい……あっ、こんな発言、教師として完全にアウトだよ!」


 先生はあわてて、手で口を覆った。そのしぐさは、完全に乙女だった。


 あえてわたしはつっこまず、「じゃあ、明日」とだけ言いそそくさと教室を後にした。


 リノリウムの無機質な廊下を歩きながら、わたしは興奮に打ち震えていた。


 先生に卑猥な漫画を読まれて人生終わったと思ったら、実は腐男子さまでした! 


 なんてことが、現実に起こるなんて、漫画みたいだ。すごい、すごい、すごい!


 コートを着て外へ出ると、今にも雪が降りそうなほど寒い。吐き出した息は対照的に熱く、暗い夜空をのぼっていった。


 眼下には街灯の光を受けた生徒たちの背中が、駅へ向かって帰宅を急いでいた。その内のひとつは、晶くんの後ろ姿だった。いつも後ろ姿を見ているから、間違えるはずがない。


 これから帰宅して、忍ちゃんに会うのだろう。さっきはああ言ってたけど、忍ちゃんからチョコレートをもらうかもしれない。


 姿かたちスペックともに申し分ない主役級のふたりには、物語のような素敵なバレンタインの夜が約束されている。


 それに引き換えわたしの物語は、BLのネームを先生に見つかって命拾いしたってだけ。


 全然キラキラも美しくもない。ありきたりで、凡作の極みのようなストーリー。


 やっぱり憧れの夢の世界で、わたしはただのモブキャラでいい。


 湿った白いため息はまっ黒なアスファルトに落ちて、足元がかすんでいった。

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