第3話 教室で
美術室から出ていく忍ちゃんの背中に、声をかける。
「ちゃんと行ってね」
忍ちゃんは返事もせずに、教室を後にした。シミセンの伝言を忘れ、忍ちゃんの偉業を褒めたたえることに専念してしまった。
ひょっとして、気を悪くさせたかもしれない。あまり乗り気じゃない美大への受験を、押し付けているようにとられたのかも。
わたしができないことを、忍ちゃんならできる。ためらう忍ちゃんの背中を押したくて、ついつい力が入ったのだ。
忍ちゃんが座っていた椅子は、引かれたまま斜めになっていた。机の下に戻そうと、椅子の背に手をかけると、下に落ちていた鉛筆に気がついた。
しゃがんで拾うと、いつも忍ちゃんが使っている3Hの鉛筆だった。親指と人差し指でつまみ、教室のライトに照らす。
何の変哲もない普通の鉛筆だけど、忍ちゃんが持っていた鉛筆は光を受けつやつやと輝いていた。これで描いたら、いい漫画かけそう……。
わたしは鉛筆だけを手にして、美術室を飛び出した。
人がいる美術室で、BL漫画を描く訳にはいかない。かといって、家に帰る時間がおしい。どこか人のいないところを、探さねば! 今描きたい。この鉛筆で、今すぐ。
放課後の校内は、意外に人が多い。吹奏楽部の部員がそこかしこで、音出しをしていた。二年生の教室がある三階へ行き、自分の教室をのぞくと誰もいない。
ほっと息をつき、教卓の中からプリントを数枚取り出した。教卓の中にはあまったプリントが入れられているのだ。
急いで出てきて、カバンを持ってくるのを忘れた。漫画の設計図であるネームを切るだけなら、プリント裏でも十分描ける。
わたしは自分の席につき、吹部の練習をBGMに忍ちゃんの鉛筆で描き始めた。
ちょっと、借りるだけ。明日、忍ちゃんに返せばいいだけ。
そう念じて後ろ暗さに目をつむり、今日の体育の時間に見たエモい場面をプリントの上に落とし込んでいく。
男女合同の持久走で、忍ちゃんは女子のトップを走っていた。たぶん、晶くんについて行こうとしたのだろう。
忍ちゃんは男の子っぽくなってから、勉強や運動で晶くんと張り合うようになってた。いずれも忍ちゃんが勝ったためしはない。それでも、わたしからしたら十分すぎる結果を忍ちゃんは出していると思う。
晶くんが何事においても、完璧すぎるのだ。そこが王子と呼ばれる所以なんだろう。そんな晶くんに、おいていかれまいとがんばる忍ちゃんの姿は尊い。尊いのだけど、見ていてちょっと痛々しくて苦しくなる。
案の定忍ちゃんは飛ばしすぎて、校外に走り出す前にギブアップした。わたしは持久走なんてはなからする気がなく、生理中ということで見学していた。
見学者たちが集まる隅っこで、忍ちゃんは荒い息をつき、膝をかかえ丸くなっている。その様子を見ると、保健室に行った方がいいような気がした。
わたしは、『大丈夫?』と言おう声として言葉を飲み込む。
始まる前に忍ちゃんに声をかけ、不機嫌な返事が返ってきたことを思い出したのだ。わたしが言う台詞じゃない。
ここで忍ちゃんのこと助けるのは、やっぱり晶くんに決まっている。モブはモブらしく、壁に徹さなければ。
しばらくして、わたしの妄想は現実のものとなった。校外からトップで戻ってきた晶くんはゴールを切ると、そのままスタスタと忍ちゃんの元へやってきた。
保健室へ連れて行こうとする晶くんと、嫌がる忍ちゃんの攻防がしばらく続いた。業を煮やした晶くんが、忍ちゃんの腰を強引につかんで立ち上がらせると、抱きかかえるようにして保健室へ連れて行った。
その一部始終をすぐ近くで目撃していたわたしは、興奮して変な声が出てしまった。
こ、これはネタになる。それも、みんなが大喜びするネタだ。
この場面を家に帰ってから、液タブで描こうと思っていたら、忍ちゃんの鉛筆というアイテムを手に入れた。もう、描かずにはいられなかった。
コマをわって、セリフを入れて絵を描き込んでいく。人によったら、ネームの人物は輪郭だけの場合もあるけど、わたしはしっかりと描き込んでいく。そうしないと、ストーリーが自分の中で動かない。
持久走の場面から、忍ちゃんが倒れ保健室へいくふたり。そこから、保健室でのいちゃいちゃを描くと、ネームが五枚仕上がった。気づけば吹部の練習は終わったようで、あたりは静寂に包まれていた。
わたしは出来上がったネームを見下ろし、いつもよりうまく描けたと自画自賛する。いい気分で美術室に忘れたカバンと、存在を忘れていたコートを取りに行った。
美術部員はわたしが漫画を描いているなんて知らないので、ネームを持っていくわけにはいかない。ネームを机の上に、裏返して置いておいた。
こういうシチュエーションでは、少女漫画ならうっかり置き忘れたネームを、ヒロインの相手役に見られるというのがお約束の展開だ。
そういうことに、ならないようにわざわざひっくり返しておいた。こうすれば、普通のプリントなので誰も興味を惹かれないだろう。
今日のわたしは、冴えてる。足取りも軽く戻ってくると、廊下からガラス越しに黒板の前に立つ人影が目に飛び込んでくる。
あ、あぶなかった。裏返しにしてなかったら、ネームを見られるところだった。いったい、こんな時間に誰だろう。
教室に足を踏み入れ、黒板の前の人物を確認すると担任の島崎先生だった。先生は手にしたプリントを熱心に見ていて、入ってきたわたしに気がつかない。
ま、まさか……。悪い予感とはあたるもので、首が折れそうな速度で机の上を確認すると、置いてあったネームが消えていた。
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