エピソード2

SideA 不透明に澄んだ心01

 光を遮る鬱蒼とした葉がカサカサと音を立てる。それを揺らしたのは風ではなく小さなトカゲ。木々の根を浸す透き通った水の近くへと降りてゆき、しばらく水に映る自身の姿を見つめた後、すっと水の中へと消えていく。


 森を支える大地をそのまま水に変えてしまったような不思議な自然の芸術とでもいうべき水没林。そこに生える木々もまた異常なほどに成長し、水面から伸びた逞しい根が道がわりとなり旅人たちの助けとなっていた。


 そして……その根を渡る一人の人影。根を飛び渡るたびにカチャカチャという金属音が鳴り響く。彼女が足に身に着けている古びた足鎧レッグアーマーは女性が装備するには少々重たい部類のはずだが、彼女はそれをものともせずに軽快に根から根へと移っていく。


「やれやれ、国が変われば世界が変わる。でもこれはちょっと変わりすぎでしょ」


 自身が足場にしている根の本体、眼前にそびえる大樹を見上げシーアは額にうっすらと浮かぶ汗を手で拭う。腰に下げていた革袋をまさぐると木製の小さな筒を取り出し口もとへと運ぶ。


「ふう……目の前に有り余るほどに水があるのにうかつに飲めないなんて、人族ヒューマンレイスに優しくない国ね。ほんと精霊族スピレイスの性格そのものじゃない」


 シーアは足元に広がる水面に映る自身を見つめ、困ったような笑みを向けてみる。そしてすぐ様馬鹿らしいといわんばかりにふいっと顔をそむける。


「飲んだら眠る水だなんて……あくせく働くうちの聖女様にお土産でいいかもしれないわね」

〈あはは、そんな水持って帰ったらアリス怒っちゃうよ〉


 首に下げたネックレスの石から笑い交じりの陽気な声が聞こえる。


「そうかなぁ。アリスは働きすぎだから少しぐらい無理やりにでも休ませないと駄目なんじゃないかな」

〈えー、それをシーアがいうのもなぁ。やっとこさ戻ってきたと思ったらまたすぐに飛び出して行っちゃうんだもの〉

「しょうがないじゃない。"ディスパタードの実"が美味しいのは夏だって相場が決まって……じゃなくてまたひと悶着があったってアンチギアの都からアリスに支援要請が来たんだから」


 しばらくの沈黙。シーアの頬を伝う先ほどとは異なる汗。そして石から伝わる聞こえるはずのないニコニコという擬音。


 シーアは大きく喉をごくりと鳴らし石に向かい微笑む……が、すぐさまどんよりと顔をうつむけることになる。


〈なんだかおかしいなとは思ったんだよねぇそういえば。いつもは戻ると疲れたーって言って私の部屋で数日はごろごろしてる誰かさんが? なんだか妙に普段は抱くはずのない使命感? 正義感? をアリスにピーアールしちゃってさ? ねえ?〉

「あ、あー、エメルさん? これには……」

〈そういえばたまにアリスが差し入れで持ってきてくれる果物でも真っ先にディスパタードの実に手を伸ばしてましたっけ?〉

「け、決してそのようなことは……」


 再びの沈黙。声の聞こえる石をそーっと自身の顔の前に掲げ次の言葉を待つシーア。その表情は無理やり笑みを浮かべているがどうしても口元が引きつってしまっている。


〈……ぷっ。あはは! あー、もうだめ。ごめんごめん〉


 急上昇の表現がふさわしい。声のトーンというよりも機嫌そのものが2度目の沈黙を境に激変する。そして絶え間なく響く陽気な女性の笑い声。


「むぅ……」

〈ごめんってば、シーア。まあ、そういった楽しみがシーアにもあってよかったと思ってるんだよ、お姉さんは〉

「お姉さんって……ほとんど変わらないでしょうに」

〈そう言わないでよ、"シーアちゃん"ったら〉

「……私の名前は"シーア"ですよエメルさん」


 返ってきた言葉にいよいよ本格的にツボにはいったのか、石の向こうの声の主、エメルは苦しそうに笑い声をあげている。


「ほらほら、あんまり笑いすぎてむせないようにね」

〈あはは、あー……いまはシーアの方がなんだかもう私の面倒を見てくれるお姉ちゃんみたいだね〉

「……そんなことはない」

〈シーアお姉ちゃん、エメル甘いものが食べたいな! いつも私が食べようと思っても気づいたら無くなってる果物があるんだけども〉


 やれやれと呆れた表情でシーアは手にした石を手放し、首元で揺れるそれをピンと指ではじく。


「そう思って私は今回急いでエメルちゃんが"何故か"中々口に出来ない果物をいっぱい持っていってあげようかなーって……ね?」

〈そーいうことにしておきましょう。そーしましょ! あはは〉


* * * * * *


「なんだか慌ただしいけど……何かあったの? アリス?」

「あ、シーアさん」


 壁から柱、床やそこに飾られた装飾品。その全てを白基調で揃えられた神聖さを否応なく感じさせる空間。天窓から光が差す開けた広間の中央、アリスと呼ばれた女性は新たに入ってきたシーアの姿を見ると辺りにいた何人かの白い礼服をまとった人物たちにさがるよう指示を出す。


 まるで家族の帰りを待っていた少女のような……そんなあどけなさの残る笑顔でアリスはシーアのもとへと駆け寄って行く。


「お帰りなさい! シーアさん」

「ただいま、アリス。なんだか私が出る時よりもざわついてるみたいだけど何かあったの?」

「な、なんでもないですよ。ちょっと使徒の皆さんと話してただけですよ」

「ふーん……」


 シーアは先ほどまでアリスが話していた使徒と呼ばれたものたちへと視線を向ける。いや……睨みつけたというのが正しいだろう。その険悪な表情に使徒のうちの一人、どこか厳かな雰囲気をまとった男性が無理やりといった笑みを浮かべシーアへと歩み寄る。


「これはシーア殿。お早いお帰りですな。いや、さすがは聖女様が頼りにされたお方だ」

「それはどうも」

「今回は国内でしたから普段よりは短い旅路でしょうがお疲れでしょう? 早くあなたを待つ彼女のもとへ行かれた方がよろしいのでは?」

「そのつもりだ」

「でしたらこんなところで時間を無駄にされず早く行ってあげて下さいな。またすぐに旅立たれるのでしょうし……」

「要するにさっさと用を済ませてさっさと出て行けと? アグロ」

「し、シーアさん!」


 それまでの穏やかな雰囲気が一気にひりついたものに変わる。シーアがどこか蔑んだ視線を向けた先でアグロと呼ばれた男性はなおも笑みを浮かべたまま押し黙っている。


「こ、今回は希源種オリジンワンじゃなくて人族ヒューマンレイス精霊族スピレイスの問題ですから! シーアさんの出番じゃないってだけですよ! ね、アグロさん」


 アリスの慌てた表情を見てアグロは確かに聞こえる声で「ふう」と困った素振りで息を吐く。それまで浮かべていた笑顔が嘘のように厳しい表情を浮かべる。


「聖女様のおっしゃる通りだ。今回は貴女の出る幕ではない。そう、今回の敵は化け物でも何でもない。国境近くの精霊族スピレイスの都カルレウムの連中が卑劣にも我らの愛すべき民の住む"アンチギア"に毒を放ったのだ」

「……毒?」


 シーアは怪訝な表情でアグロからアリスへと視線を移す。「説明よろしく」と言わんばかりの凝視にアリスはアグロ以上に大きくため息をつく。


「まだ情報は定かではありませんが、アンチギアの人たちから調査の依頼が来ています。領土内の水源で奇妙な毒が確認されたと」

「精霊族は元々人族をどこか見下していましたが……まさかこのような凶行に及ぶとは」

「アグロさん。まだ彼らの仕業と決まったわけではありません。民の崇拝を受ける"使途エクシズダリア"の一人であるならその手本となるよう言葉は慎重に」


 アリスの叱咤にアグロはびっと背筋を伸ばす。その様子を見てシーアは小さく拍手をし、その場を後にしようと背を向ける。


「シーアさん。今言ったように、少なくとも今回はまだ希源種オリジンワンの存在も確かではありません。勝手な介入は慎んで下さい。それに……」

「わかってる……エメルのところにいってくるわ。またね、アリス」


 手をひらひらと振り、そのままアリスのほうを見遣ることなく奥へと続く廊下へと歩いていく。


「……聖女様。今回の件、私にお任せ願えませんか。この"精霊を従えし使途"アグロめに」

「そうですね……でも忘れないで下さい。精霊族との関係を荒立たせる気はないことを。それを今この場で誓えますか? アグロさん」


 それまでシーアに向けていた声とは程遠く、どこか冷たい宣告のようにアグロへと言葉を突き立てる。アグロはあらためて恭しくお辞儀をし、胸に手を当ててまっすぐとアリスに向きなおる。


「聖女様のご意向に背かぬことをお約束いたしましょう。ただし、どうか現地に向かう巡回騎兵クルーラーの自衛だけはお許し下さい」

「自衛……ですか?」

「はい、自衛です。あなたの教えがあるとはいえ、今回の件で精霊族が力をもって向かってくる際に無抵抗で死ねというのはあまりにも酷ですから……」


 アリスはまた大きくため息をつき。小さくうなずくとシーアの後を追いかけるように歩き出す。その背を見つめるアグロの表情はどこか忌々しいものを見る瞳へと変わっていた。


「“まがいもの”の聖女めが……」


 アグロの小さな呟きは白に染まる空間にそぐわないどす黒い感情を露わにしていた。

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