知らない世界の始まる朝
手のひらに収まる程の小さな種。
この種が世界に雨を降らせることになるとは、にわかには信じがたい。
しかし、連日続いた異常気象が嘘のように静まり、この機を予知していたかの如く、突如として種がここに現れたことを考えると、この種が何らかの力を持っていると思わざるを得なかった。
洸太郎はまた、眠れぬ夜と向き合っていた――。
――数時間前。
雨の種を手にした洸太郎は、不思議と落ち着いていた。
『実際にその瞬間が訪れたら、まずは三人に報告しよう』
その一点だけを自分の中の決め事として考えていた。
お陰で「目の前の現実」より「未来への行動」に、自分の意識を向けることが出来ていたのだった。
洸太郎は机の上にそっと雨の種を置くと、変わりに、スマートフォンを手に取った。
雨の種は机の上で、息をするように揺れていた。
「みんな、落ち着いて聞いて」
そう自分にも言い聞かせながら、洸太郎は指先を動かしていく。
「雨の種が、僕の前に現れた」
文字にしてたった数文字。
短い文章だったが、入力が終わる頃には手のひらに汗を掻いていた。
異常気象が収まったタイミングだったこともあり、全員がスマートフォンを手にしていたのだろう。
洸太郎が送ったメッセージの横に、直ぐに「既読3」の表示が付いた。
余計なことを考えてしまわぬよう、洸太郎は三人の返信を待たずに、雨の種の姿や形、実際に現れた時の状況など、今自分が持っている情報を淡々と、次々に送信した。
全ての情報を送り終え、洸太郎の指は止まったが、返信が来たのは、それから五分程経ってからのことだった。
大介と千歳から同時にメッセージが届く。
『雨が落ち着いたのは、やっぱりそのせいか』
『高木さんの話の通りになったってことだよね』
画面が表示する文字は、感情を殺した状態となって洸太郎の元へと到着する。
二人の気持ちを汲み取ることが出来ないまま、その文字は事実だけを共有していた。
「たぶん、近いうちに雨は降り止むと思う」
『世界中がパニックになるよな』
『人体への影響だって、きっと昔とは違うんだよね……』
現実を突きつけるように、文字が画面の中に形として残っていく。
わかっていても避けられない未来へ進むこと程、恐怖を感じることはない。
洸太郎は現実から目を背けるように、スマートフォンから視線を逸らした。
『それで……洸太郎は、どうするの?』
そんな洸太郎を見透かしていたかのように、三人の会話から少し遅れて、瑠奈からもメッセージが入る。
「高木さんのところに行こうと思う。他にも何か、知っていることがあるかもしれないし」
手持ちの情報が乏しい以上、この他に言えることが無かった。
おそらく全員が同じ思いだったのだろう。
三人からは相槌に近い返信が届いたが、それ以上は話が発展することもなく、「翌日に全員で高木の元を訪ねる」ことが決まると、そこで会話は終了となった。
雨の種が目の前に現れたにも関わらず、三人とのやり取りは拍子抜けする程に短いモノだった。
これはきっと、各々の妄想や想像の中で話しをしていても解決が出来ないばかりか、ただ互いに不安を煽り合うだけになってしまうと、それぞれが心のどこかで感じていたからかもしれない――洸太郎はそう思いながら、スマートフォンの画面から光を消し、そのままベッドに横になった。
「この短時間で、なんか酷く疲れたな……」
しかし、目を瞑っても思考は休まることを知らず、はっきりと意識を保ったまま、洸太郎は朝を迎えていた――。
時間が経つにつれ、静けさに拍車が掛かっていく。
洸太郎はベッドの上に座っていた。
勢いよく階段を上がる音が聞こえる。
その足音は迷うことなく、この部屋へと向かって来ていた。
「――お兄ちゃん、早く起きて!」
彩美がノックをすることもなく、扉を乱暴に開く。
彩美は呼吸を乱し、寝ぐせを直すこともしないまま、青ざめた顔で立っている。
その様子を見ただけで、洸太郎は何が起こったかを察した。
「雨――止んだんだろ?」
洸太郎は真っすぐ彩美を見て言った。
「え、なんで知って――」
彩美の言葉を待たずに洸太郎は立ち上がり、窓のカーテンを開けた。
まだ日差しは差し込んでいなかったが、清々しさを感じる程に開けた視界と、全てを包むような澄んだ空気が充満する。
視線の先に、洸太郎の知っている世界はなかった。
洸太郎は少し潤んだ目を閉じる。
それから一つ大きく、大きく深呼吸をして新しい空気を肺いっぱいに取り入れると、新鮮な空気が全身に行き渡るのを身体で感じた。
そして鼻からゆっくりと、再び外の世界へ返していく。
彩美の横を通り過ぎる際、その場に立ち竦む彩美の肩に軽く手を置き、洸太郎は微笑んだ。
この状況を予想もしていなかったのか、彩美は驚きの表情を浮かべていた。
洸太郎がリビングの扉を開けると、忠と麻里がテレビを見つめたまま座っていた。
二人はまるで電池の切れた玩具のように固まっていて、洸太郎の存在に気が付くこともない。
洸太郎は二人に話しかけることなく立ったまま視線だけを動かし、報道されているニュースに耳を傾けた。
『――ご覧の通り、雨が降り止んでしまいました。これが我々の知る、神木様にまつわる話の通りだとすれば、これは千三百年以上振りのこととなります。自動車も電車も止まり、今はレインウェアも必要ありません。外に出ている人々の表情は途方に暮れているのがわかります。我々は千三百年以上、雨とともに歩み、大きな成長を遂げてまいりました。しかしながら、それは『歴史は繰り返す』というレール上での進歩に過ぎなかったのかもしれません』
感情を言葉に乗せて伝えるリポーターの声は震えている。
これが「歴史」なのか、はたまた「運命」だったのか。
人類はその捉え方を誤っていたのではないかと、洸太郎は思った。
そして場面は、水源寺へと切り替わる。
画面の中に、鳥居の前で多くの報道陣とフラッシュに包まれている高木がいた。
『この雨が降り止んだのは、神木様が枯れてしまったためと言われておりますが、実際に神木様は枯れてしまわれたのでしょうか――』
『中に入って確認させていただくことは出来ませんか――』
『宮司は神木様のお姿を確認されたのですか――』
『雨はまた振り始めるのでしょうか――』
高木の回答を待つこともなく、ただ乱雑に、質問だけがこだまする。
高木は暫く口を閉ざしたまま、声のする方向に身体を向けては頷いていた。
そして、雪崩のように押し寄せた質問が収まり始めた時、ようやく口を開く。
「えー、皆様。本日は朝も早くからありがとうございます。しかしながら、現状、私の口からお答え出来ることはございません。また、公共の電波を用いてのお願いで恐縮ですが、暫くの間、参拝にお越しいただくことをお控えいただきたく、お願い申し上げます」
そう言って高木は深く頭を下げた。
『ということは、やはり神木様に何らかの影響があったということで宜しいですか?』
『中にも入れないというのは、何かを隠している、そう理解して宜しいんですね?』
『神木様と最も近い存在にある以上、宮司には説明する義務があるとは思わないのですか?』
段々と標的が高木になっているような気がして、洸太郎は怒りを覚えていた。
報道するべきことは、もっと他にもあるだろう――と思っても、画面越しにはそんな言葉も届かない。
高木は報道陣の質問には答えることなく、改めて頭を下げると鳥居の奥へ戻って行く。
報道陣がその後を追わぬよう警察が間に入ると、中継はそこで終了した。
洸太郎は石段を上る足を一旦止めて振返った、高木の顔が気になっていた。
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