第5話

 神聖帝国。

 それは、かつての聖女とその聖守護騎士の子孫が治める国が、周辺の小国家群を次々に支配下に置き成立した、大陸の中央に広大な支配圏を誇る巨大帝国。

 そんな歴史的背景もあり、先代皇帝の代には、彼のハーレムに様々な国や地域から数多の美姫が送り込まれ、苛烈な寵愛争いとその後の後継者争いが巻き起こった。

 その結果、両手両足でも到底数えきれないほどいたはずの先代皇帝の子のうち生き残ったのは、当時少年から青年の境にいた現在の皇帝と当時はまだ赤子だった皇帝の同母の弟ハリーファのみ。


 ある者は心労からか病死、ある者は殺され、ある者はその罪で処刑され、ある者は不審死、ある者は祟りだ呪いだとしばし騒いだ後に怪死……。

 玉座に到るまでのそんな血塗られた道のりにすっかり疲れ果てた皇帝は、自らの後継を弟と定め、それに不満を持たない穏やかな気質の女性をたった一人の妻とし深く愛しているそうだ。


 初夏。そんな帝国の未来を担う皇弟ハリーファの一一歳の誕生祝が、七日間にわたって華々しく行われている。

 属国はもちろんのこと、友好国からもたくさんの招待客が訪れ、その中に、チュートリアルちょろ王子ことジェレミーと、彼のエスコートを受けるカーライル侯爵家の紅薔薇ことルクスがいた。


 ハリーファ登場予定時刻の少し前。

 ハリーファが、夜会が行われているホールの二階から階下の会場の様子を覗き見ている。傍らに立つのは、護衛のモトキヨ。


「ジェレミーが女神の化身だのなんのと宣伝していたからどれほどのものかと思っていたが、別に、普通に綺麗な普通の女だな」


 ハリーファは、遠目から見てルクスにそんな評価を下した。

 モトキヨはそんな主にとがめるような視線を向けるが、ハリーファはその程度では止まらない。


「しかし、ずいぶんとまあ取り巻きが多いな、あの女。そしてなんだあの、周りのやつらのデレデレした顔は。気持ち悪い。よほどの手練手管を持っているのか? ……もしあの調子で兄様にまで粉をかけるようなら……」


 勝手に悪い想像をして勝手な敵意をハリーファは抱きかけたが、その瞬間、ルクスの視線がふいに上へと向き、ハリーファのそれとバチリと合った。


 こちらに気が付いたらしいルクスがふわりと微笑んで、礼をしようとした。その刹那、なぜかハリーファは、『これをまともに見たらマズイ』という直感に襲われ、モトキヨの背に隠れてしまう。


「な、なんだあの女。あの笑顔。この距離で、あの一瞬で、あんな、あれ、なんか危ないやつじゃないか!?」


「……?」


 会場中の誰も彼もがルクスの歓心を得ようと、あれこれと話しかけているようだった。

 それらすべてより自分が優先されることなんて、普段のハリーファであれば、当然だとしか思わないはずなのに。

 なのになぜかその事実に高揚してしまい、生まれて初めて感じる動悸まで感じてしまいそうだったから、ハリーファは逃げた。

 モトキヨは、主の突然の礼を失した言動に、首を傾げている。


「も、モトキヨ。あの女、なにか変だ。普通じゃない。あまり俺様に近づけるな。兄様にもだ!」

「……」


 動揺を露わにしてよくわからない指示を出す主に、けれどそれに反対する理由も特にないモトキヨは、無言でうなずきそれを受け入れた。




 そんなわけで、モトキヨは、単独でジェレミーたちの元へと向かう。


 ジェレミーとハリーファは、ともに一国の主となることが決まっている立場同士であり、それぞれが背負う予定の国同士の関係も悪くはない。

 よって、それなりに親しく交流している。

 だから、何事もなければ、ジェレミーのパートナーも交えそれなりの時間歓談をする流れになるはずだった。


 しかし、『あまり俺様に近づけるな』と言われてしまった以上、ジェレミーのパートナーには遠慮してもらうしかないだろう。

 まずはあちらの礼を無視する形になった主の無礼を詫びて、そこからどうにかカーライル侯爵家の紅薔薇だけを遠ざけなければならない。

 口下手な自分に果たしてそれができるのか。人選ミスではないか。

 薄々そんな風に思いつつも、まあとにかく先ほどのハリーファの態度はいただけなかったし、彼を背に隠した自分から詫びておこう。

 そんなつもりで、モトキヨはジェレミーとルクスの元へと向かったのだった。


「あれ、モトキヨ、ハリーファは来ないの?」


 あと数歩というところで、モトキヨとの面識があるジェレミーがいち早くモトキヨに気づいて声をかけた。


「……」


 無言で首を振ったモトキヨの無口さはいつものことなので、ジェレミーは少しも気にしない。


「ふうん? 準備に手間取っているのかな。それにしたって珍しいね。君がハリーファと離れるなんて。ん? ルクレシア嬢に用なの? 君は主以外に興味のない人間かと思っていたけど……」


「先ほどは……」


 ジェレミーに軽く礼をしてから、モトキヨは深々とルクスに頭を下げた。


「ああ、上にいらした方ですわね。ええと、先ほどのこと? なら、それほど頭を下げていただかなくても平気ですわ。準備の途中というところに、私が邪魔をしてしまったのでしょうから」


 ルクスの柔らかな声に、モトキヨはそっと顔を上げ、そしてじっとルクスを見つめる。


 なにか変とまで言われるような理由があるようには見えない。

 侯爵令嬢という身分からも、ジェレミーのエスコートを受けている立場からも、今の穏やかで善良なご令嬢にしか見えない様子からも、ハリーファに近寄っても特に問題はないように思える。


 さて、詫びは済んだがここからどうこの人を排除するのか?


「モトキヨ、ルクレシア嬢が美しいのはわかるけど、レディをそうも睨むように見つめるものじゃないよ」


 ルクスを見つめたまま長考に陥る彼に、ジェレミーが呆れたように声をかけた。

 妹の姿には万人が見惚れて当然だと思っているルクスは、指摘を受け今度はぶしつけな視線に対するわびのため頭を下げようとするモトキヨを遮り、やわらかく微笑み礼をする。


「はじめまして。モトゥキョ、様、とおっしゃるのかしら? アークライト王国から参りました、カーライル侯爵家と申します」


「私は、ゲンジョーとでも……」


「? モトゥキヨ・ゲンジョー様とおっしゃるの?」


「ああ、違うよ。こいつの名前、ちょっと変わっていて発音しづらいから、モトキヨでもゲンジョーでもどっちで呼んでも良いって意味。なんか、大和の国の字には二つ読み方があって、同じ名前なのに全然違う様にも読めるんだって」


 ふしぎそうに首を傾げたルクスに、ジェレミーは笑って教えてやった。


「ああ、それは失礼を。私の発音が間違っておりましたのね。モ・・キ・ヨ。モトキヨ様ですね。大和の国の字で、モトキヨ、あるいはゲンジョー、ということは……、もしや、『元から』『浄める』という意味で、このように書かれるのかしら?」


 そう言ってルクスが、中空に指先で字を書くように動かすのを、モトキヨは信じがたい気持ちで見る。


【元浄】


 久しく目にする機会すらなかった祖国の文字で、正しく綴られた自分の名。

 それを、はっきりとしっかりと、ルクスは指でなぞって見せた。

 どれほどの教養があれば、そんなことが可能なのか。

 モトキヨは、感激に震える。


 異国人としてあまり良い目では見られず、島国の出身なのに同じ字を使う大陸の人間と間違われることも多くと、生まれを理解してもらえないことに苦しんできた彼は、かつて主に命を救われた時に匹敵するようなそんな感動を、覚えずにはいられなかった。


 実際のところルクスは、前世の知識を持つルーシーから、攻略対象者であるモトキヨの名前に関することだけをピンポイントで教えられただけなのに。

 ルクスは、大和の国の字も読み方も、これしか知らない。

 モトキヨがそう考えたように、大和という小さな島国の文字にまで精通しているほど、広く深い教養を身に着けているわけではない。

 しかし、モトキヨにとってはもう、ルクスはそういう存在としか考えられなくなっていた。


「ああ、ああ、ハリーファ様のおっしゃった通りです。ルクレシア・カーライル嬢は、普通ではありませんね。なんて、なんて素晴らしいお方なのか……!」


 感激のあまり饒舌に高らかにそう述べたモトキヨに、ジェレミーはぎょっと目を見開く。


「いえ、ただの偶然ですわ。その、実は、大和の食べもの、米や味噌や醤油などに興味があって、あれこれと調べていた時期がありますの」


 ルクスは、実に良い笑顔で『実は』の後ろに入るべきだった『ルーシーが』をしれっと省略して言った。

 哀れモトキヨは、大和の字や文化に精通するほどにそれらに興味を持っていたのかとますます感動し、更に饒舌に言う。


「米、味噌、醤油。ええ、ええ、大事ですよね! もうこれは大和の魂のようなものでして、ご興味を持っていただけただなんてなんと光栄な! 実はですね、全て神聖帝国までは来ているのですよ。ただそれほど量が入る輸入品ではないので、私はハリーファ様に願って給与の一部をこれらの現物支給といただいておるのです」


 ルーシーがずっと熱烈に欲していた物を、この人は定期的に手に入れている。

 その事に気が付いたルクスは、まあ、と両手で口を覆ってから、その手を祈りの形に組み直し、モトキヨを上目遣いに見上げた。


「そ、その、大変図々しい願いではあるのですが、それらをほんの少し融通していただくことは難しいでしょうか……?」


 ルクスの期待に満ちたキラキラうるうるの瞳と愛らしい懇願、それらに祖国を誇る気持ちを大変に刺激されたモトキヨは、どんと胸を叩いて返す。


「ルクレシア・カーライル嬢のためならば、少しと言わず今ある残り全てをお分けしますとも! ああ、いや、実際に食べられたことがないと、どうでしょう、お口に合わないやもしれませんが……」


「いえ、いえ、きっとおいしく食べさせていただきますわ! ずっと、ずっと、それはもうずーーーっと、憧れて、調べて、渇望していたのですもの……!」


 ルーシーが。

 やはりそこを端折って、ルクスは心底嬉しそうに言葉にした。

 モトキヨの豹変に愕然とし絶句するジェレミーを置き去りにしたまま。


 ついでに、モトキヨはこの時にはもうすっかり主の命令など忘れ、『むしろこの素晴らしい方を一刻も早く我が主に紹介せねば!』という気持ちでいっぱいになっていた。


 後日。

 こうして手に入れた貢ぎ物の米と味噌と醤油を、ルクスルーシーに丸っと転送。

 前世日本人であったルーシーは、喜びに喜んで感動のままに、兄へどう食べたかいかにおいしかったかのレポートを送付。

 ルクスはそれをほぼ丸写ししてお礼状を書いて、ついでにこの上なく妹が喜んでくれたのでとても嬉しい気持ちを丁寧に込めて、モトキヨへと送った。


 まるで同じ祖国出身の人間が書いたかのような、喜びと感動が生き生きと伝わってくる、とても心の籠った、また大変よくわかっている礼状を、黄金の髪の美しい侯爵令嬢から送られる。

 そんな経験をしてしまったモトキヨは、もう、完全に、どうしようもない程に、ルクレシア・カーライル侯爵令嬢の信奉者へとなり果てていた。

 魂の糧とまで呼び、これまで誰にも譲ることのなかった米もなにもかも、自分の持てる全てを捧げたくなってしまった程に。

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