第5話 大衆の禁句は随分と皮相であり無感情に崇められている

「わ!なんだこれ」

 二つ巴の社員バッジがゼノの右掌に貼り付き、彼は苦虫を噛んだような顔をする。

「もう取れねえらしいよ、それ」杏斗が苦笑しながら伝えると、彼はさらに渋い表情になった。

「まぁまぁ、いいじゃない。これからよろしくね千牙くん」

「はぁ……不束者ですが」

 ――浅草駅での事件から、一週間が過ぎていた。ゼノは彩極たちを信用するようになってから日を追うごとに馴れ馴れしくなり、毎日のように遊びに来る年上の杏斗とは、もはやただの友達になってしまった。

 今はまだ秘密結社という名の飲みサー。治安維持の仕事と言えば、ときどき彩極がひとりで調査——なんの調査かは教えられていないが――に出かけるのみで、杏斗はそろそろ現場に潜入なりしないとニートになってしまうと感じていた。事実、貯金の減りは想定より遥かに速い。このままでは生活補助のお世話に……。

「無職はいやだ……千牙ぁ、養ってくれよう」

 胸のバッジを叩きながら、悲壮な想像に目を瞑った。



「めっちゃ甘いなこれ」

 ゼノは開店前、朝五時の喫茶店でせわしなくゼリーを頬張っていた。

「喉つまらせないようにな」

 杏斗は笑いながら隣のテーブルを拭いていた。

「蒟蒻以外のゼリーで喉つまる奴いるのかよ」ゼノは視線を移さず呟くと、残り少なくなったゼリーをかきこんだ。

「なあ、伊央。お前なんで警官やめたんだ?」

「飲み込んでから喋れよ……まぁ、そうだな。やめなきゃ死ぬと思ったからだ」

「こっわ。でもよ、辞めるより内部から改革してったほうが現実的とか思わなかったのか?」

「ないな。お前らが思ってるより俺達一般ポストには発言権がないんだ」

「でも、結託したらある程度の意見は通るはずだ」

「警視庁とて一枚岩じゃない。そう見えるのは数えきれない偽造と隠蔽が繰り返されただけの結果、まやかしの結束だ。実際には上層部という脳味噌が現場を動かしているだけ。お前もいずれわかるさ」

「今の警察まわりはそんなことになってんのか。どうりでメディアが潜入に躍起になってるわけだ」

「そうだな。デカい情報操作が幾つか明るみに出れば日本の信用もガタ落ちになる。それによって被害を被るのは自衛手段を持たない無能力者——五千万人の一般人だ」

「ただでさえ問題が山積みで評判が悪いのにな。お前みたいに」

「急に喧嘩売ってくるんじゃねえ」

 笑い飛ばして空になった皿を運んでいると、大きな鈴の音と共に誰かが店に入ってきた。

「あれ、仲良く堕落してるじゃない、出会ったばっかなのに」

 開いた扉の前で驚いたような声を上げているのはリアだった。彼女は殆ど毎日バイトが入っていて、この喫茶店に来るのは先週ぶりだった。

「あ、リアさん、どーも」ゼノがわざとらしい片言で呟く。

「どんもー」リアは物色するようにふたりを眺め、ずっしりと傍らの椅子に座り込んだ。

「伊央くんの洗い物が終わってからでいいけどさ、けっこう真面目な話があって来たの」

「え、なんですか?」杏斗はまだ洗っていないグラスを放り投げてテーブル席の方へ戻った。

「お仕事なんだけど」リアはおかしそうな呆れ声でいった。「ふたりともヒマそうだからさ、今起きてる立てこもり事件の現場に行って来てくんない?」

「立てこもり事件?」ゼノが身を乗り出す。

 リアはもったいぶってから、地図と数枚の写真をテーブルへばらまいた。

「川崎の映画館内にいた無能力者を人質にとって、何か図っている馬鹿がいる。警察はまだ事件を掴んでいないから、はやいとこ解決してきて」

 テーブルの上に乗った写真には、監視カメラに映った被害者らしき人物が散見された。杏斗は流し見しながら溜め息をついた。

「しょーもねーな。洗い物のほうが大事だったかもしれない。ゼノ、さっさと行ってこようぜ」

「待て」席を立とうと焦った杏斗をゼノが制する。「その立てこもり犯の写真、見せてもらっていいですか」

「え、ああ、いいよ」リアは思い出したように懐から写真を取り出した。

 何年も使い回されたように折れ曲がっているその写真には、ほかとは明らかに違う光彩が入り込んでいた。そこに映っている男を目に入れた瞬間、杏斗はこれでもかというほどに目を見開いた。

「こいつ……知ってる野郎だ。生きていたのか」

「ああ」同時に写真を覗き込んでいたゼノが眉を寄せる。「俺も知ってる」

 ふたりは顔を見合わせ、また写真へと目を落とした。

「え、知り合い?」リアが困惑の声を上げる。

 それを尻目に、ゼノが顎を撫でた。

「……飛来旋ひらいめぐり。十年以上前に名を馳せた暗殺者です。俺の先輩にあたる人間で、子供のころ何度か話したことがあります」

「へー」

「俺もアサシン関連の事件で何度かこいつの顔を見ました」杏斗も続けざまにいう。

 思いがけない男が関わっているものだ。飛来は昔から警察の腐敗を追及していた数少ない人間であり、杏斗もそこそこに影響を受けた相手である。

「なんでこんな馬鹿みたいな事件起こしてるんだろな」不思議に思ったが、ゼノも「知るか」と肩をすくめただけだった。

「それじゃあ早めに片付けてきてね。社長が人間ドックから帰ってきたら、多分なんか奢ってくれるから」

 そう親指を立てたリアに「了解」と返すと、杏斗は勢いよく立ち上がって地図を取り、まだ日が昇り切っていない外へと駆け出していった。

「おいおい、俺を置いてくなよ」

 ゼノは悲壮な顔になり、リアへ小さく手を振ったのちに杏斗の後を追いかけていった。

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