203 頼りになる男
そして、僕は要求通り、粛々と『絨毯』を差し出した。
選択肢はなかった。心臓が緊張に強く鳴っている。
俯く僕に、丸めた絨毯を片手に握った長身の狐面のお兄さんが言った。
「確かに、受け取った。これに懲りたら二度と迷い込んでくるんじゃないよ」
「僕の……意志じゃない。君たちが僕たちを轢いたんだ……」
心の底からの僕の言葉に、狐面は余り信じていなさそうな様子で肩を竦める。
「同じことだ」
彼らの公平は僕たちにとって公平ではない。彼らがいくら口で言っても、これはただの宝物殿のルールである。僕たちに適用されるルールではなく、彼らが動くルールだ。
例えば、僕に力があったら彼らを力づくでどうにかして、大事な物を差し出す必要もなく無事脱出する事ができただろう。だが、これは仕方のない事だ。
別れの挨拶はなかった。視界が前触れなく切り替わり、狐面のお兄さんが消える。
まるで全てが幻だったかのように――目の前には元いた場所、見覚えのある飛行船の廊下が広がっていた。
窓の外には雲ひとつない青空が広がっている。宝物殿を抜けたのだ。
僕はそれを確認し、大きく息をついた。僕たちは、ほとんど生存者のいない災害を最小限の被害で乗り越えたのだ。絨毯は尊い犠牲であった。
【迷い宿】はこれからどこに行くのだろうか……不明だが、空を飛び続けるのならば今後僕たちが遭遇する事は二度とないだろう。二度とない事を、祈らざるを得ない。
遠い目で窓を見る僕の(おそらく哀愁漂っているであろう)背中を、クリュスが不意に掴んだ。
白んでいた顔には赤みが戻っている。どうやら、もう吐き気も残っていないようだ。もしかしたら器が成長したのかもしれない。
「お、おいッ! ヨワニンゲン、お前何考えてるんだ、ですッ!」
クリュスには悪いことをした。だがあの瞬間、僕は確かにクリュスの事が一番大切だったはずなのだ。
それが、僕が考えてもいなかった絨毯だなんて………………あの狐面の読心、精度高いなあ。
「ま、まぁ、落ち着くんだ。きっと仲間割れを狙った彼等の策だッ!」
「ヨワニンゲン、お前私の事を馬鹿だと思っていないか、ですッ! 本当にいい加減にしろよ、ですッ!」
そんな事ないよ……でも、今回は申し訳ございませんでしたあああああ。
クリュスにはなんかもう色々申し訳ない。僕に出来ることは何でもやるつもりだ。だが、僕は真面目な顔を作り、クリュスに言った。
「でもクリュス、争っている場合じゃない。今は皇帝陛下の様子を確認するべきだ。狐面の言葉は信用出来るけど、それが一流のハンターってもんじゃないか?」
「…………お前、いい加減にしないとパンチするぞ、です」
§
宝物殿に飲み込まれた時は構造が宝物殿に上書きされていたが、解放されたことで何もかもが元に戻ったらしい。それが彼等にとっての公平だったのだろう。
記憶に従い、飲み込まれる寸前に集まっていたホールに向かう。
廊下のそこかしこには人が倒れていた。騎士、文官、使用人、魔導師。おそらく幻影にやられた者ではなく、テルムにやられた者だろう。
一人に駆け寄ったクリュスが、脈を取り瞳孔を確認し、心臓の音を聞いて、呆然と言う。
「生きてる……まだ生きてるぞ、です。意味がわからない、です」
テルムの手腕は間違いなく一流だった。そんな魔導師にやられた者たちが治療もされていないのに、僕たちが宝物殿でぐだぐだやっている間、生き延びられるとは思えない。
他の者たちの様子を確認したクリュスが呟く。
「そうか……マナ・マテリアルの力…………か」
なるほど……納得だ。
吸収したマナ・マテリアルは人の体をより強靭にする。魔力を求める者には魔力を、力を求める者には力を、スタミナを求める者にはスタミナを、守る力を求める者には守る力を与える。もしもそれが死にかけの人間だったら、強化されるのは生命力になるだろう。
本来、マナ・マテリアルが人の身体を作り変える速度は緩やかだが、【迷い宿】のマナ・マテリアルはとにかく濃度が濃かった。何が起こってもおかしくはない。
一般人でも強化されるのに強化されない僕は一体どうなっているのでしょうか……。
あるいは、狐面が何かをした可能性もある。彼等は僕の仲間を全員無事に帰すと言った。生きている間に宝物殿に入った者が帰る時に死んでいたらそれは無事とは言えないだろう。まぁ、もはやその真偽については知る術はないし、どちらにせよ不幸中の幸いと呼べる。
本格的な治療は皆の無事が確認できてからだ。とりあえず命には支障がない事はわかったので、ホールに向かう。
ホールは僕たちが出ていった時とは何一つ変わっていなかった。
「戻ってきたか、《千変万化》……外の様子だと、解決したようだな」
皇帝陛下が僕を見て開口一番に言う。他の面々は皆死にそうな表情をしているのに未だ威厳を保てているのはさすが大国の長というべきか。
フランツさんも今は僕を睨みつける余裕はないようだ。身を起こし、幽鬼のような表情でふらつきながらも立っている。
僕はさっと部屋の中を確認し――皇帝陛下の後ろに隠れている暴れん坊絨毯を見つけてほっと息をついた。
よかった……誰一人いなくなっていない。クリュスが身を震わせ、僕の耳元で囁くように恫喝してくる。
「お前、ほんといい加減にしろよ、です。失敗したらどうするつもりだったんだ、です」
いや、あいつ絨毯としか言ってなかったし……。
良かった……恋人用の絨毯を買っておいて本当によかった。
§ § §
しかし、人間というものは本当に意味不明だ。特に危機感のないあの人間はよくわからない。
【迷い宿】のナンバー2。大いなる母狐に代わり、全体の統率を行っている狐面は手に握っていた青い絨毯を放り捨てた。配下の一人がそれをそそくさと拾い、倉庫に運んでいく。
一番大切な物というのは人それぞれだ。物が大切な者もいれば、命が大切な者もいる。そして――思い出が大切だという者もいるだろう。だが、沢山仲間がいたはずなのに、強力な母狐の尾を手に入れたはずなのに、絨毯という回答が返ってくるのは流石に理解不能だった。
【迷い宿】に入ってくる者は稀だ。前回、あの人間が訪れてから【迷い宿】を訪れる者はいなかったので、大切な物を徴収するのは初めてである。
だが、隣にいた精霊人から読み取れた『大切な物』は狐面でも理解できる至極真っ当なものだったから、やはりあの危機感のない人間の感性はおかしかったのだろう。
もしかしたら誰かの形見だったのだろうか……本来取り立てるはずの物と比べればかなり劣るし、とても価値がある物だとは思えなかったが、長身の狐面は気にしなかった。
必要なのは代償だった。狐面にとっての価値などどうでもいいのだ。どんな物でも人でも、【迷い宿】にとって大して価値はない。唯一、尾を取り戻せればそれがベストだったが、それを返そうとしても母狐は受け入れないだろう。
だが、対策は必要だ。この短時間で二度も【迷い宿】に遭遇するなど、尋常ではない。
よほど運が悪いのか、あるいは【迷い宿】の隠蔽能力を越える力を持っているのか……それにしては無抵抗極まりないが、このまま空を行くのは余り良いとは言えないだろう。尾を取られるごとに【迷い宿】は大きく弱体化するのだ。
だが、絶対に人間のこない秘境に向かうのもよくない。今回、末弟が暴走したのも殺されたのも、人間に慣れてなさすぎたからだ。難しいところだった。
しかし、今回は勝てる勝負だった。勝てなくても、引き分けには持っていけるはずだった。ルールは絶対だが、狐面達に穴を突けないわけではない。
狐面は小さくため息をつき、深奥――人間の言うボス部屋に向かう。部屋の中では、『母さん』がふてくされたように丸まっていた。
「母さん、負けたんだね。僕がせっかく『案内』したのに」
遭遇とは偶然に出会う事。言葉尻を捉えるようなものだが、偶然でなければルールに反しないと考えられる。そうなれば、少なくとも前回去る際に投げかけた言葉に縛られる事はない。
狐面の言葉に、母狐――『かつて神と呼ばれた狐』の幻影は、目を細め、頭をあげた。かつて十三本存在した尾は二本取られ、後十一本しか残っていない。だが、それでもその力は絶対的だ。その一挙手一投足には人間を千回殺しても足りぬだけの力がある。
母狐が身を震わし、目を細め言う。
『あの男、矮小な身でこの我に情けをかけようなど……我慢ならぬわ』
声には強い怒りが含まれている。その言葉に、長身の狐面は納得した。
それは、知恵比べですらなかった。勝負にすらなっていなかった。
遥かに次元の低い存在に情けをかけられ勝ちを譲られるなど、神にとっては負けを認めるよりも屈辱だろう。
やはり、あの危機感のない人間は――切れ者だ。危機感がなさすぎて逆に相性が悪い。並の人間ならば圧倒的有利な状況を自ら捨てる事などできないだろう。
そしてしかし、余りにも違いすぎる宝物殿を踏破するにはそういう純粋な力とは別方面の能力が必要になるものなのだ。
「危機感さん達は約定に則り解放した。僕たちの進路を変える必要があるかもしれない」
母狐は何も言わなかった。ただ輝く目で狐面を見ている。
狐面は肩を竦め、続けた。
「約定は守った。それ以外は関知しない。彼らは――落ちるよ。興味深い乗り物だったけど、駆動装置が破壊されていた。今まで落ちなかったのは僕たちに引っかかっていたからだ」
『……口を出すつもりはない』
母の尾を取られた。恨みはないが、何も感じるところがないわけではない。
興味深い人間ではあるが、助けてやる義理もなかった。
【迷い宿】で生まれ落ちた幻影はとても公平だ。狐面は笑みを浮かべる。
「では、僕は残された二人から代償を取りに行く。母さんはしばらく休んでいるといい」
§ § §
変化は唐突だった。飛行船が大きく震え、傾いた。
斜面となった床を、フランツさんが転げ落ちる。快適なのは僕だけだった。
「!? まずい、落ちてるぞッ! ですッ!」
「!?」
無事に解放するのではなかったのか!? だが、クリュスの言う通りであった。
実際に飛んだ時にはなんで飛んでいるのかわからないが、落ち始めたら落ち始めたでとても困る。
まだ乗組員の治療も済んでいなかった。生存は全員確認したが、動ける者は極僅かだ。(ちなみに、テルム達はいなかった。逃げたのかもしれない)
「クリュス、魔法でどうにかできないの?」
「魔法はそんなに万能じゃない、ですッ!」
「それは……想定外だな」
僕は騒いでも何もならないので、がたがた揺れている床にどっかり座り込んだ。
やっぱり落ちるのか……僕には空飛ぶ絨毯もあるし、結界指もあるので落下死の心配はないが、他の連中がまずい。マナ・マテリアルに強化された人間は頑丈だが、この高さから落下したらアンセムでもない限り普通に死ぬ。
自分で対抗手段を持っている者もいるだろう。だから全員は死なないと思うが、この船には非戦闘員も乗っているのだ。
「フランツさん達って落ちても大丈夫な人?」
「!? なわけ、あるかッ!」
フランツさんのツッコミにもキレがない。ちょうどそのタイミングで、フランツさんの部下が戻ってくる。
「ダメです、パラシュートも全て破壊されていますッ!」
テルムの奴、随分手際がいいな……過去に戻ってメンバーを選ぶところからやり直したい。
とりあえず、暴れん坊カーペットを使えば皇帝陛下と皇女殿下くらいは助けられる……と思う。キルナイトは……クリュスに任せよう。何人かは結界指を貸してあげても良い。だがそれだけやっても助けられるのは極僅かだ。
「墜落のタイミングで死ぬ気でジャンプすればなんとかなるか?」
半ば本気で出した言葉だったが、騎士たちが青ざめる。フランツさんが這いつくばりながら僕に言った。
「《千変万化》、貴様は陛下をどうにかしてくれッ!」
「……フランツさんって顔に似合わずいい人だよね」
「!? 殺すぞッ!」
「まぁ落ち着いて、まだ時間はある。僕の魔法が覚醒するかも知れないし、水に落ちる可能性もある」
「ここはもう砂漠だッ!」
「……そうだ! ベッドがあっただろ? シーツを手と足にくくりつけてムササビのように滑空するとか……」
「ヨ、ヨワニンゲン、お前、本気で言ってるのか、です!?」
「……落下くらい頑張って耐えなよ」
「レベル8と一緒にするなッ!」
僕の名案がことごとく却下されていく。《嘆きの亡霊》のメンバーだったら受け入れてくれるのに。
立ち上がり、窓から外を覗く、もう地面がはっきりと見えていた。砂漠だ。フランツさんの言う通り砂漠である。後何分で墜落するのかはわからない。
「……砂漠の砂って柔らかそうだなあ」
「お、おいッ! まさか、打つ手がないのか?」
「……皆、僕の事を頼りすぎだよ。自分で少しは考えるべきだ。だから落ちるかもしれないって言っておいたのに……」
こっちはさっきから必死で魔法を使って飛行船を鳥にしようとしているというのに……。
そりゃレベル8なんだから頼ってしまうのも仕方ないかもしれないがね、自分の命なんだから自分で守らないと……。
とりあえず、皇帝陛下と皇女殿下は絨毯で助ける。いや、待て。皇帝陛下は結界指を使えるから、皇帝陛下には結界指を渡してフランツさんを絨毯に乗せた方がいいかな。クリュスはツヨノウブルだからなんとかなるだろう。
それ以外のメンバーは……やはり着陸のタイミングでジャンプか。飛行船は上部が風船なので、全く根拠がなくて申し訳ないのだが跳ぶ場所によっては生き延びられそうな感じがしなくもない。無理?
凄い重圧を感じる。皆、僕が名案を出すのを待っているようだ。今度から飛行船の乗客は落ちた時に生き延びられるメンバーだけに限定するべきだと思う。
と、そこで僕は目を見開いた。
窓の外に――シーツおばけが飛んでいる。ボロボロのシーツを被った者たちが冗談みたいな大きな凧に乗って飛んでいる。馬鹿げた光景だった。
どうやら宝物殿には巻き込まれずに済んだようだ。僕はハードボイルドな笑みを浮かべ、指を鳴らした。
「仕方ないなあ、僕がなんとかしてあげよう」
僕はシーツおばけ達を眺めながら、必死に思念を送った。
ルシア! 魔法で飛行船を浮かせるんだッ! ルシア、君ならできるッ! 飛行船なんてでかい風船みたいなもんだッ! 一生のお願いだ、なんとか飛ばしてくれッ! るしあああああああああッ!
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