1.蝶
ここカナリーグラスは、有名な大学と医療センターのある大きな街だ。
大学の名はウィルアーナユニバーシティ。
通称ウィルユニバースと呼ばれている。
この大学に入るには、努力や運だけでは無理だ。
難題な試験を突破した後は、約40億個ある脳細胞とその複雑な精神の脳髄を調べられ、各、どの学部に向いているのか、どの部門に適しているのか、その結果により、進む道が決められる。試験が良くても、脳のあらゆる知能指数が一定以上であり、プラス何かが優れていなければ、生徒にはなれない。
この大学を継いだウィルティス・イオンと言う男。
未だに現場から離れず、様々な研究を続けている。
彼を博士と呼ぶ者もいれば、教授と呼ぶ者もいる、または当たり前のように先生と呼ばれている。
それが彼の選んだ道なのだろう、決して、上過ぎず、下過ぎず、身近過ぎず、遠からず。
そんな場所で、全てを把握しているようだ。
そして、彼には双子の息子がいる。
まず一人、ウィルティス・シーツ。
双子の弟にあたり、ウィルユニバースで生物学の研究員をしている。
幼い頃から、彼はウィルユニバースの生徒として迎えられ、そして、今、その地位なのだ。
弟の方は出来のいい息子で、礼儀正しく、笑顔を欠かせず、頭も良く、人に優しく。
簡単に言えば、世渡り上手。
だが、兄より、野心家だと言う噂もある。
そして、ウィルティス・シンバ。
兄である彼はウィルユニバースで科学の研究生である。
だが、授業に出ている所など、滅多に見れない。
それでも首席で通っている。
弟に比べると、愛想もなく、簡単な挨拶などを交わせる社交性もなく、頭が良くても、人として出来損ないだと言うレッテルを貼られている。
だが、弟想いの優しい兄だという噂もある。
あくまでも、噂だ。
二人、容姿はそっくりだ。
髪の色はブラウン、瞳はアンバー。
何故か、双子と言う者は髪型迄、似ている。
無造作に段差のある髪型。
当然、双子だから、髪質、生え際など、ソックリな訳で、自分に合う髪型にすれば、似てしまうのだろう。
そして、今、大学の外に出て、医療センターに向かっているのは、兄、シンバの方——。
医療センターの前で、足を止める。
そこには、医者が一人、退院する子供を見送っていた。
「本当にありがとうございます!」
元気になった子供に、感謝しきれない様子の親。
「先生は神様です!」
「ハハハ」
乾いた笑い声で、顔は全く笑っていない医者に、
「先生、フレダー先生、どうもありがとう」
子供が無邪気にそう言った。すると、
「いいえ、大きくなって、サッカー選手になったら、是非、サインを下さいね」
優しい笑顔で、そんな台詞を吐いた。
まるで乾いた笑い声を出したのが嘘のような変わりよう。
ルシェラゴ・フレダー。
二枚目風の謎めいた男だ。
子供は何度も振り返り、フレダーに手を振る。
親は何度も振り返り、フレダーに頭を下げる。
それを、只、突っ立って、見送るフレダー。
「んっ! んんんッ!」
シンバの喉の咳払いに、フレダーは振り向いた。
「神様、また頭が痛いんです」
「おや、それは残念、私は小児科医ですよ」
笑った顔で、そう言ったフレダーに、
「神様って割りにせこいね」
と、呟き、シンバは院内へ入る。後に続くようにフレダーも入る。
子供がウジャウジャいる待合室を通り過ぎ、幾つもある診察室の中のひとつ、第3診察室に入る。
ナースが、
「先生、ルシェラゴ先生、次の患者をお呼びしても宜しいですか?」
と、診察室へと顔を出した。
「いや、手が離せないので、他の先生に患者を引き継いでもらって下さい。外来の患者は初診の方もいるので、私でなくても大丈夫でしょう」
そう答えると、ナースは頷き、診察室の扉を閉めた。
「で、ウィルティス・シ・・・・・・」
「シンバ。シーツがこんな態度な訳ないだろう? アンタ、俺達の赤ん坊の頃からのかかりつけの医者なんだから、いい加減、覚えろよ。つーか、マジで小児科って何歳までオッケィなんだよ? 俺、いつまでアンタに診られるわけ?」
「そうですね、親が子離れした時でしょうか。イオン博士の大事なお子さんですからね、頼まれている以上は私がずっと永遠に診ますよ。それでシンバ君、今日は?」
「・・・・・・頭が痛いんだよ。もうあれからずっと」
「・・・・・・あれからねぇ」
「蝶の羽の模様が頭から離れない・・・・・・」
「蝶の羽の模様ねぇ・・・・・・」
それは数日前の事だった。
生物学生はリーフウッド大陸に向かった。
海に囲まれた大きな島大陸。
そこは楽園とも言われている場所で、この世界で、唯一、人の手が加えられていない緑多き大陸である。
そこでは新種の動植物の発見も多ければ、全滅したと思われる動植物の再発見も多い。
その日、研究員のシーツは、学生達の引率として、その大陸へ行く予定だった。
だが、朝から熱を出してしまい、休むしかなかった。
只の野外授業のようなものだが、学生達と同年齢のシーツは、研究員として、ここは出ておく必要があると、シンバに願った。
シーツは学生達に、隙を見せたくないのだろう、熱が出て休むなど、有り得ないと。
シンバはその願いを聞き入れ、シーツに成り済まし、研究員として、野外授業に出向いた。
その授業で、とんでもないモノを発見する。
何をする訳でもなく、大陸に着いたシンバは、ぼんやりと散歩気分で歩いていた。
ヒラヒラとシンバの目の前を舞う蝶に、ハッとして、気付く。
——あぁ、昆虫、か。
その美しい羽の色と模様は見た事がない。
「ウィルティスさん、こっちに蝶が飛んで来ませんでしたか? 新種かもしれないんです」
「ああ、あっちへ飛んでいった」
「ありがとうございます」
何人かの研究生がシーツだと疑いもせず、シンバの指差した方向へ走って行く。
シンバは、その場から離れ、人気のない場所で手の中の蝶を放した。
「ラッキーだったな、俺がシーツだったら、お前は捕まって、針で殺されてたぞ?」
ヒラヒラとシンバのまわりを舞う蝶。
その時、足場が土砂崩れとなり、そこから10メートル程、滑り落ちた。
「うわあぁぁぁーーーーーー!」
10メートル程落ちた位で、その悲鳴は大袈裟だった。
「なんだ? どうした?」
その大袈裟な悲鳴を聞きつけた連中が直ぐに駆けつけて来た。
「大丈夫か? あれ? ウィルティスさん!? おい、ウィルティスさんが落ちた! 誰か急いでロープを・・・・・・ロープ・・・・・・おい・・・・・・おい、あれ、なんだ?」
土砂崩れとなった場所から何か発見したらしい。
シンバは落とされたロープで上へ登り、自分が落ちた場所より、更に下を覗き見る。
土砂崩れの所為で、かなり下迄開けて見える。
シンバは運良く大きな木の根に落ちたようだ。
そしてシンバ達はビレッジを発見した。
この大陸に人が住んでいる。
それは大発見だった——。
「リスティア・フィン・クロリクさんでしたっけ? 綺麗な人ですよねぇ?」
「あ? あぁ、確か、そんな名前だったかな?」
「彼女、ビレッジの者なんでしょう? しかもウィルアーナに協力してくれるそうじゃないですか、ルティア文字でしたっけ? その文字も集落の者達が使う文字だそうですねぇ?」
「らしいけど」
「歴史、変わりそうですね」
「俺には関係ないよ、それより頭が痛いんだ」
「でも蝶のおかげじゃないですか、その蝶は助けてくれたアナタに手柄をくれたんですから」
「俺じゃないよ、あの時、あの場所にいたのは、シーツだ」
「じゃあ、あの時、アナタはどこに?」
「・・・・・・寝てたんじゃん? 熱出して」
「成る程。でも蝶の羽模様が頭に鮮明に残り、それ以来、頭痛がすると。熱による幻覚症状でしょう」
「頼むよ、真面目に診てくれ」
「診てますよ、只、その蝶が新種ならば、鱗粉に毒性があるのか、ないのかも、わかりませんし、土砂崩れとは言っても、頭を打っている訳でもなく、精神的ダメージを受ける程の事故でもありませんし、幻覚症状と言う他ないでしょう? 幻覚を見る時、頭痛を伴う事もありますから」
「・・・・・・それだけじゃないんだ」
「はい?」
「それだけじゃない。何かわからないけど・・・・・・」
「何かとは?」
「・・・・・・わからない。思い出せない事ばかりだ」
「思い出せない? つまり、記憶喪失と言う事ですか?」
「記憶? そうかもしれない。見た事もない映像や音、全ての五感が感じているのに、わからない」
「成る程」
「ハッキリした事なんて何もない。確かな物なんてわからない。でも頭の中で蝶が舞うのが見えると、頭が痛み出す・・・・・・」
「成る程」
「何か思い出せそうになると、必ず蝶が舞う。蝶の羽模様までハッキリ見える。夢の中にまで現れるんだ、蝶が——」
「成る程。シンバ君、この病院には精神科と言う所があるのをご存知ですか?」
「精神科に行けって?」
「まさか。言ったでしょ? イオン博士に任せられている以上、私が担当医です、只、私、精神科医になりたかったんですよ。なれると思っていましたしね。まさか小児科なんてね。わかりませんよね、自分が何に向いているのか、絶対に向いていないと思い込んでいるだけなのか。だが、ウィルアーナは残酷だ。夢を簡単に壊すのだから——」
「精神科医か。小児科より合ってそうだけど」
少し笑いながら、そう言ったシンバに、
「私もそう思いますよ」
と、笑顔で頷くフレダー。
「だけど、体力のない子供の手術や小さな細胞迄も、うまく操れるのは、アンタだけだって聞いてるよ。子供の脳の手術なんて得意なんだろう? 外科医に任せずに時と場合によってはメスを持つって聞いたけど? やっぱ向いてんだよ、こっちが」
「向き不向きと言う話よりも、私は夢の話をしているんですよ」
「夢?」
「そう、私は精神科医になりたかったんですと言ったでしょう? つまり、これはチャンスですよね? 貴方が私に与えたチャンス。私の夢が叶う時——」
「はぁ、俺を精神科医として診てくれるって? 有り難いね、そりゃ」
そう言った後、シンバは額を押さえ、俯いた。
「痛みますか? 頭痛薬、もらって来ましょうか?」
「いや・・・・・・」
大丈夫と言おうとして、シンバは顔を上げたが、言葉を失った。
「どうしました?」
「・・・・・・アンタ・・・・・・目がおかしいよ・・・・・・?」
「はい? 私の目が?」
フレダーは自分の目に異常がある事に気が付いていない。
いや、異常など、なさそうだ。
フレダーは白衣の内ポケットから小さな手鏡を出して、自分の目を見てみるが、何ら変わりはない。痛くも痒くもない。
「私の目がどうかしたんですか? 別に変わりはないですが」
「目の色が——」
「色?」
「・・・・・・あ、いや、見間違いだ」
シンバはそう言って、自分の目を擦り出した。
「シンバ君、もしかして、色の識別ができないんですか?」
「まさか。そんな大袈裟な事じゃない」
「そうですか? 一度、ちゃんと検査しましょうか。もしかしたら、本当に蝶の鱗粉にやられたのかもしれません。蝶の中には、そういう幻覚を引き起こさせる鱗粉を撒くのもいるんです」
「あぁ、じゃあ、今度、ゆっくり出来る時にでも」
シンバはそう言うと、診察室を出て行こうとする。
「シンバ君、頭痛薬、出して起きますよ、帰りに薬局に寄って下さい」
フレダーが、シンバの背にそう言うが、シンバは見向きもせずに、部屋を出て行った。
「相変わらず、無愛想だ」
そう呟き、机の引き出しからファイルを一冊取り出して、シンバの様子などを書き止めるフレダー。
ファイルには会話ひとつひとつまで、細かく書かれている。
シンバとシーツが生まれた時から、ずっと2人の担当医をしているフレダーは、2人が赤ん坊の頃からの記録を欠かせない。
シンバは薬局へと足を向け、頭痛薬をもらうと、大学へと戻る。
——薬、また飲まなきゃダメかなぁ。
——ちょっと病気っぽいと直ぐに薬、薬、薬。
——多分、俺、アーリスで薬漬けの人間第5位くらいに入るかも。
「あ、シーツ君、丁度よかった」
その声に振り向くと、ザタルト・エノツ。
シンバの子供の頃からの親友だ。
エノツは落ちそうな眼鏡をクイッと上げながら、近付いて来た。
「これ、出来上がったんだ」
と、笑顔でシンバに差し出してくる。
「俺はシンバだ」
「あ、シンか。ははは、間違えた。こんな時間にシンが大学にいると思わなかったんだよ」
「いちゃ悪いのか?」
「まさか! 普通はいなきゃいけないよ。遅刻、サボり、早退ばかりの方が悪いんだから。シン、なんか機嫌悪そうだね? なんかあった?」
「別に」
「本当に? なんかあるなら言ってよ?」
「別に何もねぇよ」
「それならいいけど。あ、じゃあ、これ、シーツ君に渡しておいてよ」
「なんで俺が」
「だって兄弟だろ? これね、ミュージックプレイヤーなんだけど、シーツ君が持ってた奴を更に小型にしたんだ。シーツ君に、もっと小さくできないかなぁって相談されてて、それが出来上がったからさ。シンなら、シーツ君にどこかで会うだろう? その時でいいから——」
「どこかでって、どこで会う訳? 俺は一人暮らし。アイツは実家から通ってる。学部も生物学と科学で違う。だから俺とお前の、アイツに会う確立は同じ。兄弟ってだけで無闇に会う訳ねぇし」
「そっか。そう言われればそうだね」
エノツは苦笑いしながら、頷いた。
「でも流石だな、未来の有名電子工学者なだけあるよ。そのミュージックプレイヤー、最新のだろ? それを簡単にもっと小さくしましたってか? お前は早く世に出た方がいいよ。有名になる。その時は俺の事も有名にしてくれよ?」
「何言ってんの。世の中に最新の物が出回ってるからって、それが最新の技術だとは限らないよ。それに腕がいいからってだけじゃ、有名にはならない。ヴィルトシュバイン・ハバーリさんがそうだろう?」
ヴィルトシュバイン・ハバーリ。
彼は元メカトロニクスの学者でもあり、その技術方面では名を残す程の人物だ。
しかし、シンバは彼を違う意味で知っている。
現在、クレマチスと言う町でワイルドボーと言う怪しげな店を経営している。
その店には駄菓子などが置いてあり、シンバが幼い頃、よく行った場所なのだ。
ボサボサの頭に汚いエプロン姿、それにサンダル履き。元メカトロニクスの学者だなんて、信じられない姿だ。それでも綺麗な奥さんがいるのだから、世の中、おかしい。
「確かに。それは言えてる。あの人、なんで電子工学を捨てて、妙な店開いてんだ?」
「僕に聞かれてもわかる訳ないよ。あ、次の授業が始まる。じゃあ、僕、行くね?」
「あぁ、それ、渡しといてやるよ」
「え? 本当?」
「俺、別に授業出ないし。生物学のクラスに散歩に行ってもいいし」
「授業出なよ! 幾ら成績良くても、卒業できなくなるよ?」
「そら、お前、そこは親の地位を利用してだな」
「笑えないから! じゃあ、とりあえず、お願い」
エノツは言いながら、シンバの手の中にミュージックプレイヤーを渡した。
「僕は行くけど、シンも授業出るんだよ? じゃあ、またね?」
手を振るエノツに、シンバも軽く手を上げる。
——未来がある奴はいいなぁと思う。
——エノッチは小さい頃から電子工学者になりたかった。
——この大学に合格し、更に電子工学生にもなれた。
——向き、不向きがある中で、更に自分が思い描いた夢と現実が一致した瞬間だろう。
——俺は何になりたかったのだろうか。
——科学生になった事が嫌な訳じゃない。
——他の学部よりは全然いい。
——だけど、この場所にいる事が、本当に俺のいる場所なのだろうか?
——最近、よくわからなくなる。
生物学のクラスがある階に行く為、エレベーターに乗った。
広いエレベーターに一人で乗り込み、扉が閉まる瞬間、女が駆け込んで来た。
「ハァ、ハァ、ハァ、すいません・・・・・・」
と、息を切らし、少し高い声で呟いた。
「何階?」
そう聞くと、
「えっと、生物学のクラスは何階でしたっけ?」
と、聞き返された。
「8階。同じだ」
シンバはそう答え、エレベーターのボタンが8階に点滅してる事を女に見せるように、その場から、少し下がった。
女はチラッとシンバを見ると、
「・・・・・・あ、あの、挨拶が遅れました、私、ポスターを届けに来た者なんですけど」
と、行き成り、頭を下げて、そんな事を言い出した。
「この度は、うちの会社で依頼してポスターを作って下さって、有り難う御座います!」
「もう着くよ」
「あ、ハイ、そうですね、こんな所で話す事じゃないですね」
「俺に話す事でもない」
「え?」
エレベーターの扉が開き、シンバは、女より先に下りた。
どんどん歩いて行くシンバに、女はあたふたして付いて来る。
そして、シンバが生物学のクラスの前で足を止めた。
「兄貴? どうしたの?」
と、中から出て来たシンバそっくりなシーツに、女は驚いた顔をする。
「エノッチに頼まれたモノを渡す為と、お前の客をここ迄、案内してきた」
と、シンバは、エノツから頼まれたミュージックプレイヤーをシーツの手の中に入れ、女を見ると、女は、
「す、すいません、私、てっきり、ウィルティスさんだとばかり!」
と、慌てて、そう言ったが、シンバもウィルティスに変わりはない。
言うならば、シーツだと思っていたと言うのが正しい。
「あぁ、ポスターが出来たんですか? でも兄貴、どうしてボクのお客さんだってわかったの?」
「俺の顔をチラッて見て、俺に関係のない話をし出したから」
「そっか。ボクと間違えてるってわかったんだね。それで、どうしてボクが生物学のクラスにいると思ったの?」
「研究員のお前は、もうすぐ行われる発表会の為、研究生達にイロイロとウザイ指導してんだろうなって思ってさ」
「もうすぐ発表会があるから指導してるのは正解だけど、ウザくはない! その生物学のポスター、ボクが担当する事になってるしね。兄貴のクラスのポスターは?」
「知らねぇよ、興味ないし」
「ちゃんと知っておくべきだよ! 全く! 科学研究員は可哀想だね、兄貴みたいな研究生がいるから!」
女はシンバとシーツの真ん中でオロオロしている。
「あ、で、ポスター見せてもらってもいいですか?」
シーツが女にそう言うと、女はホッとして、
「はい、模様が綺麗に仕上がっています」
と、ポスターを開いて見せた。
驚いたのはシンバだ。
そのポスターには、シンバの頭から離れない蝶の羽模様が描かれている。
「うん、いい感じだね。どう? 兄貴」
「・・・・・・この模様は?」
「これ? これね、クロリクさんがデザインしてくれたんだ」
「クロリク?」
「ほら、リーフウッドの村の・・・・・・ボク達の研究に協力してくれるって言う——」
「リスティア・フィン・クロリク」
「うん、そう、彼女のデザインなんだ。綺麗だろう?」
——もしかしたら、彼女もあの蝶を見たのか?
——あの大陸にいた蝶だ、彼女が見ていてもおかしくはない。
——あの大陸のどこかには大量にいるのかもしれない。
——この模様の羽を持った蝶が。
「でも本当に美しい模様ですわね、こんな模様、とても想像できないです、自然が生み出した芸術ってあるでしょう? そう言う事ですよね。この蝶はなんて言う蝶なんですか?」
「こんな模様の蝶はいませんよ、いたら新種ですね」
「そうなんですか! では、デザインをされた方は才能があるんでしょうねぇ」
ポスターを持って来た女は、デザインを誉めまくり、そして、ふと気付いたように、
「この模様、アナタ達に似てません?」
と、言った。
「え? ボク? 達?」
「ええ、ほら、これ、模様が左右一緒で、鏡に映したように。アナタ達が二人、背中合わせになって、膝を抱えて座ったら、ほら、この模様、どことなく、そういう模様にも見える」
「・・・・・・ハハハ、模様に似てるなんて言われたの初めてだね、ね? 兄貴? 兄貴!?」
額を押さえ、苦しそうに、前屈みになっているシンバに、シーツは驚く。
「どうしたんだよ? 兄貴? 頭が痛いの!?」
「・・・・・・いや、ちょっと気分が悪くなっただけだ。なぁ、シーツ、鱗粉って毒性を持ってるのか?」
「へ? 鱗粉って、蝶や蛾の? あれは毛のようなもので、毒性なんて——」
「どんな役目をしてるんだ?」
「鱗粉の役目? だから毛として腹部を包み込む役目だったり、オスは発香鱗を持ってて、交尾に必要だったり、後は水を弾いたり、香りを出したり、温度調節だったり」
「でも幻覚を見せたりする蝶がいるだろう?」
「あぁ、でもそれは、その蝶の鱗粉が幻覚を見せるんじゃないよ、蝶によってだけど、ある蝶は、ある植物を好み、その植物の葉で羽休めしたりするんだ。だけど、その植物が人間で言う所の麻薬になる植物で、たまたま、その蝶の羽に、その植物の花粉がついたりして、それを人間が触れたりした時に、幻覚を見せたりするんだ。だからって別に害はない。直ぐに正気に戻れるし、中毒になる程の強い作用はないからね」
「・・・・・・そっか。そうだよな、だから医者に言っても、大した処置もないし。そうだよな、害はないよな」
「兄貴、医者に行ったの? どこか悪いの?」
「いや、別に。最近、ちょっと頭痛が酷くて。それだけ」
「頭痛? ちゃんと診てもらった?」
「あぁ、大丈夫」
頭痛は大丈夫なのだ、問題は、脳に焼きついた蝶の羽模様——。
「あ、俺、気分悪いし、帰るよ」
「え? 兄貴、どこへ帰るの? 気分悪いなら、うちに戻るんだよね? アパートじゃないよね?」
「アパートだよ。うちに帰るより全然いい。一人の方が落ち着ける」
「じゃあ、ボクが送って行くよ、待ってて」
「バカじゃん。なんでお前と一緒に歩かなきゃなんねんだよ。うっとうしい」
「うっとうしいって!」
「そうだろう? お前の顔は見慣れすぎてて、余計ダルくなる。じゃあな」
シンバが背を向けて、歩き出すと、
「双子なんですね? でも性格は全然違うみたい? 同じ親に育てられても違うもんなんですねぇ、私は妹と性格似てますよ、でも、顔は違うけど」
と、ポスターを持って来た女が、シーツに、そう言っているのが聞こえた。
「ボクが甘えん坊だったので、親を一人占めしちゃって、兄貴は親離れが早かったから」
と、シーツが答えているのも聞こえた。
——帰ろう。
——頭が痛い。
——帰って眠るんだ。
エレベーターが来るのを待っている間、吐き気がして、シンバはその場に座り込んだ。
「大丈夫?」
と、シンバの背をソッと擦る優しい手。
振り向くと——。
シンバは何故か驚いて、逃げるように、しゃがんだまま、後退する。
「どうしたの?」
「・・・・・・リスティア・フィン・クロリク?」
「この大学の人達には、すっかり有名人ね、アタシ」
そう言って笑う彼女は、シンバに手を差し伸べ、
「大丈夫? 立てる? アナタ、確か、最初に村に来た人よね? ビレッジ発見者だっけ?」
そう言った。
「・・・・・・いや、俺じゃない。それは弟のシーツだ」
「いいえ、アナタよ」
「え?」
「弟さんは知ってるわ、研究の手助けをしてるんですもの。手助けと言っても、わかる事しか答えてないけれど。だけど、最初に村に来た人はアナタだったでしょ?」
——何故、わかるんだろう?
——違うと言い切るべきか。
——いや、そうだと素直に認めるべきか。
「それより、どうして言葉? アーリス語は話せないと聞いていたけど?」
シンバは、立ち上がって、溜息を吐きながら、違う話を切り出し、話題から逃げた。
「これでも勉強家だから」
当たり前のようにそう言った彼女。
「幾ら勉強家でも、話せない言葉を数日でマスターする訳ないだろう?」
「あら、そうかしら? 簡単だったわ、だって、アーリス語は、アーリスの歴史を辿り、全ての言語をひとつにしたようなものだから」
「・・・・・・遥か、遥か、遠い昔、このアーリスにどれだけの言語が存在したのか、アンタ、知ってんの? もう地形も違う。昔、存在した大陸も、今はどこにもない。それだけ遠い遠い昔の事、わかってんの?」
「わかってるわ」
「よく言うよ、わかる訳ないだろ、あんな文明の遅れたビレッジで育って、何を知ってるって言うんだ?」
「育ちは関係あるのかしら? こんな立派な大学に通ってる人間が、どれだけ、何を知ってるって言うの? 何も知らないから、高度文明を更に高度にしようとしてるんでしょ?」
「何が言いたいんだ」
「歴史とは人類の精神。その精神に最も大きな影響を与えた者、誰だかわかる?」
「は?」
「アナタはこの世界がもう昔とは違う事を口にした。地形も違う、存在した大陸もなければ、そこにあった文明も全て消えた。それは何故——?」
「は?」
「答えて?」
「・・・・・・説は色々ある。今だって、陸橋説、地球収縮説、アイソスタシー、海洋不変説、大陸移動説なども常に考えられているし、気象による変化もある」
「つまり、自然災害って言いたい?」
「・・・・・・」
「アタシが住んでいた村に名はなかったわ。当たり前よね、この世界に存在しないとされているモノに名などある訳がない。只、自分達をルナティアンと呼んでいた。アタシ達自身が存在する為にある呼び名ね。アタシ達は自然の神々を信じ、人々の自然への神秘感や恐怖心から発生する神々を崇めていたのよ。アタシ達の世界には沢山の神がいた」
「・・・・・・」
「アナタ達の世界に神はないと聞いたわ、だけど、神は存在する」
「神が存在する?」
「アナタ達の生き方は神の教えそのものだわ。全てを運命だと受け入れるアナタ達は神に跪いているのと同じ」
「・・・・・・意味わかんねぇ。今、こうして俺がここにいる事、それが運命だと受け入れる、これのどこが神の教え? 別に自然への神秘感も恐怖心も関係ないと思うけど?」
「ええ、アタシ達の神とは違うわね。寧ろ、アタシ達が信じていた神なんて、それこそ、全て説明がついてしまう。神秘感や恐怖心などというものを心に植え付けたのは、全能なる神だもの」
「全能なる神?」
「神に近付きたければ、このまま文明を壊さない事ね。だけど、そう簡単に神には近づけない。神の領域は決して手に届かない。神は全て見ている。全ての運命は神が決める。だから、文明は壊れる。何度も、何度も、この星が動き続ける限り——」
「・・・・・・アンタ何者?」
「ビレッジの長の娘よ」
「嘘くせぇ」
「嘘だと思うの? 只の自己歴史調査を語っただけなのに?」
「歴史調査? そんな風には聞こえなかったけどな」
「じゃあ、アタシは何が言いたかったと思う?」
「・・・・・・」
「わからない? 運命は変えられないって事よ。例え、違う道を歩んでも、神は運命を変えてくれない。だから全て壊れる——」
「・・・・・・壊れるって何が?」
「と、まぁ、そう思ったのよ、アタシは」
「は?」
「イエス・キリストって人物の謎。それを調査してるの。彼こそ、人類の精神に最も大きな影響を与えた者だと、アナタ達の世界を見て、確信したわ。アタシが住んでいたビレッジでは宗教観が違い過ぎてたけど、様々な神が存在していたから、その人物も歴史の人物として本の中に出てくるのよ。興味を持って、アタシなりに研究してるの。キリスト教と言っても、幾つもの宗派があって、どれもこれも、勝手な解釈で、神を冒涜しているように思えたわ。だから、アタシも冒涜した考えで、ひとつの道を導いたの」
シンバはクロリクの話にどっと疲れが出た。
神について話はしていたが、まさか宗教の話をされるとは思わなかったからだ。
シンバにとって、全く興味がない。
「悪いけど、この世界に神はいない。だから宗教もない。だから、どこの大学に行っても、アンタが学びたい宗教学もない。村にいた方が良かったかもね」
「神はいるわ」
「いねぇよ! じゃあ、どこにいるんだよ、言ってみろよ!」
「なら、どうして神と言う言葉があるの?」
「あぁ?」
「アーリス語になった時、神と言う言葉も捨てれば良かったじゃない。でも神と言う言葉が存在している。この世に存在しているから名があるのよ」
「だとしても、俺は神に会った事もねぇし、会いたいとも思わない。何かあっても、神に祈らねぇし、それが運命だと、俺は受け入れる!」
「ふふふ、おかしな人ね、それが神の教えだとさっきも言ったでしょ、運命は受け入れなさい、変える事はできないのだからって」
クスクス笑うクロリクが、シンバは不気味に思えてきた。
「ところで、さっきからエレベーターが来たままになってるけど、乗るの? アタシ、ちょっと休憩したくて、ブレイクルームに行こうと思っていたの。ポスターが出来上がったらしく、今はその事で忙しいから、アタシの村の話は、また後でいいみたい。アナタもブレイクルームに行くの?」
「・・・・・・いいや、俺は階段で下りて帰る」
そう言って、背を向けるシンバ。だが、直ぐに振り向いて、
「あのポスターの模様、蝶の羽の模様から考えたのか?」
そう聞いた。
「いいえ、双子から」
「双子?」
「イエス・キリストが双子だったら。それがアタシの冒涜した考えで、導いたひとつの道よ。どうして蝶が?」
「・・・・・・いや、別に」
「蝶はアタシ達の村で予言を意味したわ」
「予言?」
「双子の片方は殺すの。蝶の羽を片方だけ千切るように、双子の片方は殺す」
「・・・・・・」
「殺さなければならないと予言されるのよ。同じ姿の者がもう一人なんて必要ないでしょう? アナタ達だったら、どちらが必要ないのかしら?」
頭の中で、蝶が舞う。
舞って、舞って、必要ないのは、お前だと、伝える——。
呆然としているシンバに、クスッと笑い、まるで冗談を言った後のような悪戯っぽい顔をして、クロリクはエレベーターに乗った。
「・・・・・・必要ないのは俺じゃない!」
シンバは頭の中の蝶に、そう呟いた。
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